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(6)一つの心にとっての全て(三日前)-2

 机の上に広げた、思い出で彩られていたはずの文庫本、そこで語られていた物語が、どす黒い影を持った噂話で汚されていった。


 僕は、自分の目から見えない血が流れ落ちるのを感じた気がした。その血はぽたぽたと垂れ落ち、二度と落ちない染みを紙の上に作っていった。全身の穴という穴からそんな血が流れ出し、ついでに全身の肉が溶けていって血だまりを作り、残った骨がゴトリと音を立てて崩れ落ちる、そんな光景がまざまざと脳裏に浮かんだ。


 悪夢でも見ていたのかもしれない。休み時間の終わりを告げるチャイムが、そんな僕の目を覚まさせてくれて、本当にありがたいと思った。授業中なら、なんとか噂話からは逃れられる。いくら退屈に思える授業でも、この日だけは、まじめに向き合おうという気になっていた。単に、浅ましい逃げ道になっていたからに過ぎないとしても。


 この日も、クラス一斉の帰りの挨拶を終えると、僕はそそくさと教室を出た。教室の一番後ろを横切る瞬間、誰かが『犯罪者』という言葉を発したのが聞こえた。自分に向けられた言葉だったと僕は理解した。あるいは、僕を示す言葉そのものなのだと。


 また目から血があふれ出した気がした。それを単なる罵倒とでもとらえた方が、よっぽど気が楽だっただろう。しかしそのときの僕は、たぶん今もそうなのだけれど、そういう割り切りができるほど要領はよくなかったし、利口でもなければ冷静さを持ってもいなかった。


 顔を(たぶん)真っ赤にして、早足で教室を出て、下駄箱に向かい、靴を履き替えるのにしくじってすっころびそうになっているのが僕だった。


 家までの道を歩く僕の足取りは、そのときの気持ちと同じで、とても重かった。何も考えていなかったのに、頭の中はいっぱいいっぱいではち切れそうだった。


 灰色をした雲のようなものが頭にのしかかって、歩き慣れた道でなければとても歩き通せないほど、目の前は真っ暗になっていた。とてつもなく不愉快で強烈な吐き気がして、胃の中身どころか内臓まで全部吐き戻してしまうんじゃないかと思うほど


 ――友利くん。


 そんな僕に投げかけられたこの言葉が、闇や雲の間から一条の光となって差し込んだ。いくら大げさな言い方になっていても、それがどれほど僕にとって不似合いでも、的を外していても、その言葉に対する反応が僕の間抜けさを、びっくりして、その驚きを全身を引きつらせることで表すことになったとしても、僕にとってはかまわないし、どんな思考も、もはや意識の埒外だった。


 信号待ちをしていた僕が、もったいつけるようにゆっくりと、古くさいロボットよりもぎこちなく振り返ると、そこに声の主がいた。


 最初、僕はその声に聞き覚えがないような気がした。しかし一瞬後には、そんなはずがないと思い直した。そして実際に振り返った先にいたその姿を見て、僕は、そう思い直したのが間違っていたのかとまた思った。


 そこにいたのは、はあはあと息を弾ませ、額に汗を浮かべて、顔を紅潮させた、一人の女の子だった。


 そんな姿を、彼女のそんな姿を見たのは初めてだった。見ることになるなんて思ってもいなかった姿だった。


 僕は、本当に最初の一瞬、それが誰なのか分からなかった。だから、僕が発した言葉につけた疑問符は、文字通りに疑問を表すものだった。


 ――辺根さん? ……どうしたの?


 彼女は肩で息をしながら、続く言葉を発しようとしていた。荒い息づかいだけが聞こえた。


 周りの音が何も聞こえなくなり、そして何もかもが見えなくなり、彼女の姿と、彼女の音だけが僕の感覚に届いているようだった。上目遣いに僕を見つめる目は少しだけ潤んでいて、その赤くなった頬や苦しそうな目の形を含めて、僕は彼女のそんな顔を見たことがなかった。


 僕は彼女を見つめながら、続く言葉を待った。それが発せられるまでに、どれほどの時間がかかったか分からない。実際、それが永遠だったとしても不思議でもないと思う。その先の時間が、永遠に訪れなかったとしても。


 彼女の姿は、それだけの、時間を止めてしまうだけの、時間の織物に折り目を作ってしまうだけの、重さというか力というか、そういうものを持っていた。少なくとも、僕にとっては。僕だけにとっては、と言うべきなのかもしれない。

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