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(2)すがる記憶(七日前)-4

 そして僕は、その衝動から解き放たれて、どう行動すればいいかを、心というよりは頭を意識して働かせなければならなくなっていた。そして、自分がどんな状況にいるか、自分の間抜けな姿が、客観的に見えるようになってきていた。


 僕を見つめる辺根さんの姿も、まるで霧の中にいた人影のようだった様子から、今現実に、僕のすぐ目の前にいる姿として、やっとはっきりと認識できるようになっていた。


 ――僕が入れてもらったんだよ、それ。


 だからこういう言葉は、口をついて出たのではなくて、意識的に発されたものだった。


 その言葉の選び方は、僕が話をするということにおいてどうしようもないほどへたくそであるというのを、如実に表していたと思う。さすがの僕も、こんなつまらない、あるいはもっと、なんというか、悪い印象を与えそうな言葉を選んだことには自分自身で驚いてしまい、きょとんとする辺根さんの姿を見て、慌てて付け足した。


 ――だから、僕も読んだんだ。すごく、面白かった。読むの大変だったけど。それで、その……今度、同じ作者の、別の本も入れてもらうつもりなんだよ。リクエストして。そっちの方も、きっと面白いだろうから。同じ文庫にあるの、知ってるんだ。だから、たぶんすぐまた入れてもらえると思う。そっちの方が、前の話なんだってさ。話自体も、けっこう違ってるらしいけど……


 しゃべりながら、もう僕は、自分が何を言っているのかよく分からなくなってきていた。意味のない言葉を並べ立てている気がして(実際そうだったろう)、不意にそのことに気づいたために、言葉に詰まってしまった。もう何も言うことなんてなかったと言った方が正しいかもしれない。


 しかしそのときに、ようやく、タイミング良く、ありがたいことに、辺根さんが口を開いてくれた。


 ――へえ……いいなぁ。私も読みたいな、それ。


 彼女の言葉で、何もかも、とっちらかっていたその場の状況、僕の思考、心の傾きの全てが、ぴたりとうまく収まってくれた。少なくとも僕にはそう思えたし、その場にいた僕よりもずっと利口なはずの彼女は、そういう雰囲気をもっとはっきりと感じたか、感じるまでもなく理解していたに違いない。


 そして彼女は、(ありがたいことに!)言葉を続けてくれた。


 ――でも、それも長いんでしょ?読むの大変でしょ、それじゃあ。

 ――う、うん……そうみたい。やっぱり上巻と下巻に分かれてるみたいだし、同じくらい分厚いから。

 ――読んだの?

 ――まだ。本屋さんで見ただけで。でも、すっごく分厚かった(半分くらいの感嘆符をつけたいところ)。

 ――じゃあ、待てばいいよね、友利くんが読み終わるの。

 ――さ、先に読んでもらってもいいよ。僕、読むの遅いし。

 ――でも、友利くんがリクエストしたんでしょ?悪いよ、私が先に読むなんてさ。

 ――いや、あの……まだ読んでないのもあるから。

 ――え?

 ――リクエストしたやつで。僕、そっち読むから。……辺根さんの方が、いっぱい読んでるでしょ。だから、先に読んでいいよ。

 ――じゃあ、入れてもらってから決めようよ。私だって、他にも読みたいの、あるし。

 ――あ……そっか。ごめん……

 ――何言ってんの、全然。


 そう答えて、彼女は少し笑った。その顔を見て、それまでとは違う形で、胸がどきりとした。


 歩き始めたのはどちらからだったのだろうか? 今ではよく分からないし、たぶんそのときもよく分かっていなかったと思うし、今となっては、どうでもいいことだ。


 とにかく、いつの間にか僕たちは並んで帰り道を、上りの階段の残りから始まって急な坂、小さな公園、住宅地(団地と言いたい)の端っこを通る、右側が緩やかな崖になっていて、ずっと遠くまで見渡せる(見えるのはたくさんの家と中学校と墓地という、別に見たくもならない、そして特に風情もない景色の取り合わせ)道を歩いて行った。


 その間ずっと話し続けられていたというのは、僕にしてはできすぎた振る舞いだった。後にも先にも、それだけのことができたという経験はなかったのだから。


 話は、僕たちを初めてつないだあの叙事詩から、もう一つの叙事詩に至って、さらに別の叙事詩に移っていった。


 それは僕がずっと前にある理由からリクエストしておきながら手をつけていなかったもので、二つの前者とは時代も国も全く違う。タイトルが印象的で、なんでかは分からないけれど、聞いたことがあった。ただし、知っていた方は末尾が『の指輪』となっていて、叙事詩の方は『の歌』となっている。


 僕も辺根さんも、そのあたりの知識は共通していた。そこから先を知らないのも同じというのは、できすぎた偶然だろうか。


 そもそも、僕たちの出会い(僕の方から一方的な思いによるのだとしても)だって、年頃を考えればできすぎもいいところな偶然がきっかけだった。叙事詩という形式に、物を読むということにおいても鈍すぎる感性しか持っていない僕が、彼女と同じように(程度は違っていたかもしれないにせよ)魅了されたというのは、都合がいい以上に、端的に不思議と言っていい出来事のように思える。


 ずいぶん後の話になるけれど、結局僕は他にあと二つ『の歌』とつく文庫本を図書室に入れてもらった。読んだのは、僕と彼女だけだと思う。


 そんな僕と彼女は、きっと変な存在だったのだろうと思う。だから、からかう格好の組み合わせだったに違いない。そう気づくのは、もちろん彼女と初めて帰り道を歩いた日からはもっと後になってからの話。


 その日彼女とは、その後に決まった別れの場所になる交差点で、僕はまるで窓でも拭いているような動作で一度だけ手を振って別れた。彼女は、少なくともそんな動作をしたりはしなかった。


 ランドセルのベルトを左右の手でそれぞれつかむ姿勢で、歩いていった。僕は振った後の寄る辺ない(この言葉は適切なのか?)手をゆっくりと下ろしながら、そんな姿を見送った。

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