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(2)すがる記憶(七日前)-3

 それまで抱いてきた思いが、そんな思いが詰まって詰まってはち切れそうになっていた心が、音もなくゆっくりとはじけて、全身に心地よい感覚が染み渡っていった。呆然としている暇はないとやっと思い直すことができたのは、しばらくの沈黙の後、彼女がようやく、


 ――友利くん?


 と答えてからだった。その声を聞いてはっとして、僕は慌てて言葉を発した。


 ――辺根さん、あの……


 彼女は足を止めていた。そりゃそうだろう、僕を無視するわけにはいかなかったし、その割には僕は言葉につまって、ろくに言葉を続けられなかったのだから。


 僕は、一度は心の中から退散して、頭の中から忘れられていた緊張がまた心を締め付け始めるのを感じながら、どうにか言葉を絞り出した。


 ――図書室でさ。あれ、読んでたでしょ、あの……


 僕は本の名前を言った。古くて長い叙事詩を大学の先生が日本語に訳したもの。僕がリクエストして図書室に入れてもらったもの。僕はもう二回読んでいたもの。あの日、初めて図書室で出くわしたあの日、彼女が下巻を、僕が上巻を広げていたもの。


 こんなことまで言ったわけではない。僕が言ったのは、本の名前だけだった。


 ――え……ああ、うん……読んだよ。


 いつまでも見下ろさせているのもどうかと思い、僕は階段を上った。そして次に、並んで歩くのもどうかと思った。しかし、他にどうしようもなかっただろうから、僕は彼女の横に一気にたどり着いた。彼女はまだ怪訝な顔をしていた。


 僕は、顔がとんでもなく熱くなっているのを感じた。


 何かひどいへまをやらかしそうだからか、あるいはもうやらかしてしまっているせいか、とてつもなく恥ずかしかった。あるいは単に、その年頃の男の子が女の子と接しようとするときに決まって感じるようなもののせいだったのかもしれない。


 誰かとの話を盛り上げるということについて、自分が絶望的にへたくそなのだと初めて気がついたのは、このときだった。


 それは結局、何年経っても改善しなかった。技術の問題というよりは、背景になる、知識とか趣味とか好みとかの方がよっぽど重要で、そこが全く変わらなかったからでもある。


 しかし一方では、僕の持つそんな背景、つまりは近いところにいる人たちから見向きもされないようなものへ眼差しを向けることや、古い物を過去という山に埋もれた財宝と考えて新しい物を店先を短期間飾っては姿を消していく徒花のような一品と見なすような態度が、珍しく、都合がよく、辛抱強い奇特な相手であった場合には、ぴたりとはまるときもあるということは、もっと先に知っていたりもした。つまりは鹿屋さん(今ではひどく遠い、遠いところにいるように感じる)と出会ったときに。


 そういう都合の良さが、彼女、辺根さんに対してもきっと適用できるに違いないと計算ずくだったというわけではない。そういうことが起こりえると、起こりえるなら彼女に違いないと、心のどこか、ずっと奥底にある、意識からは離れていても無意識とは隣り合っているどこかで、知らず知らずのうちに思い込んでいたというだけのことだ。


 この「知らず知らずのうちに」というのが重要、あるいはやっかいで、僕はその思い込みによって、行動したり、行動しようしたり、ためらいのせいで行動できなかったりした。今この瞬間、その思い込みというかそれによって作られた衝動が、思いが、やっと果たされたということになる。

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