(2)すがる記憶(七日前)-2
僕が彼女の存在を初めて意識するようになったのは、図書室の僕の指定席に、彼女が座っているのを見つけたからだった。
それを僕がどう思ったのかと言えば、最初は少し、むっとしていた。年相応に、あるいはそれ以上に、僕は子供じみた感覚の持ち主だったというわけだ。
でも、そういうことが何度かあってから、彼女が、僕がリクエストして入れてもらった本を読んでいたりすることがあるのを知った。文庫本がぎちぎちに詰め込まれていたはずの書架に、ぽっかりと隙間が空いているのを見つけ、まさかと思って彼女の方を見ると、どうやらその隙間にあるべきだった本を、机に広げているらしいのが分かった。
そんな彼女の姿を見ると、それまでの指定席を横取りされていたなどという考えはきれいさっぱり消えてなくなり、ただ胸の底から、うれしさがわき上がってきていた。
おそらくは、生まれて初めての感覚だった。鹿屋さんと一緒にいるときに感じられるものとよく似ていたけれど、息が止まりそうになって、胸がどきどきして、世界の見え方がまるで変わってしまうな、しかし穏やかな衝撃を受けたのは、全く初めてのことだった。
彼女、その珍しい姓のために時々からかわれているのを横目に見たことがあるくらいだった彼女に、感覚の何もかもが向かっているみたいになってしまった。たった一つの本を読むという体験を共有できただけで(しかも一方的に僕が彼女に対して思っているだけで)、見過ごしてきた彼女の存在が、僕の心の中で、とんでもなく大きなものになった。
僕は書架から、隙間になっているところの隣の本を手にして、彼女と同じ机、長方形の机の対角の席に座った。彼女は何も反応しなかった。彼女が下巻、僕が上巻の、同じ本を手にしていた。
それは大昔の冒険譚で、彼女が広げていたのはちょうど下巻の真ん中あたりだったから、正体を隠していたずっと雌伏していた主人公が、弓を引いてついに大暴れを始めようとしているころだっただろう。僕が開いたところでは、その主人公が巨人の住む洞窟に閉じ込められて窮地に陥っていた。
その日の昼休みの間、そうやって過ごした。昼休みが終わったことを告げるチャイムが鳴ると、ずっとその本に向かっていた彼女は、ようやく顔を上げた。どこかぼんやりとした様子でゆっくりと立ち上がって、僕の後ろを通って、書架に本を戻した。
彼女が、書架に空いた隙間が広がっていたことに気づいていたかは分からない。僕は、彼女が図書室から出て行くまでをこっそりと見届けてから、一ページも読み進められていない本を書架に戻して、教室に向かった。
それから僕が彼女に初めて話しかけるまでに何日かかったか、何度昼休みの図書室で同じ机に座ったか、片手では数えられない。
話しかけるタイミングを探すために、たとえば掃除の時間にさりげなく近づけないか、近づけたところでどんなことをどんな声で発せばいいのか、堂々巡りを続けていた。
そういうことを考えると、自分の奥手さに、我ながらうんざりする。しかし今にして、十五年近い時間を隔てて思ってみれば、そのときの胸の苦しさだって、静かに輝く一つのいい思い出になってはいる。
僕がついに目標を達成したのは、最初に図書室で出くわしてから、二週間近く経ってからだった。
その日僕は、僕と彼女の学校からの帰り道が、同じ団地に住んでいるために、ほとんど重なり合っているということを知った。下駄箱の前で見つけた彼女が、いつまで経っても帰り道を歩く僕の前にいるという状況が、そう教えてくれた。
道のりの半分ほどのところ(長い長い階段が続いていた)で、僕はついに、誰もいないことをきょろきょろ辺りを見回して入念に確認してから、彼女の名前を呼んだ。たぶん、間抜けな調子で。
彼女は一度びくっとしてから、ゆっくりと僕の方に振り向いた。ほんの少しだけ眉根を寄せて、怪訝な目つきを赤いランドセル(彼女はその色を選んでいた)越しに僕に向けた。
そのとき初めて、僕は彼女の目、丸くてぱっちりとした大きな目を正面から見た。黒々としてつやつやした目に見つめられて、そのときの僕と彼女の位置関係を忠実に言えば見下ろされて、僕の胸の高鳴り、早まった鼓動が、一瞬ぴたりと止まった気がした。




