(5)ヒーローの挫折-6
今になって、つまりはずっと遠ざかってしまったこのときの記憶をたどってみると、彼女が本当にその言葉通りのことを思っていたのかははっきりしないと言わなければならない。
でも彼女は、嗚咽を漏らして泣く僕が顔を上げるまで、辛抱強く待っていてくれた。その事実は、そのときも、今も、僕にとって本当に大切な、宝物にも等しい思い出だった。
今も僕の財布の中に、いろんなカードの隙間に、紛れるように二つに折りたたまれたメモが差し込まれている。鹿屋さんが持ち歩いていた手帳から破りとられた一ページで、十一桁の電話番号と、百年くらい前の小説の題名とその出版された年の数字を組み合わせて作られたメールアドレスが書かれている。ひとしきり泣き終えてようやく顔を上げた僕に、鹿屋さんがその場で書いて、渡してくれたものだった。
もうすっかりあちこち擦れ、折り目もくっきりとついているけれど、僕はずっとそれを、最初はペンケースのポケットに、そして財布の中に入れていた。それを渡されたときの僕は携帯電話(彼女にならって略さずに言おう)を持っていなかったから(父の方針による。僕も別に必要とは感じていなかった)、そういう形でなければ僕にそれを伝えることはできなかったのだ。
その場しのぎに、僕をなだめるための手段として、鹿屋さんはそうしたのかもしれなかった。それでも、僕はその小さな紙片を持ち続けていた。もう決して会うことのなかった彼女、僕にとって途方もなく大切な存在だった彼女との、確かなつながりとして。
そのメモを使って連絡を取ることは、結局一度もなかった。それは別に僕があっさりと彼女を忘れられたからでもなければ、彼女の代わりを見つけたからでも、彼女の存在が必要なかったからでもない。
初めて携帯電話を手にしたとき(それはこのときから三年ほどしてからのこと)、最初にやったのはそのメモに書かれた番号と文字列を打ち込んで登録することだった。そのとき、僕が彼女の名前を知ったときのことを思い出した。
あの雨音、シュークリームの生地が歯と唇に触れる感触、彼女の声。そういうものが一挙によみがえって、そのときの光景が頭の中に、あらゆる感覚とともにまざまざと再現された気がした。
僕はその後もメモを手放そうとはしなかった。時には、メモを取り出して彼女の字体、僕よりも遙かに綺麗で丁寧なその文字を眺めたりした。それでも僕が彼女に連絡を取ろうとしなかった理由を考えてみれば、たぶん、僕にとっても彼女にとっても、あの瞬間の積み重ね、あの頃の思い出は、あの頃のままとっておくしかなかったからだろうと思う。コミュニケーションの形や時期が問題なのではなくて、僕の思い出は、そのメモそのものの中に、永久に保存されていたに違いなかったのだから。
ようやく嗚咽が収まって、涙をぬぐった僕は、顔を上げた。そして彼女と一緒に歩き出した――正確に言えば、何も言わずに歩き始めた僕に、彼女は何も言わずに並んでついてきてくれた。その後は、何も話せなかった。話してしまうと、また涙と嗚咽が止まらなくなるに違いないと、僕は思っていた。それを必死で我慢していたから、何も話せなかった。彼女もそれを悟ってくれたのか、何も言うことはなかった。
いつもの、それまでのいつもの交差点まで来たとき、少しうつむきながら、僕は、
――ありがとう、ございました。
とだけ言った。彼女は何か答えた。そして僕は顔を上げて、横断歩道に向かって歩き出しながら、
――さようなら、鹿屋さん。
と言った。彼女は、
――またね、友利くん。
と答えた。
道路の向こう側までたどり着くと、僕は大げさに彼女に手を振った。彼女は小さく手を振り返してくれた。そして歩いていかなければならない方向に向き直ると、どっと涙がまたあふれ出た。
僕はもう振り返らなかった。だから僕が最後に見た彼女の姿は、涙によって曇ってはいない。そして僕は、ただひたすら、どうやってこの涙を止めようか、どうやってごまかそうかという、あまりにもどうでもいいことに心を向けて、学校までの道を、歩いていった。




