(4)ヒーローの日常-4
なんて都合のいい場所だろう、とか思う余裕は、その頃の僕にはなかった。ガラスの割れた窓にぴょんと飛び込んだウーティスを追いかけて、映画のようには簡単にぱりんと言ってくれない窓ガラスの残りを蹴散らし、なんとか体を窓から潜り込ませた。
――ほら、あれさ。
がらんとしてほこりっぽくて、花火のような焼けた金属の匂いがする。天井の明かり取りからかろうじて入る光に照らされた空間の、向こう側をウーティスが指さした。その小さな、指とも言えないような指で。
それに導かれた僕の視線が行き当たったのは、うずくまる一匹のネズミだった。かなり大きくて、僕はこのとき初めて実物の、ハムスター以外のネズミを見たのだけれど、その大きさからすると、そいつはドブネズミというやつだったと思う。もっとも、僕が見たときには、たぶんその原型よりも遙かに大きくなっていたのだろうけれど。
そいつが、体をぶるぶる痙攣させながら、だんだんと巨大化していく様が見て取れた。僕は背筋が凍るのを感じ、一つ息を飲み込んだ。
――あれが、ロートスを取り込んだんだ。すぐにまた化け物になる。早く変身してやっつけなきゃ!
これ以上ないほど簡潔明瞭でご親切なウーティスの説明の言葉を聞き終える前に、僕は、ランドセルとプールバッグを放り出し、いそいそと服を脱ぎ始めていた。
――何してんの?
ウーティスが、心底あきれたという様子で、つぶやくように言った。僕はそんなウーティスは見ないで、化け物になろうとしているネズミを見ながら、答えた。
――準備だよ。
――何のさ!
――変身の!
――何を悠長に……
――僕にとっては、大問題なんだよ!
そう言い終わるとき、僕は下着ごと下げたズボンが靴で引っかかり、脱ぐ順番を間違えていたのに気づいたところだった。これ以上ないほど間抜けな格好を自分がしていることにようやく思い当たり、遅ればせながら恥ずかしさがわき上がって、でもとにかく今は、服を脱ぐことに集中しなければいけないんだと自分に言い聞かせた。
靴を投げ捨て、ズボンを放り捨ててようやく裸になると、足の裏がほこりっぽい工場の床に触れて不快な感触が残った。
そんな感覚から意識を背けて、僕は、精神を集中させながら、目を閉じて、叫んだ。まるで、これまで習慣にしてきた挨拶のように、その言葉は、なめらかに喉の奥から発せられた。
――アンティノース! オルタレーション!
僕は目を閉じっぱなしでいたけど、まぶた越しにでも明るくなっているのが分かったから、たぶん、また下腹部のあたりから光が噴出して、僕の体に巻き付いていったのだろう。それがわずかに、手足、胸、腹、股間に感触を与えているのが分かった。そしてウーティスから教わったとおりに、手を左のこめかみのあたりに当て、ゆっくりと右に動かした。開けてみた目の周りで光がはじけて、一瞬目がくらんだけれど、顔を覆うマスクが現れたことに、僕は安堵し、おそるおそる視線を体に向けて、自分の格好を点検してみた。
肘近くまである手袋、ブーツ、存在する意味が一番分からないマント、そして体を覆う、しかしぴったりとして体の線を露出させる装束、その上から股間だけは隠してくれるパレオ。手袋に覆われた手でマスクを触ってみても、何の感触も伝わってこなかった。手袋の感触すらもないというのはどういうことだろうと、冷や汗を一筋垂らしつつ、手を握ったり開いたりしながら、ぼんやりと思った。
――今のうちにけりをつけた方がいいよ。早く!
ウーティスの言葉に我に返らされ、僕はあのネズミを見た。そいつはいつの間にか、というか、まあ僕の変身の間になのだろうけれど、僕の腰のあたりまでの背丈に大きくなっていた。まだ痙攣していたから、変化の途上だったのかもしれない。
そいつの様子を見て、駆け出そうとした僕の足がぴたりと止まった。いったい僕は、これからどんなものに触れようとしているのだろうか、という疑念が、頭をよぎった。
僕はこの年頃からすでに、虫が大の苦手だった。小さな動物に触れるのも恐ろしかった。指先に乗るような大きさの蜘蛛が怖くて、びっくりして声を上げたこともある。僕が目にしているのはネズミ、正確には元ネズミで化け物になりつつある何かだったけれど、それにしたって同じことだった。
触れるのも恐ろしかった。もっときちんとした言い方をすれば、僕はそういうことを怖がる人間だということを忘れていたということに思い当たってしまった。自分がどんな力を持っているのか知っていたところで、そういうことを嫌悪する感覚が消えるわけではなかったのだから、自分が何をしようとしているのか、そうしようとしていることを恐れるくらい情けない人間だということを、僕は思い出したのだ。




