(3)憧れの始まり-9
その頃にはバスの発車時間が迫っていて、僕と鹿屋さんはシュークリームの残骸とコップの中身の残りを片付け、席を立った。店を出ると、また激しくなった雨音がやかましく耳に飛び込んできた。
バスを待つ人の小さな列ができていて、みんな傘を差しているせいで間隔が開きすぎで、実際の人数よりも長く見えた。僕が先になって、僕と鹿屋さんはその列の後ろに並んだ。
そのバス停が始発のくせに時間ぎりぎりにしか来てくれないバスが到着すると、傘から垂れ落ちた水滴だらけのバスに乗り込んだ。席は余裕があったけれど、僕はバスの中程で立っていることを選んだ。鹿屋さんもそれに倣ってくれた。
僕が座らなかったのは、僕たちが並んで座れる席がなかったからだ。鹿屋さんは、そんな僕の考えを知っていただろうか? 少なくとも、付き合ってくれはした。
バスの中では、何も話さなかった。そして鹿屋さんの方が、先にバスから降りた。雨の降り続く中、聞いたことのないバス停で(もちろんそんなことはあり得ないのだけれど、本当に聞き覚えがなかったのだから仕方がない)。
僕はその姿を、ずっと見送った。広げられた傘の他に、何も見えていなくても。心の中で手を振って、と付け加えておく。
家に向かう道を歩いていて、傘や地面、屋根、そういうものが立てる雨音が、心地よいと初めて思った。靴と靴下がずぶ濡れになってもかまわなかった。どうせすぐに脱げるのだし。
歩きながら、それはちょうど六分ほどなのだけれど、その六分の間に、この日に僕が見てきた光景が、頭の中でいくつものモニターに映し出されるようにして再生された。六分間に、大急ぎの同時上映で。
雨音は、頭の中で万雷の拍手へと取って代わった。記憶は切り刻まれ、めちゃくちゃな順番で一つの映画になった。彼女の姿、彼女の美術館での姿、彼女の喫茶店での姿、彼女の話、絵のこと、本のこと、また絵のこと、僕と初めて目を合わせてくれたときの姿。最後は決まって、彼女の微笑みが映し出される場面で終わる。
それにもいくつもヴァリエーションがあって、ストラップを渡したときのもの、落としたチケットを渡されたときのもの、喫茶店で話している間に見せてくれたもの、何か記憶が僕の都合のいいように改ざんというかコラージュされているような気もしたけれど、それでもかまわなかった。いくら好き勝手やっていようが、僕にとっては、絶対に正しいと思える記憶というか事実があったからだ。
家に帰って、「変な絵がいっぱい見れた?」という、僕が経験した限り最も無神経な言葉の形をした冷や水をぶっかけられるまで、その映画は続いた。
誰がそれを口にしたのかはもう覚えていないのだけれど、たぶん祖父だったと思う。父でもいい。似たような反応だったのは間違いないから。そして僕が『俗悪』という言葉を思いつくのはまだ先だったけれど、僕には同じようにそう見えていたのだから。
僕は生返事をする気にすらならず、憤然としたまま部屋にこもった。そして、写真もポストカードも図録もなく、その日あったこと、見たものを直接思い出させてくれるものがあのチケットの半券一つしかないということに今更気づき、どうにかして形になった思い出がもっとほしいと思って、ランドセルの中から適当な紙を引っ張り出して、あの絵、鹿屋さんと並んで眺めたあの絵を再現して描いてみた。あの絵の、不細工で出来損ないの兄弟がたくさんできた。
後は特段のことはない。もう十分贅言を尽くしてしまっている。鹿屋さんの絵を描こうと馬鹿な気を起こして、のっぺらぼうに彼女の服を着せた出来損ないの漫画になってしまったこととか、それでも意外にその絵のできがよく思えたとか、一晩明けて見るともっとマシに見えたとか、そんなことはどうでもいい。
ただ一つ重要、とても重要だったのは、翌日に僕は普段通りに遅めに出かけ、集団登校のみんなの僕を置いていく薄情さに感謝しつつ学校へと向かっていた時、気まぐれを起こしてバスの路線をちょうど前の日の逆方向に、鹿屋さんが降りたバス停の方に向かっていたとき、あるところで彼女の姿を遠目から見つけ、大急ぎで駆け寄ってみたら、彼女はとても驚いていたのだけれど、それが彼女と僕が毎朝落ち合うようになるきっかけになったということだけだ。




