(3)憧れの始まり-8
その後どういうやりとりがあったのかを、全く覚えていない。ともかくその後、僕たち(僕と、彼女――もう名前を知っていたから、鹿屋さんと言うことにしよう。もちろん、彼女ももう僕の名前を知っていた)は、駅の中にある喫茶店に入っていた。僕たちが向かい合って座る席にたどり着くまでには、雨音はずいぶんと小さくなっていた。
僕の性格というか能力というか、どういう人間なのかを考えれば、こんな相手(年上、女性)を「雨宿りでもしませんか」とかなんとか言いくるめるなんてできるわけがないのだから、たぶん鹿屋さんの方から誘ってくれたのだと思う。雨の中、あまりにも手持ちぶさたになっていた僕を、心配してくれたのかもしれない。
一つのトレイに、僕たち二人分の、二個のシュークリームと二つのアイスティーが乗せられていた。僕は、自分の分は自分でお代を払った(もらった小遣いからすればもう赤字になっている)。鹿屋さんも同じ物を頼んでいた。合わせてくれたのかもしれない。
ぽつりぽつりと、少しずつ話をした。
あのストラップを渡したときのことについて話が及ぶと、彼女はまたお礼を言った。僕は慌ててそれを否定した。そして大げさに、僕が落としたチケットを拾ってくれたことにお礼を言った。彼女も、僕と同じようにそれを否定した。ただし彼女は、どうやら余裕たっぷりに微笑みながら。
不思議なことに、そこであの展覧会についての話は終わった。もうそのことを語ってしまえば、触れる必要もないということだったのだろうか。彼女は代わりに、僕が電車の中で、正確に言えば彼女の隣で広げていた文庫本に水を向けた。
――私も好きなんだ、その本。ちょっと違ってるみたいだけど。
――違うって、何がですか?
――題名とか。出版社がたぶん違うから……見せてもらえる?
――(手渡しながら)あっ、はい。
彼女は、僕が書店でつけてもらっていた、藁のような色をしたカバー越しに題名を確認しようとして、それがうまくいかないと、ゆっくりと表紙をほんの少しだけ開いた。
あまり本を開かないようにしていたらしくて、そういう控えめな意識が僕とぴったり同じだったから、僕は少し驚き、同時にとてもうれしくなって、表紙をつまむその指の、つやつやした爪を見つめた。
――ああ、やっぱり……私の持ってるのだと、題名が……
彼女は、僕が読んでいたその本の、別の名前(そっちの方が原語の意味に近いらしいと知ったのは、もう少し後のこと)を口にした。
顔はずっと手元の(僕の)本に向けられたまま、彼女はぺらぺらとページをめくっていった。どうやら最後の挿絵にたどり着いたところで、ぱたんを閉じて、本を僕に手渡した。
この都合のいい偶然に感謝し、内心では(きっとずっとそうだったのだけれど)どきどきしながら、僕は鞄を開けて押し込んだ。鞄の中の先客が苦しそうに湾曲して、その存在をきっぱりと自己主張してきた。
僕は、その先客を彼女に紹介することを思いついた。これ以上僕たちに重なるところがあると、まして、その本が僕たちの共通の経験に導いてくれるなんて考えていたわけではない。ただ、交差するくらいのことはできるだろうと思っただけだった。そして、僕のその狙いは、珍しく実際に的中することになる。
その本、つまりは学校の図書室で借りていて、このお出かけの連れ合いに選んだ本について話した。まだ途中までしか読んでいなくて、将来「大」をつけて呼ばれる王様が活躍し始めたところだった。その名前を聞いても、彼女はきょとんとしていて、それでも僕の言うことに相づちを打って付き合ってくれてはいた。
僕が少し焦り始め、少し遡った時代の別の王様の名前を口にすると、彼女はストローで紅茶をすするのをぴたりと止めて、僕の方に目を向けてくれた。
もう十分書いてきたから、そこからどういう会話になったのかを詳しく書く必要があるとは思わない。彼女はある本の名前を口にして(川に沈められた財宝を巡る叙事詩で、名前だけは聞き覚えがあった)、その中に僕が名前を言った王様が登場人物として取り入れられているんだという知識を披露してくれたのだった。




