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幼きヒーローの肖像 ―A portrait of the hero as a young boy―  作者: 入江晶
第二部 ヒーローと少年の二重露出
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(3)憧れの始まり-7

 何か言うべきかもしれなかったけれど、僕は何も思いつかなかった。できたのは、ただ鞄をどけて、席を空けることだけだった。


 そうするしかなかったし、そうすることしかできなかった。ぎこちなく、たぶんわざとらしく。それが恥ずかしかったからか、彼女に何を言うこともできず、抱きかかえた鞄越しに文庫本をまた開いて、そこに目を落とした。


 彼女が僕の隣に座ったのは、発車の寸前、ドアが閉まるのとほとんど同じタイミングだったと思う。その場面に移るまで、少し時間があったはずだから、彼女が何か僕に声をかけたりしていてもおかしくないと思うのだけれど、僕の記憶には何も残っていない。


 だから、次の瞬間、僕の意識の中に残っている次の瞬間には、ドアが閉じて、もう隣に彼女が座っていた。彼女がそうした間、そして目的の駅まで電車に乗っている間、僕はただ文庫本を見つめていた。ページをめくることも忘れるくらい機械的に、目だけを文字に向けて。


 僕の視界に入ったのは、椅子に腰掛けて夕陽を見る少年を描いた挿絵と、僕の手だけだった。視界の端っこに、彼女の膝頭があった。不意にそれが目に入った、というか、視界に入った。まともな言い回しを捨てれば意識に入った。


 そこに乗せられていた手、指の付け根や手首のくぼみや盛り上がり、前腕(響きが似つかわしくないけど、他に言い方がない)、そこにはうっすらと血管が浮かんでいた。その形は、僕とは全く違っているように見えた。僕よりもずっとなめらかな肌をしているように見えた。


 視界どころか僕の体は全部が固定されていて、意識だけを、僕の右隣に座っているはずの彼女に向けた。あのつやつやした爪がまた見たいと自分が感じているのに気がついたのは、降りる二つ前の駅に着いた頃のことだった。止まるときに電車が大きく揺れて、僕の意識がどこかから僕のいる場所に引き戻されたからだ。


 耳に入ってくるアナウンスに意識を向けて、今自分がどこにいるかを、全く姿勢を変えずに知った。そしてまた僕の意識は、視界の中心の挿絵と文字、それと彼女の腕と膝に向かった。


 こんな調子で駅を二つ通り過ぎ、Tと駅名が告げられて、やっと僕は落ち着きだか平静さだかなんだかを取り戻し、閉じた文庫本を鞄に押し込んで(少年は僕につきあって、結局十一分の間夕陽を見つめ続けたことになる)、降りる準備を整えた。


 そして、彼女の方が、僕よりも先に立ち上がった。まだ電車が止まりきる前に。


 僕は全くそんなことが起きるとは考えもしなかったから、唖然とするほど驚いた。僕は間抜けにも、どう言って降りるために彼女にどいてもらおうかということまで考えていたからだ。どうすればそうできるのか、分かったものでもなかったのだけれど、とにかく、そんなことを考えてはいた。


 その必要がなくなって、僕は大慌てで立ち上がり、では何を言うべきかを、頭の中で探した。何かしら、感謝を伝えなければならなかった、そのはずだった。しかし結局はその必要すらもなかった。


 彼女は僕より先に、止まった電車の開いたドアに向かっていった。立ち上がりはした僕は彼女を見送って、そんな暇がないことに気づき、焦って、ドアの前に立ちっぱなしでいた人に鞄をぶつけてしまいながら、転げ落ちるように電車から降りた。


 僕の慌てぶりと言ったら、階段を降りて改札を通り、出口に向かって、そして彼女が駅を出たところで傘を開くまで、すさまじい雨音に気づかなかったほどだった。もし彼女を見失ったりしていたら、たぶんその雨にさらされるまで、自分の傘を開かなければならないということに気づかなかっただろうと思う。


 僕は、彼女を追いかけるように歩いた。それは駅の出口を通って、バス乗り場に向かうまで続いた。つまり、僕と彼女は、同じバス停を目指していた。


 彼女がバス停の標識の前で立ち止まったとき、その可能性は確定的なものになった。傘の下で彼女は時刻表を見ていた。


 僕は彼女よりも前に出て、同じ時刻表を見て、腕時計と見比べた。待っている人が誰もいなかったのも当然で、ちょうど前のバスが行ったばかりだった。そして、次のバスの発車までは、三十分以上あった。


 僕が彼女の方を見ると、彼女も僕の方に目を向けていて、目が合った。


 灰色の空の下、騒がしい雨音に包まれて、僕も彼女も黙っていた。ブラウスは肩のところに穴が開いていて、キュロットスカートはちょうど膝まであり、肩から提げた鞄は大きめで、手に持った折りたたみ傘は紺色だった。


 そして、僕が何度も見てきた、というか、それから何度も目にすることになる、あのぼんやりとした表情、いや、無表情な顔。僕はそれだけのものを、初めて目にした。


 とっさに目を背けそうになって、どうにかそれを我慢した。僕の方が背は低かったから、彼女の顔を見上げたまま。


 僕を見る彼女が、ほんの少しだけ首をかしげたのが分かった。

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