(3)憧れの始まり-6
通路を渡って階段を降りた先のホームに、赤い車両が止まって発車の時間を待っていた。僕はその電車に駆け込み、幸運にも見つけられた、唯一丸々空いていた二人がけの席に急いで座った。
そして、またさっきのように文庫本を広げ、おざなりにページをめくってしまったところを読み直して取り戻そうと、そうすればあの余韻がまた繰り返されるのだとわくわくして、今日はなんという日だろうと、うきうきしながら開いたページに目を向けようとしたときだった。
――すみません。
声が聞こえた。確かに僕に向けられた声だった。
びっくりして、この言葉の音が示すとおりに、体が一瞬びくっと緊張して、ひきつったのが分かった。全く予想しなかったから、そんな風になってしまった――当然気づくべきこと、つまり、その声に聞き覚えがあったということに、全く意識が向かないまま。
そんな僕の様子を見たからか、次の言葉は、一拍というか少し間を置いてから発せられた。僕はおそるおそる、声のした方に向かおうと、顔を上げた。
――これ、落としませんでしたか?
そこに彼女の顔があったことに、僕は驚かなかった(美術館で僕にお礼を言ってくれたときのように、目線の高さを僕にそろえてくれていた)。驚いたのは、むしろ、彼女が手に持って差し出しているものを見たときだった。
それは、僕がしおり代わりに本に挟んでいたはずのあのチケットの半券で、彼女の人差し指と親指に――その爪は卵円形に形が整えられ、つやつやとしていた――挟まれて、僕の目の前に差し出されていた。
大慌てで文庫本に差し込んでいたはずのそのチケットを探してみると、やっぱりどのページ(の間)にも見つけられなかった。そんな振る舞いが自分で無性に恥ずかしくなって、彼女の手(辛抱強く姿勢を変えないで、僕の悪戦苦闘の間も待っていてくれていた)から、自分でも嫌になるくらいにおずおずとチケットを受け取った。
――あ、あの!
できるだけ絞って、ただし不必要な感嘆符までつけて、僕は声を上げた。
彼女にぴったりと目を合わせて、次に続く言葉を発しようとしても、一回目は息が止まって、頭の中にあった言葉は声にならなかった。二回目にようやく、ゆっくりと一つ息をすることすらも意識しながら、やっと、思いを口にすることができた。
――あ……ありがとうございます。
僕がどれだけ感謝する必要があるのかを理解したというか、そういうことに思い至ったのは、そのお礼の言葉を発せられた後、彼女の右手の人差し指と親指、そして僕の左手の親指と人差し指が、ちょうどチケットに触れたときのことだった。
その瞬間、この日に僕が感じてきたことの全てが、一粒のしずくになって、心の中に波紋を作ったのが分かった。その中心には、僕だけでなく、彼女がいた。きっと、僕が見つめる水面の下に。
彼女の指から離れたチケットが、僕のもとに戻ってきた。そしてそれを頭がぼうっとしたまま、適当なページに差し込んだところで、僕はやっと、その車両の中で立っているのが彼女一人で、僕は隣の席にバッグを置きっぱなしにしていたという状況に置かれていることに気がついた。
ある意味では、奇跡的な状況だった。何というか、見た瞬間に答えが分かる二次方程式のような、その頃の僕にとってより適切な言葉を使えば、そこに置けば一気に石がひっくり返っていく状況でオセロの角っこが空いているような、そんな状況。鮮やかな変化が起きるという予感以上に、そのものがあまりにも綺麗に収まっている。
それに気づいたからとかそれを利用しようと思ったからとか、そういう考えや思いは一切なしに(言い切れる)、僕は大げさな身振りで鞄をどけて、ほとんどそれを抱きかかえるような体勢になった。




