(3)憧れの始まり-5
新幹線も止まるN駅から、急行列車に僕は乗った。いろんな路線の電車が集まる、いわば砂時計のくびれの部分のような駅(なのにその私鉄の駅は番線が二つしかないので、乗車位置が複雑怪奇)だったから、人混みをくぐり抜けてどうにか電車に乗り込み、座れる席を確保できたときにはほっとした。
そしてその日の一番の成果だったに違いない、あの展覧会のチケットの半券をしおり代わりにして、書店で買った文庫本に取りかかった。その本にはブックマーカーの紐がついていたのにわざわざそれを使ったのは、余韻に浸りたかったからだと思う。
チケットに描かれた小さな図版には、僕がちょうど彼女のストラップを拾い上げたときの『あの絵』が使われていて、目に入るたびに彼女の声と、ほんのわずかな指の感触が再生されるような気がした。
おかげで、僕が開いた文庫本(フランスの作家が子供向けに書いて挿絵もその作家が描いていた有名な本)には、後になってちゃんと読んだときのことを考えればとても大切なことがたくさん、僕にもはっきりと理解できるように書かれていたのだけれど、初めはまるで集中できず、二行進むごとに一行後戻りをするような調子でしか読めなかった。
そんな調子で、僕はN駅から電車に乗っていた四十分ほどの間、最初のうちはその文庫本と、そこに差し込んだチケットに、ほとんど交互に目をやっていた。挿絵とともに文章が描くその本から呼び起こされる光景と、展覧会の絵(複数形)と、そこで出会った彼女の姿の三つが同時上映されていて、僕はそんな三つの頭の中の劇場を行きつ戻りつしているような状態だった。
それでも、だんだんと僕は僕の太股の上で開かれた世界に少しずつ没頭していき、読むペースはどんどん早くなっていった。閉じることなく読み進められていったから、しおり代わりのチケットは、表紙近くに置き去りになっていた。
いくつもの駅を通り過ぎ、いくつかの橋を渡り、いくつかのカーブが電車を大きく揺する間、僕は砂漠で死にそうになったり、渡り鳥につかまって星から星へ旅をしたりしていた。このときほど、一つの本に没頭していたときは、後にも先にもなかったと思う。それだけ魅力的だったということだろう、後から考えなければそんなこと自体を意識する必要がなかったくらいに。
だから、ある駅に停車したとき、はっと気づいて駅名を確認して、もう降りなければならない駅が次に迫っているとようやく気がついた。もう五分もかからずに席を立つことになるのだから、そのための準備をしなくてはならなかった。僕は砂漠で死にかけて井戸にたどり着いたところだった。
この歩みが、電車の乗り換えで中絶させられるのが恐ろしく感じた。だから、僕はそれまでよりも、意識の力までも動員して、股の上の世界に向き合った。急行電車と同じように、(もったいないことに!)大急ぎで一行一行に目を這わせ、ページをめくっていった。
乗り換える駅(I)に電車がたどり着く頃にはなんとか最後のページまでたどり着き、ドアが開いてから、ようやく読み終えてほっとする間もなく(本を読み終えたときの開放感が好きだ)、文庫本はバッグにしまう間もなく手に持ったまま、乗ってくる人の波(大げさに聞こえる。そんなに人の数がいたわけではない)をかき分けて、電車を降りた。手から滑ってカバーがずれて、危うく落としそうになった文庫本をお手玉のように手の中で転がしながら、僕はホームを大股で歩いて、乗り換えるために階段を駆け上がった。乗り換えのための時間が短いことを知っていたからだ――本当は、わざわざ走る必要があるほどではなかったのだけれど。
焦る気持ちが僕をそうさせた。必要のない焦り、無駄骨。




