(3)憧れの始まり-4
音声解説に(たぶん)聞き入りながら、何かを小さな手帳に書き込んでいる姿を目にしたからだ(こういうときにはシャープペンシルではなく鉛筆を使わなければならないのだと、僕は彼女の姿から学んだ)。一枚一枚の絵に、そうやって彼女は向き合っていた。僕よりも、いや、僕と比べたら恥ずかしくなってしまうほど、きっと、ずっと真剣に。ただ、顔はどこかぼんやりとして。
そんな彼女の姿は、その頃(そしてきっと今も)の僕にとって、魅力的だったのだと思う。形を持たなかったあこがれが、そこに具現しているような気がした。
そうやって、一枚一枚の絵を、彼女はゆっくりと回っていった。僕はそれに、ストラップを握りしめながら、ついていった。
話しかけるわけにはいかないと思っていた。彼女はヘッドホンで解説を聞いているわけで、それを邪魔するのも悪いと思ったし、そもそもそういう状況だったから、ちょっと話しかけたくらいでは気づかないだろうと思った。
こう考えれば自分のためらいや緊張をもっともらしさでごまかせると思っていた、と言った方がいいのかもしれない。
そんなことを繰り返しながら、やっと最後の一枚にたどりつくと、彼女はその絵を僕が思っていたよりもはるかにあっさりと通り過ぎた。そして、ヘッドホンを外した。
言おう、言わなきゃ、と思い、僕は彼女を追いかけた――胸の緊張を高めながら。
彼女はヘッドホンとそれがつながっていたトランシーバーみたいな器具を係員に軽くお辞儀をしながら手渡し、出口に向かった。僕はそれを追いかけた。
こんな調子が、いつまでも続く。結局、僕が彼女に初めて話しかけることができたのは、ミュージアムショップを出たところだった。
――あ、あの、すみません。
文字にするとこんな感じだけれど、もっと、たぶん間抜けな調子だったと思うし、最後には句点よりも感嘆符をつけるべきかもしれない。ともかく、そうやって僕は彼女に話しかけた。
彼女はすぐに振り返った、少しだけ怪訝そうな顔で、それでもどこかぼんやりとしたあの表情(むしろ無表情)を浮かべながら。
――あの、これ……
握りしめていたストラップを、震えそうなほど緊張しながらおずおずと僕が差し出すと、彼女は目を一度ぱちくりとさせてから、ポケットから携帯電話を取りだして、本来そこにあるべきだったものが僕の手の中にあるということを、ゆっくりと確認した。
――ごめんなさい、ありがとうございました……どこにありました?
――あの……あの、絵のところです。
僕は『あの絵』、彼女と並んで見た最初の絵の名前を言った。驚くことに、絵の名前を覚えていたのは、その絵ただ一枚だった。元々知っていたからかもしれないし、彼女と並んで見たからなのかもしれないし(彼女は僕に全く気づいていなかったらしい)、その絵を僕自身が好きになれたからかもしれなかった。
何にしても、彼女は僕が絵の名前を口にしたとき、僕からストラップを受け取りながら、少しだけ笑ったように見えた。
――どうもありがとう。
顔を見るために、僕は見上げなければならなかった。そんな彼女が、少しだけかがんで目の位置を合わせてくれながら、こう言った。
僕は緊張しながら、何か言葉を見つけなければと頭の中は大慌てで、顔がひきつって半笑いになりそうなのを必死にこらえていた。つまり、僕は何も言えないまま、彼女と見つめ合っていた。きっと、挙動不審に陥る寸前の状態で。
彼女は僕の緊張や不器用さの後ろ側にある気持ちまで察してくれたのか、ぺこりと一度(この僕に!)お辞儀をして、今度は、はっきりと微笑んだ。そして小さく手を振って、歩いていった。
僕は美術館のささやかな喧噪の中に取り残され、彼女の指が僕の手に触れた一瞬の感触とそのわずかな暖かみを、心の中で何度も繰り返し再現しようとしていた。
その後僕は家路についた。書店に寄って本を買ったり(余分にもらえた小遣いに感謝)、電気屋を冷やかしたりしてから。しかしそういう過程に何があろうと、たいした印象は記憶の中に残っていない。
理由は簡単というか明らかで、その日に僕にとって重要だったのは二つの出来事だけで、その他に何があろうと、恒星と恒星の間にある惑星ほどの輝きも持ちようがなかったからだ。一つはここまで語ってきた、まだ名前を知らなかった彼女との出会いで、もう一つは、鹿屋さんの名前を知ったことだった。
だから、次はそんな出来事が起こった地点まで一気にすっ飛ばしてもいいと思う。それは、帰り道の電車だった。




