(3)憧れの始まり-3
展覧会は、思っていたよりは混んでいた。それでも、目当ての絵を自分のペースで一つ一つ見ていくことに支障があるほどではなかったから、快適だった。
さて、僕はそこで彼女に出会った。
記憶に残っている最初の彼女の姿は、入場券を買う列の中にいた。確か僕より二人か三人ほど前に、彼女が並んでいた。その姿の記憶はあまりにもぼんやりしているけれど、彼女であることは違いなかった。
もちろんこのときにはまだ、僕は彼女を、自分以外の一部としか認識していなかった。なんとなく印象に強く残っているような気がするのは、その後の出来事が記憶に色をつけているからだろう。だから、そこまでの印象には何の影響も受けずにもやもやとした心のまま会場に入ったことは間違いない。いくら彼女が、鹿屋さんが近くにいたとしても。
ギリシャ生まれのイタリア人だということから、その画家の説明は始まっていた。しかし説明の書かれたパネルをあまりじっと見ていることはできなくて、どこで絵を学んだとか誰に影響を受けたとか与えたとか、そういうことは頭に入らなかった。かと言って、作品に一つ一つ向き合っていっても、それで何が分かるわけでもなかったのだけれど。
試しに絵の横のパネルに書かれている作品の解説を見ても、頭の中に浮かぶ感想は、『だから何?』か、そんなこと到底分かるわけがないという嘆息だった。しかしかすかには、意味とかの解釈は別にしても、絵を見て、感じることがあった。それは好きとか気に入ったとかそれほどでもないだとか、そんな、単純な感情だけだった。
子供だったからというわけではなくて、きっと成長した今も、同じようにしか感じられないと思う。僕はそれだけ早々と、自分のセンスの限界にぶつかっていたのだろう。
自分がどんな風に感じているか(感じられないか)について、そのときの僕自身にも分かっていた。そんなときには、関心を示さなかった父の態度が頭をよぎって、結局、自分がここに来る前に何に憤慨していたのか、たまらなく恥ずかしくなってしまう。
僕が展覧会の入り口から出口まで、全部の作品を見終えるのに、二十分もかからなかった。我ながら、その足の速さには時計を見て唖然とした。そして、これでは入場料がもったいないと思って――これこそ俗な考えだろう――、僕は入り口まで引き返した。
もう一度、今度は解説のパネルも読みながら、ところどころで椅子に座って退屈そうにしている女性の姿が妙に気になったりもしながら、一枚一枚、絵を見返していった。そうしたところで、大して感じ方が変わるわけでもない。それでも、どうにか気に入ることのできていた一枚の絵にたどり着くと、そこに彼女がいた。
ヘッドホンを耳に着けて、その作品の音声解説を聞きながら眺めていたらしい。そのときには絵の前に彼女しかいなかったからか、その姿が、妙に強く印象に残った。彼女が立ち去るまで、たっぷりの時間をかけて、並んで同じ絵を見てしまうくらいに。
それはたくさんの窓や入り口のある建物と、輪っかを転がして遊んでいる子供が描かれた絵で、影は異様に長く、空は暗い緑色で、画面の手前には空っぽの荷車があった。それが、描かれたもののほとんど全てだった。有名な絵らしいから、僕もそれを見たことがあった。
実物を見られて感激している、というのとは違う感慨があった。心の底から、小さな感情ではあったにしても、好きだと思えた。寂しげで、でも、どこか安心感があった。そんな絵だと思った。ぼんやりと絵を見つめていると、その極端に遠近法を効かせた画面の奥に、吸い込まれていくようだった。
ふと気づくと、彼女がその絵の前から立ち去るところだった。なんとなく、少しどきどきしながら後ろ姿を見送っていると、彼女は携帯電話を取りだし、その画面を一瞥だけしてまたポケットに戻した。
そのとき、何かが落ちたのが分かった。彼女はヘッドホンをしていたせいか、落としたことに気づかずにそのまま歩いていってしまった。僕は慌てて追いかけて、それを拾い上げた。携帯電話のイヤホンジャックに刺されていた、あるキャラクターのストラップだった。
僕はそのキャラクターを知っていた――というのはどうでもよくて、僕は、彼女にそれを渡そうとした。一応付け加えておけば、それは単なる親切心か、あるいは、そんな形をはっきりと作る前の条件反射のせいだったのは間違いない。
しかし次の絵の前に立つ彼女の姿を見て、僕は何も言うことができなかった。




