(4)特別な夕方-2
僕が抱いていた期待は、彼女とほんの少し言葉を交わしただけで、全く別の形に昇華した。高揚感が、もっときらきらとして、もっと具体的で、もっと触れそうなものに結晶化した、とでも言ってみたくなるような気持ちだった。そういうのを、思い出と言うのかもしれない。
でも結局はそのときの僕にとってはそんなことも含めてどうでも良くて、初めて見る姿をした鹿屋さんが、何よりも心の中で大きな存在になっていた。
僕たちは参道を上がって、神社の境内に向かった。境内ではたくさんの屋台が出ていて、たくさんの人が行き交っていた。こういうときに理由をつけて手をつなぐとかいうことができたはずだと気づいたのは、思い返してみてからのことだった。
そんなことを考えられないくらいに、僕は、ただ鹿屋さんが隣にいて、彼女と一緒に通い慣れたてはいない、日常とは違うところを歩いているというそれだけの事実に満足していた。いや、満足どころではなく、今その瞬間にそうやっていられることを、何かに感謝したいほどだった。
――何か食べる? 買ってあげるよ。
――大丈夫です。お小遣い、持ってますから。
会話らしい会話は、こんな程度のことをぽつりぽつりと交わすくらいだった。驚くことにというか当然のことにというか、そうやって祭りに来たところで、やることは屋台を巡るくらいしかなかった。
両手いっぱいにたこ焼きやら焼き鳥やらを抱えて、境内の隅に腰を下ろす。値段の割にできがよくもないそういうものも、隣に鹿屋さんがいるというだけで、その一瞬の時間を彩るには十分だった。それ以上に何を望むべくもなかったかもしれないと今ははっきりと思うし、そのときにだって、きっと知らないうちにではあっても、そう感じていたに違いなかった。
隣に腰掛ける鹿屋さんは、僕が見てきたのとは、まるで違う姿でそこにいた。話すことはなくても、ただ隣にいるだけで、僕にとってはわかりきっていたはずの彼女へのあこがれが、胸の奥で強く輝いて、熱を持ち始めているような気がした。
座って膝を抱えながら、かき氷を少しずつ口に入れる彼女の動作の一つ一つが、いちいち僕をどきどきとさせていた。理由の分からないその胸の高鳴りは、そのときの僕にとっては、ただただ心地よくて、何の意味を考える必要もなかった。
あとは特に何も起こらなかった。花火が打ち上がったりはしないし、仮設されたステージで何かやっていたところで、僕も鹿屋さんも興味を持てなかった。ただぼんやりと、歩いて、食べ物を買って、座って食べて、ほんの少しの会話をして、ということを繰り返しただけだった。
一番印象的だったのは夜が近づいて暗く青みがかった空を見上げ、そこに見える月を見て鹿屋さんが「あ、お月様」とつぶやいたことだった。真っ黒な山の輪郭のすぐ上にあったその月は橙色をしていて、妙に大きく見えた。そんな月を初めて見たわけではなかったと思うけれど、その日の「お月様」ほど明瞭に記憶に残っているものはなかった。
彼女はそれを見て、なぜその低いところにある月が橙色をしているのか、大きく見えるのかを僕に語ってくれた。明快に、科学的に。
そんな彼女の口ぶりは、朝の会話で聞こえる彼女の声の調子とは、少し違っているような気がした。というよりも、こんな風に得意になって(そう思えた)話す彼女の声を、聞いたことがなかったからそんな風に思うのかもしれなかった。そして僕は、それがうれしかった。きっと、彼女の違う姿を見られたから、ほんの少しでも、彼女の世界に足を踏み入れられたような気がしたからだと思う。




