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誰のものにもならない王冠  作者: 泉
第二部 愛という名の侵略

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9/11

第九章 女王の檻

鳥籠は、必ずしも鉄で作られるわけではない。

金で作られた鳥籠もある。花で飾られた鳥籠もある。

その中には、柔らかな寝床と、尽きることのない食事と、外敵から身を守る頑丈な壁が用意されている。

それを幸福と呼ぶ者もいるだろう。

だが、どれほど美しい鳥籠であっても、扉を開ける権利が鳥自身にないのなら。

それは、やはり檻なのだ。


一 金貨三十万枚の提案


ヴェルシュタイン公爵邸に、ヴァレンティス王国からの正式な外交文書が届いたのは、秋の終わりを告げる雨の日だった。

封筒には、赤い蝋で押された王家の紋章。添えられていたのは、交易協定の草案と、三冊に及ぶ経済資料だった。

「……北方交易路の共同整備協定?」

公爵は、書類の表題を読み上げた。

「はい、閣下」

アルフレッドが答える。

「ヴァレンティス王国より、正式な協議の申し入れでございます」

「外務省は?」

「すでに通知を受けております。今回の協定は両国間の交易に関わるため、エルディア王国外務省を通じた交渉が前提となっております」

「それなら問題ない」

公爵は、書類を開いた。

最初の数ページには、交易路の整備計画が記されていた。ヴェルシュタイン公爵領は、エルディア王国の北方に位置する。

深い森林。広大な湖。冬には雪に閉ざされる山岳地帯。

その地形は、防衛上の利点をもたらす一方、物流に大きな制約を与えていた。特に、ヴァレンティス王国へ通じる北方交易路は、冬季になると通行不能になる区間が多い。

そのため、公爵家では以前から道路整備を計画していた。しかし、費用が問題だった。

橋梁の架け替え。山岳道路の補強。魔導灯の設置。除雪設備の整備。

それらを実施するには、莫大な資金が必要となる。

公爵は、資料を読み進めた。そして、ある数字で手を止めた。

「……金貨三十万枚?」

アルフレッドが頷く。

「はい」

「ヴァレンティス王国が、整備費用の六割を負担する?」

「そのようでございます」

公爵は、もう一度数字を確認した。

「……ずいぶんと好条件だな」

金貨三十万枚。

公爵領の年間道路整備予算を、大幅に上回る額だった。さらに、協定には複数の優遇措置が含まれていた。

交易関税の段階的引き下げ。共同管理区域における輸送保険の整備。冬季輸送のための魔導設備の無償貸与。そして、ヴェルシュタイン領内の農産物に対する、ヴァレンティス市場への優先的な流通枠。

公爵は、しばらく黙っていた。

「……悪くない」

アルフレッドが、わずかに目を見開いた。

「……閣下?」

「条件そのものは、合理的だ」

公爵は、資料を机に広げた。

「北方の物流が改善すれば、領民の生活にも利益がある。冬季の物価上昇も抑えられるだろう」

「……はい」

「ただし、ここまで好条件である理由が分からない」

公爵は、最後のページをめくった。そして筆を止めた。

「……なるほど」

小さく呟く。アルフレッドが尋ねた。

「……何か、問題がございましたか」

公爵は、書類の一箇所を指さした。そこには、次のように記されていた。

『第十七条 共同交易路の円滑な運営を目的として、ヴェルシュタイン公爵は年に四か月以上、ヴァレンティス王国宮廷に滞在し、女王陛下直属の特別顧問として協議に参加するものとする』

アルフレッドは、ゆっくりと息を吐いた。

「……これは」

公爵は、淡々と答えた。

「……余計な条項だな」


二 女王の計算


ヴァレンティス王国使節館。

セラフィーナ女王は、窓際の長椅子に腰を下ろしていた。

赤銅色の長い髪。深い緑の瞳。葡萄酒色のドレスには、金糸の刺繍が施されている。

その姿は、まるで古い絵画から抜け出した女神のようだった。

「……協定書は届いたかしら」

側近が、深く頭を下げた。

「はい、陛下。今朝、ヴェルシュタイン公爵邸へ届けられました」

「そう」

セラフィーナは、微笑んだ。

「……あの方は、きっと読むでしょうね」

「はい。公爵閣下は、公務に関する書類を非常に丁寧に確認される方だと伺っております」

「ええ」

女王は、静かに頷いた。

「……だからこそ、今回は贈り物ではなく、協定にしたの」

以前、彼女は公爵へ二十三箱もの贈り物を送った。

宝石。絹織物。香水。希少な魔導具。そして、十年に一度しか咲かない月白の薔薇。しかし、公爵はすべてを返送した。一つ残らず。

そのとき、セラフィーナは初めて理解した。

あの人には、贈り物が通じない。

財宝も。名誉も。王家の権威も。何の意味も持たない。

ならばあの人が大切にしているものを、差し出せばいい。

領地。領民。そして、統治者としての責任。

「……あの方は、自分の利益のためには動かない」

セラフィーナは、静かに呟いた。

「けれど、領民のためなら、きっと動く」

側近は、慎重に尋ねた。

「……陛下」

「何?」

「第十七条については、少々条件が厳しいのではないでしょうか」

セラフィーナは、首を傾げた。

「……そう?」

「年間四か月もの宮廷滞在を求めることは、公爵閣下の領地統治に支障をきたす可能性がございます」

「そのための特別顧問でしょう?」

女王は、微笑んだ。

「王国の優秀な官僚を補佐につけるわ。必要なら、公爵領の行政業務も支援できる」

「……しかし」

「何も奪わないわ」

セラフィーナは、静かに言った。

「領地も、爵位も、権限も」

そして、窓の外を見つめた。

「……ただ、私のそばにいてほしいだけ」

その声には、かすかな寂しさがあった。

彼女は、女王だった。国を治める者。何万人もの人々が、彼女の言葉に従う。その権力は、絶大だった。しかしその権力を持ってしても、一人の公爵の関心を得ることはできなかった。

「……四か月」

セラフィーナは、小さく呟いた。

「一年のうち、たった四か月よ」

それだけの時間があれば一緒に食事をする機会もあるだろう。庭園を歩く日もあるかもしれない。静かな図書室で、同じ本を読むことも。そして、いつかあの灰銀色の瞳が、自分を見つめるようになるかもしれない。

「……十分だわ」

女王は、微笑んだ。

「……最初は、それだけで」

しかし彼女は気づいていなかった。

四か月という時間が短いか長いかを決める権利は、彼女にはない。相手が一日も望まないのなら、四か月はあまりにも長い。


三 条件の修正


ヴェルシュタイン公爵邸。午後。

「……第十七条の削除を要求する」

公爵は、法務官に告げた。

「承知いたしました」

「加えて、資金負担の根拠を確認したい」

法務官が顔を上げる。

「……根拠、でございますか」

「金貨三十万枚の拠出に対して、ヴァレンティス側の利益が不明確だ」

公爵は、地図を広げた。

「確かに交易路の整備は、両国に利益をもたらす。しかし、費用負担が六割というのは、通常の協定と比べても大きい」

「……はい」

「その差額が、何によって正当化されているのかを確認する必要がある」

法務官は、静かに頷いた。

「承知いたしました」

「それから」

公爵は、別の資料を取り出した。

「第十七条を削除した場合、他の条件が維持されるかどうかも確認してくれ」

「……かしこまりました」

公爵は、椅子に腰を下ろした。

「協定自体は、検討する価値がある」

アルフレッドが、静かに尋ねた。

「……閣下」

「何だ」

「女王陛下のご意図は、お分かりでございますか」

公爵は、少し考えた。

「……私をヴァレンティス王国へ滞在させたいのだろう」

「……はい」

「それ自体に、外交上の必要性は認められない」

公爵は、淡々と答えた。

「だから、削除する」

アルフレッドは、わずかに微笑んだ。

「……承知いたしました」

公爵は、再び書類に目を落とした。

セラフィーナ女王。隣国を治める優秀な統治者。政治手腕に優れ、国民からの支持も厚い。その評価について、公爵は異論を持っていなかった。しかし優秀な統治者であることと、私的な関係を望むことは別だった。

「……仕事は仕事だ」

公爵は、小さく呟いた。そして、次の書類へ手を伸ばした。


四 女王の誤算


三日後。ヴァレンティス王国使節館。

「……第十七条の削除?」

セラフィーナは、目の前の書類を見つめた。

「はい、陛下」

側近が答える。

「ヴェルシュタイン公爵家より、正式な修正要求が届いております」

女王は、ゆっくりと書類を読んだ。

『共同交易路の運営において、公爵本人の長期滞在を必要とする合理的な理由は認められない』

『協議については、両国の外務担当官および公爵家の全権代理人によって実施可能である』

『よって、第十七条の削除を求める』

セラフィーナは、しばらく黙っていた。

「……ふふ」

小さく笑った。側近は、困惑した。

「……陛下?」

「……やっぱり」

女王は、静かに微笑んだ。

「……あの方らしいわ」

しかし、その笑みは長く続かなかった。次の書類を読んだ瞬間。彼女の表情が、わずかに変わった。

『なお、第十七条の削除によって資金負担条件が変更される場合、当家は当該協定の経済的合理性を再評価する』

『必要に応じて、国内資金による段階的整備案を採用する』

セラフィーナは、ゆっくりと顔を上げた。

「……国内資金?」

側近が頷いた。

「はい。公爵家では、すでに代替案を用意している模様です」

「……つまり」

女王は、低く呟いた。

「……私の提案を、断るつもりなの?」

「……第十七条が維持されるのであれば、その可能性が高いかと」

セラフィーナは、書類を見つめた。

金貨三十万枚。交易優遇。魔導設備。

それらを差し出しても。あの人は、自分の自由を優先する。

「……どうして」

小さく呟く。

「……どうして、そこまで」

側近は、何も答えなかった。

セラフィーナは、ゆっくりと立ち上がった。窓の外には、王都の街並みが広がっている。

「……私の王国も」

小さく呟く。

「……王冠も」

その声には、わずかな震えがあった。

「……すべて差し上げる。それでも足りないの?」

誰も答えなかった。そして、女王はまだ理解していなかった。足りないのではない。最初から、求められていないことを。


五 弟の忠告


「……姉上」

リオネルは、静かに声をかけた。セラフィーナは、窓際に立っていた。

「……何かしら」

「協定書を読みました」

「……そう」

「第十七条は、削除した方がいいと思います」

女王は、ゆっくりと振り返った。

「……あなたまで?」

リオネルは、穏やかに微笑んだ。

「公爵閣下は、明確に拒否されています」

「……」

「これ以上、滞在を求めても、関係が悪化するだけでしょう」

セラフィーナは、眉を寄せた。

「……私は、あの方を困らせたいわけではないの」

「分かっています」

「……ただ」

女王は、言葉を止めた。リオネルは、静かに待った。

「……ただ、そばにいてほしいだけ」

その声には、女王としての威厳がなかった。

一人の人間としての、切実な願いだけがあった。リオネルは、しばらく黙っていた。そして、静かに言った。

「……姉上」

「何?」

「それは、公爵閣下が望まれていることではありません」

セラフィーナは、息を呑んだ。

「……あなたは」

小さく呟く。

「……冷たいのね」

リオネルは、微笑んだ。

「……そうかもしれません」

女王は、窓の外を見つめた。

「……あの方は、誰にも心を開かない」

「……はい」

「……あなたにも、きっと」

リオネルの笑みが、わずかに止まった。

「……ええ」

彼は、静かに答えた。

「……分かっています」

しかしその言葉は、完全な真実ではなかった。

リオネルは、心のどこかで思っていた。自分なら、違う。自分なら、公爵の望みを理解できる。姉のように、贈り物で近づかない。王太子のように、権力で従わせようとしない。聖騎士のように、救いを押しつけない。魔術師のように、魂を覗こうとしない。

だから自分だけは、特別になれる。そう信じ始めていた。


六 見えない監視


その夜。ヴァレンティス王国使節館の地下室。

リオネルは、密偵からの報告を受けていた。

「……王太子の動きは?」

「王宮地下への出入りが確認されております」

「……地下?」

「はい。通常の王族が立ち入らない区域でございます」

リオネルは、眉を寄せた。

「……王冠の契約か」

密偵は、頷いた。

「その可能性がございます」

「……なるほど」

リオネルは、しばらく考えた。そして、別の報告書を開いた。

『ヴェルシュタイン公爵、王宮召喚状への出席を保留』

『法的根拠の提示を要求』

『公爵邸の警備体制を強化』

リオネルは、静かに微笑んだ。

「……さすがだね」

公爵は、危険を察知している。そして、自分で対処しようとしている。その判断は、合理的だった。

しかし。

「……それでも」

リオネルは、小さく呟いた。

「……一人では、限界がある」

彼は、密偵へ新たな指示を出した。

「王宮から公爵家へ送られる書簡について、可能な範囲で情報を集めて」

「……承知いたしました」

「それから、公爵が王宮へ向かう場合は、必ず事前に知らせてほしい」

「はい」

リオネルは、静かに微笑んだ。

「……危険な場所へ、近づけたくないからね」

密偵は、深く頭を下げた。しかしその命令を受けた密偵は、一つだけ疑問を抱いていた。

公爵本人は、監視を望んでいるのだろうか。だが、それを口にすることはなかった。王弟殿下の命令だからだ。


七 侯爵令嬢の決意


ローゼンベルク侯爵家。午後。

「……また、断られたの?」

エレノアは、侍女が差し出した書簡を見つめた。

柔らかな金髪。翡翠色の瞳。淡い桃色のドレス。

その姿は、まるで春の花のように愛らしかった。

しかし、今の表情には、明らかな苛立ちが浮かんでいた。

「……はい、お嬢様」

侍女は、慎重に答えた。

「ヴェルシュタイン公爵閣下より、茶会へのご招待を辞退するとのお返事が届いております」

エレノアは、書簡を受け取った。

『ご招待に感謝申し上げますが、私的な茶会への参加は控えております』

短い文章。丁寧な言葉遣い。しかし、そこには何の余地もなかった。

「……どうして」

エレノアは、小さく呟いた。

「……どうして、私だけ」

侍女は、何も答えなかった。

エレノアは、書簡を握りしめた。これまで、彼女は多くの人々から愛されてきた。

美しいと褒められ。優しいと称えられ。社交界では、常に注目の中心にいた。

しかしヴェルシュタイン公爵だけは、違った。

初めて出会った日から。彼女に、何の関心も示さなかった。

微笑みかけても。話しかけても。親切にしても。反応は、いつも同じだった。

丁寧。冷静。そして、無関心。

「……私の、何がいけないの」

エレノアは、震える声で呟いた。

侍女は、恐る恐る答えた。

「……お嬢様に、何か問題があるわけでは」

「なら、どうして!」

エレノアの声が、部屋に響いた。侍女は、身を強張らせた。エレノアは、息を荒げた。そして、ゆっくりと目を閉じた。

「……ごめんなさい」

小さく呟く。

「……怒鳴るつもりじゃなかったの」

侍女は、深く頭を下げた。

「……お気になさらないでください」

エレノアは、窓の外を見つめた。庭園には、秋の薔薇が咲いている。

「……ねえ」

小さく呟く。

「……私って、そんなに魅力がないのかしら」

侍女は、慌てて首を振った。

「とんでもございません!」

「……じゃあ」

エレノアは、ゆっくりと振り返った。

「……どうして、あの方は私を見てくれないの?」

その問いに、答えられる者はいなかった。やがてエレノアは、静かに微笑んだ。

「……そう」

小さく呟く。

「……なら、見てもらえばいいのね」

侍女は、顔を上げた。

「……お嬢様?」

エレノアは、机の上の招待状を手に取った。次週、王宮で開催される慈善舞踏会。その主催者の一人には、ローゼンベルク侯爵家の名があった。

「……あの方も、きっと招待されるわ」

エレノアは、静かに微笑んだ。

「……今度こそ」

その瞳には、これまでとは異なる光が宿っていた。

「……私を、見てもらうの」


八 公爵の選択


ヴェルシュタイン公爵邸。夕刻。

公爵は、ヴァレンティス王国からの再回答を読んでいた。

『第十七条については、修正を検討する』

『ただし、女王陛下は公爵閣下との直接協議を希望されている』

公爵は、書類を閉じた。

「……直接協議?」

アルフレッドが、頷いた。

「はい、閣下」

「必要性は?」

「……明示されておりません」

「では、代理人を派遣する」

「承知いたしました」

公爵は、淡々と続けた。

「協定の内容自体は、引き続き検討する」

「はい」

「ただし、私的な条件が含まれる場合は、交渉を中断する」

「かしこまりました」

公爵は、椅子に深く腰を下ろした。

窓の外には、夕暮れの庭園が広がっている。静かな風。揺れる木々。遠くから聞こえる鳥の声。公爵は、しばらくその景色を眺めていた。

「……アルフレッド」

「はい、閣下」

「北方交易路の整備計画について、国内資金だけで実施する場合の試算を出してくれ」

「承知いたしました」

「多少時間がかかっても構わない」

「……はい」

「外部資金に依存しすぎると、交渉上の自由が失われる」

アルフレッドは、静かに頷いた。

「……おっしゃるとおりでございます」

公爵は、再び書類を開いた。

女王の提案。金貨三十万枚。交易優遇。魔導設備。

それらは、確かに魅力的だった。

しかしその対価として、自分の時間を差し出すつもりはなかった。

「……条件が合わなければ、契約しない」

公爵は、小さく呟いた。それだけのことだった。


九 女王の涙


ヴァレンティス王国使節館。夜。

セラフィーナは、一人で寝室にいた。

机の上には、公爵からの修正要求書。第十七条の削除。直接協議の辞退。代理人による交渉。

そのすべてが、丁寧な言葉で記されていた。

「……どうして」

小さく呟く。女王は、書類を見つめた。

「……私は、こんなにも」

その声が、震えた。

彼女は、国を治める者だった。

誰よりも強く。誰よりも賢く。誰よりも美しく。

そうあろうとしてきた。そして、実際に多くのものを手に入れた。

王冠。権力。名誉。富。

しかし一人の公爵の関心だけは、得られなかった。

「……何が、足りないの」

セラフィーナは、ゆっくりと目を閉じた。

「……何を差し出せば」

その頬を、一筋の涙が伝った。

女王として、人前で涙を見せることはなかった。しかし、今夜は違った。誰もいない部屋。誰にも見られない場所。そこで初めて彼女は、自分が拒絶されているという事実を、真正面から受け止めようとしていた。

「……私では」

小さく呟く。

「……駄目なの?」

その問いに、答える者はいなかった。

やがてセラフィーナは、ゆっくりと涙を拭い、鏡を見つめた。

光で輝く赤銅色の髪。エメラルドのように輝く緑の瞳。神々しくぎらつく王冠。

その姿は、いつもと変わらず美しかった。

「……いいえ」

小さく呟く。

「……まだ、終わっていない」

彼女は、ゆっくりと立ち上がった。そして、机の上の協定書を手に取った。

「……ならば」

静かに微笑む。

「……もっと、近づけばいい」

その笑みには、悲しみと決意が混ざっていた。

しかしその決意が、何を意味するのか。彼女自身、まだ理解していなかった。


十 神の警告


同じ夜。ヴェルシュタイン公爵邸。

公爵は、書斎で本を読んでいた。

静かな夜だった。そのとき机の上の燭台が、青く揺れた。

公爵は、顔を上げた。

「……またか」

小さく呟く。

青い炎が、ゆっくりと大きくなる。そして低い声が響いた。

『……女王が』

『……お前を、求めている』

公爵は、眉を寄せた。

「……知っている」

青い炎が、わずかに揺れた。

『……王太子も』

「……それも知っている」

『……聖騎士も』

「……同様だ」

沈黙。青い炎が、かすかに震えた。

『……お前は』

『……恐ろしくないのか』

公爵は、少し考えた。そして、静かに答えた。

「……恐怖を感じるべき状況であれば、対策を取る」

『……』

「しかし、誰かが私を欲しているというだけで、私の意思が変わるわけではない」

青い炎が、静かに揺れた。

『……そうか』

公爵は、再び本を開こうとした。しかしその前に、一つだけ尋ねた。

「……ところで」

青い炎が、止まった。

「あなたは、何者だ?」

長い沈黙。やがて。

『……私は』

声が、静かに響いた。

『……忘れられた神』

公爵は、眉を寄せた。

「……名前は?」

『……ノクティス』

その名を聞いた瞬間。机の上の紙が、かすかに震えた。公爵は、静かに頷いた。

「……分かった」

青い炎が、揺れた。

『……お前は』

『……驚かぬのか』

公爵は、淡々と答えた。

「……驚く理由がない」

『……』

「神であろうと、人間であろうと、話す相手が変わるだけだ」

青い炎が、ゆっくりと揺れた。

『……お前は』

声が、静かに響いた。

『……本当に、変わらぬな』

公爵は、眉を寄せた。

「……以前、会ったことがあるのか?」

返事はなかった。

青い炎が、ゆっくりと消えていく。そして最後に、一つの言葉が残った。

『……王冠に』

『……近づくな』

炎が消えた。

書斎には、再び静寂が戻った。公爵は、しばらく燭台を見つめ、静かに息を吐いた。

「……また、説明不足だな」

小さく呟く。机の上の紙へ、書き加える。

『ノクティス。忘却と静寂の神』

『王冠への接近を警告』

『過去に接触した可能性あり』

書き終えると、筆を置いた。公爵は、窓の外を見つめた。静かな夜だった。

「……誰も彼も」

小さく呟く。

「……勝手なことばかり言う」

そして、再び本を開いた。


十一 檻の外


翌朝。ヴェルシュタイン公爵邸。

アルフレッドは、執務室へ一通の書簡を届けた。

「……閣下」

「何だ」

「ヴァレンティス王国より、協定の修正案が届いております」

公爵は、顔を上げた。

「……早いな」

書簡を受け取る。そして、内容を確認した。

第十七条。削除。

代わりに、新たな条項が追加されていた。

『両国の友好関係を深めるため、年に一度、女王陛下とヴェルシュタイン公爵による非公式の懇談の機会を設けることが望ましい』

公爵は、しばらく黙っていた。

「……これも削除だな」

淡々と言った。アルフレッドは、静かに頷いた。

「承知いたしました」

公爵は、書類を閉じた。

「……協定書に、私的な面会の条件を入れる必要はない」

「はい」

「公務で必要な協議は、正式な外交手続きで行えばいい」

「……かしこまりました」

公爵は、椅子に深く腰を下ろし窓の外を見つめた。

朝日が、庭園を照らしている。雨上がりの木々。静かな風。遠くから聞こえる鳥の声。その景色は、穏やかだった。公爵は、小さく息を吐いた。

「……檻というのは」

アルフレッドが顔を上げた。

「……はい?」

公爵は、窓の外を見つめたまま言った。

「……外から見れば、立派なものなのだろうな」

「……閣下?」

「金で飾られていても、花で飾られていても」

公爵は、静かに続けた。

「……出られないなら、同じことだ」

アルフレッドは、しばらく黙っていた。そして、深く頭を下げた。

「……おっしゃるとおりでございます」

公爵は、再び書類へ目を落とした。

その表情には、何の変化もなかった。しかしその日、公爵は一つの決定を下した。

北方交易路の整備計画について、ヴァレンティス王国との交渉とは別に、国内資金による独立整備案を正式に進めること。

それは、小さな決定だった。またそれは、女王が用意した金色の鳥籠から。公爵が、自らの意思で一歩離れることを意味していた。


十二 王冠の影


同じ頃。王宮地下霊廟。

レオンハルトは、黒い王冠を見つめていた。

その瞳は、以前よりも深い赤色を帯びている。

「……まだ、足りない」

小さく呟く。王冠の契約。七つの封印。神々の祝福を受けない魂。

そのすべてが、頭の中でつながり始めていた。

しかし儀式は、まだ完成していない。

必要なのは、公爵の魂。そして本人の同意。

「……同意」

レオンハルトは、低く笑った。

「……また、それか」

彼は、ゆっくりと王冠へ手を伸ばした。

その瞬間頭の奥で、声が響いた。

『……欲しいか』

レオンハルトは、迷わず答えた。

「……欲しい」

『……ならば』

声が、静かに囁いた。

『……奪え』

レオンハルトは、目を閉じた。その顔には、奇妙な微笑みが浮かんでいた。

「……そうだな」

小さく呟く。

「……もう、待つ必要はない」

その瞬間黒い王冠が、深紅に輝いた。

遠く離れた神骸の聖域。三本目の黒い鎖に、深い亀裂が走った。

忘却の神ノクティスは、静かに目を開いた。

『……また』

低い声が響く。

『……同じ過ちを』

その声には、怒りとも悲しみともつかない感情が宿っていた。


ヴェルシュタイン公爵邸。

公爵は、いつもどおり書類を確認していた。

王太子が何を考えているのか。女王がどれほど執着しているのか。聖騎士が何を調べているのか。魔術師が何を失ったのか。王弟がどこまで監視を進めているのか。侯爵令嬢が何を企んでいるのか。

そのすべてを、知っているわけではなかった。しかし公爵は、一つだけ確信していた。

自分の人生を、誰かに決めさせるつもりはない。

それだけは王冠であろうと神であろうと。

誰にも変えることはできない。


第九章 了

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