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誰のものにもならない王冠  作者: 泉
第二部 愛という名の侵略

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第十章 薔薇の棘

薔薇は、美しい花だ。

柔らかな花弁を幾重にも重ね、甘い香りで人々を惹きつける。

その茎には鋭い棘があるが、誰も薔薇を責めたりはしない。

美しいものには、多少の危うさが許される。

エレノア・ローゼンベルクは、そう信じて生きてきた。

だから彼女は、まだ知らなかった。

人を傷つけた棘が、いつか自分自身にも突き刺さることを。


一 愛される令嬢


ローゼンベルク侯爵家の温室には、百種類を超える薔薇が植えられていた。

春には淡い桃色の薔薇が咲き、夏には白い花が庭園を彩る。秋になると深紅の花弁が重なり、温室全体が濃密な香りに包まれた。

その中心で、エレノアは一輪の薔薇を見つめていた。

「……お嬢様」

背後から、侍女マリアの声がした。

「王立救貧基金より、最終確認の書類が届いております」

「ありがとう。そこへ置いてちょうだい」

エレノアは振り返らなかった。

白い手袋に包まれた指先で、薔薇の花弁に触れる。

「……ねえ、マリア」

「はい」

「私って、そんなに嫌な女かしら」

侍女は、息を呑んだ。

「……とんでもございません」

「本当に?」

「もちろんでございます」

エレノアは、静かに笑った。

「そうよね」

彼女は、生まれたときから愛されてきた。

ローゼンベルク侯爵家の一人娘。社交界の花。慈善活動に熱心で、誰に対しても分け隔てなく接する、心優しい令嬢。

貴族たちは彼女を褒め称えた。若い令息たちは、競うように花束を贈った。舞踏会では、最も多くの申し込みを受ける女性の一人だった。

けれどたった一人。

ヴェルシュタイン公爵だけは、彼女を特別扱いしなかった。

初めて出会ったときも。二度目の舞踏会でも。茶会への招待状を送ったときも。いつだって、同じだった。

礼儀正しく、穏やかで。そして、彼女の存在に何の関心も示さなかった。

『あなたを特別だと思ったことはありません』

あの日の言葉が、今も耳の奥に残っている。

「……酷い人」

エレノアは、薔薇の茎を握った。

手袋越しに、小さな棘が指へ食い込む。

「……一度くらい」

小さく呟いた。

「……私を見てくれたって、いいじゃない」

彼女は、自分が多くの人々から愛されていることを知っていた。

だからこそ、理解できなかった。なぜ、一人だけ。自分を愛さない人間がいるのか。そして、その一人がどうして、こんなにも気になってしまうのか。

「……マリア」

「はい、お嬢様」

「今夜の慈善舞踏会、準備は整っている?」

「はい。王宮西棟の大広間にて、予定どおり開催されます」

「そう」

エレノアは、微笑んだ。

「……公爵閣下も、いらっしゃるのよね」

「舞踏会への出席は確認されておりません。ただ、同日の救貧基金運営審査会には、ご出席される予定と伺っております」

「……それで十分よ」

エレノアは、薔薇を一輪切り取った。

深紅の花。

その花弁を見つめながら、静かに言った。

「……今夜こそ」

彼女は微笑んだ。

「……あの方に、私を見てもらうの」


二 署名のない約束


王立救貧基金は、王宮と有力貴族によって運営される慈善団体だった。

孤児院。施療院。冬季の食糧支援。病人や高齢者への生活援助。

その活動資金の大部分は、王侯貴族からの寄付によって賄われていた。

エレノアは、三年前から運営委員を務めていた。それは、単なる名誉職ではなかった。

彼女は実際に施療院を訪れ、寄付品を整理し、資金集めにも奔走していた。寒さで指先を赤くした子供に、温かな毛布を渡したこともある。その子供が笑ったとき、本当に嬉しかった。

だから最初から、すべてが虚偽だったわけではない。

ただ、ある日を境に彼女の中で、何かが少しずつ変わり始めた。

人々を助けたい。

その気持ちに、別の願いが混じるようになった。

誰かに認められたい。褒められたい。

そしてあの公爵に、自分の価値を分かってほしい。

「……お嬢様」

侯爵家の会計吏ユリアンが、書類を持って現れた。

「今夜の寄付金発表について、ご確認をお願いいたします」

エレノアは、長椅子に腰を下ろした。

「見せてちょうだい」

書類には、有力貴族の寄付予定額が記されていた。

その中央に。

『ヴェルシュタイン公爵家 冬季救護事業共同賛助』

という文字があった。

ユリアンは、ためらいがちに口を開いた。

「……お嬢様。この件なのですが」

「何?」

「公爵家からの正式な承諾書が、まだ届いておりません」

エレノアは、書類を見つめた。

「……そう」

「つきましては、今夜の発表から公爵家のお名前を外すべきかと」

「……どうして?」

ユリアンは、困惑した。

「どうして、と申されましても……」

「公爵閣下は、以前から北方の冬季支援に協力しているのでしょう?」

「はい。しかし、それは公爵家独自の事業でございまして……」

「だったら、今回も協力してくださるはずよ」

ユリアンは、息を呑んだ。

「……お嬢様」

「何?」

「推測でお名前を掲載することはできません」

エレノアは、ゆっくりと顔を上げた。

「……私が、責任を取るわ」

「ですが」

「公爵閣下は、困っている人を見捨てるような方ではないでしょう?」

ユリアンは、答えられなかった。

エレノアは、穏やかに微笑んだ。

「安心して。今夜、直接お話しするから」

それは、彼女にとって都合のよい計画だった。

公爵の名前を、慈善事業の共同賛助者として発表する。そうすれば、公爵は彼女と会話せざるを得ない。人々の前で、彼女を無視することもできない。そして、もし協力を承諾してくれたなら。二人の名前が、一つの事業に並ぶことになる。それは、社交界での噂を変えるきっかけにもなるかもしれなかった。

「……きっと、大丈夫よ」

エレノアは、微笑んだ。

「良いことをするのだもの」

その言葉を聞いたユリアンは、静かに目を伏せた。

彼は、机の上の書類を見つめた。公爵の承諾書は、存在しないにもかかわらず、発表の準備は進められている。

そして、もう一つ。彼には、気がかりなことがあった。

前日に届いた、差出人不明の封書。

そこには、公爵家の印章らしきものが押された、寄付予告書の写しが同封されていた。しかし、正式な公文書に必要な署名がない。そのことを指摘すると、エレノアは言った。

『王宮の事務局から送られてきたものなら、問題ないでしょう?』

だが、その封書に王宮事務局の正式な受領番号はなかった。

ユリアンは、嫌な予感を覚えていた。

それでも主人である侯爵令嬢の決定を、止めることができなかった。


三 公爵の仕事


同じ頃。

ヴェルシュタイン公爵は、王宮西棟の会議室にいた。

目的は、慈善舞踏会ではない。王立救貧基金の冬季支援予算について、正式な審査を行うためだった。

「……北方第三区の施療院への医薬品輸送が、二週間遅れている?」

公爵は、報告書を見つめた。

基金の会計担当官が、緊張した面持ちで答える。

「はい、閣下。輸送費の増加により、一部の予算が不足しております」

「予算不足?」

「……はい」

公爵は、資料を一枚めくった。

「昨年度から、冬季輸送費の上昇を見込んで予備費を計上していたはずだが」

担当官は、答えに詰まった。

「……それが」

「何か?」

「……今年度の慈善行事に関する支出が増加しておりまして」

公爵は、顔を上げた。

「慈善行事?」

「はい。寄付金の募集活動や、社交行事の開催費用などに……」

「……なるほど」

公爵は、静かに頷いた。そして、別の書類を取り出した。

「では、今年度の慈善行事に関する総支出を示してほしい」

担当官は、顔色を変えた。

「……閣下?」

「基金本来の事業と、寄付金募集のための支出を分けて確認したい」

「……はい」

「そのうえで、医薬品輸送の優先順位を再検討する」

公爵は、淡々と続けた。

「今夜の舞踏会で使用する装花の費用が、北方施療院への医薬品輸送費を上回っている理由も、説明してほしい」

会議室に沈黙が落ちた。

誰かが、小さく咳払いをした。公爵は、気にしなかった。

「……資金を集めるために催しを開くことは、否定しない」

静かな声だった。

「しかし、資金を集めること自体が目的になっては、本末転倒だ」

基金の理事たちは、顔を見合わせた。

公爵は、報告書を閉じた。

「不足分については、別途対応を検討する。だが、その前に支出の内訳を確認したい」

そして、次の議題へ移った。

公爵にとって、これはごく普通の仕事だった。

領民の暮らし。行政の責任。資金の使い道。

誰が何を望んでいるかよりも、はるかに重要な問題だった。

ところが会議の終了間際。一人の理事が、不思議そうに口を開いた。

「……そういえば、公爵閣下」

「何でしょう」

「今夜の共同賛助者として、お名前が記載されておりましたが」

公爵は、筆を止めた。

「……共同賛助者?」

「はい。ローゼンベルク侯爵令嬢が主導されている冬季救護事業です」

公爵は、ゆっくりと顔を上げた。

「……そのような承諾をした覚えはないのだが」

理事の表情が凍りついた。

「……え?」

「資料を見せてくれないか」

公爵は、静かに手を差し出した。

数分後。

一枚の書類が、公爵の前へ運ばれてきた。そこには確かに、ヴェルシュタイン公爵家の名前が記されていた。そして、その隣には公爵家の印章を模した、銀色の紋様が押されていた。

公爵は、それを見つめた。

「……アルフレッド」

背後に控えていた執事が、すぐに近づく。

「はい、閣下」

「この印章を確認してくれ」

アルフレッドは、書類を受け取った。

数秒後。

その表情が変わった。

「……閣下」

「どうした」

「……こちらは、当家の正式な印章ではございません」

会議室に、緊張が走った。

公爵は、静かに頷いた。

「……そうか」

「基金の監査責任者を呼んでくれ」

その声には、怒りも、動揺もなかった。

ただ明確な判断があった。

「……文書の出所を確認する必要がある」


四 薔薇の舞踏会


王宮西棟。夕刻。

大広間には、数百本の薔薇が飾られていた。

白い大理石の柱。金色の燭台。天井から吊るされた巨大な硝子のシャンデリア。楽団が優雅な旋律を奏で、貴族たちは華やかな衣装をまとっていた。

今夜の主役は、エレノア・ローゼンベルクだった。

淡い薔薇色のドレス。金色の髪に編み込まれた真珠。胸元には、小さな花の装飾。

彼女が入場すると、周囲から感嘆の声が上がった。

「まあ、エレノア様!」

「なんてお美しいのでしょう」

「今夜の慈善舞踏会も、素晴らしいですわ」

エレノアは、優雅に微笑んだ。

「皆様のおかげです。どうぞ、楽しんでいらして」

その笑みは、完璧だった。

しかし彼女の視線は、何度も入口へ向けられていた。

銀白色の髪。黒と銀の礼装。灰銀色の瞳。その姿を、探していた。

やがて大広間の入口が、静かに開いた。

「……ヴェルシュタイン公爵閣下」

誰かが、声を上げた。

エレノアは、息を呑んだ。

いた。

公爵は、アルフレッドと数名の関係者を伴って入室した。

黒い礼装。銀色の刺繍。いつもの、静かな表情。その姿を見た瞬間、エレノアの胸が高鳴った。

「……来てくださった」

小さく呟く。彼女は、すぐに歩き出した。

「公爵閣下!」

声をかける。

公爵は、足を止めた。

「……ローゼンベルク嬢」

エレノアは、満面の笑みを浮かべた。

「本日は、お越しいただきありがとうございます」

「基金の監査に関して、確認事項がございますので」

「……監査?」

エレノアは、わずかに首を傾げた。

公爵は、淡々と答えた。

「共同賛助者の記載についてです」

その瞬間。

エレノアの胸が、小さく跳ねた。

「……あ」

「少し、お時間をいただけますか」

公爵の声は、穏やかだった。しかし、エレノアには分かった。その表情は、普段よりもわずかに厳しい。

「……もちろんですわ」

彼女は、微笑んだ。

「でも、その前に……」

エレノアは、大広間の中央を見た。

舞台には、寄付金発表のための演台が用意されている。

「……少しだけ、お待ちいただけますか」

公爵は、眉を寄せた。

「……理由は?」

「今夜の、大切な発表があるのです」

彼女は、微笑んだ。

「……きっと、公爵閣下にも喜んでいただけると思いますわ」

公爵は、何も答えなかった。

ただ静かに、彼女を見つめていた。その視線にエレノアは、ほんの一瞬だけ幸福を感じた。

ようやく自分を見てくれた。

そう思った。しかしそれは、彼女が望んでいた眼差しではなかった。


五 偽りの賛助者


「皆様」

エレノアの声が、大広間に響いた。楽団の演奏が止まる。人々が、演台へ視線を向けた。

「本日は、王立救貧基金の慈善舞踏会にご参加いただき、誠にありがとうございます」

彼女は、優雅に一礼した。

「私たちが今夜ここに集まったのは、冬の寒さに苦しむ人々へ、少しでも温かな支援を届けるためです」

拍手が起こる。エレノアは、微笑んだ。

「そして、本日は皆様に、嬉しいご報告がございます」

彼女は、ゆっくりと一枚の書類を掲げた。

「このたび、北方冬季救護事業において、ヴェルシュタイン公爵家より共同賛助のお申し出をいただきました」

その瞬間。大広間が、ざわめいた。

「……ヴェルシュタイン公爵家が?」

「まあ、素晴らしい」

「ローゼンベルク侯爵令嬢と、共同で?」

エレノアは、静かに微笑んだ。

「……公爵閣下」

彼女は、大広間の奥を見つめた。

「どうか、こちらへ」

人々の視線が、一斉に公爵へ向けられた。エレノアの胸は、高鳴っていた。

これで。これで、ようやくあの人は、自分のそばに立ってくれる。

人々の前で。同じ慈善事業の名の下に。同じ舞台へ。そうすれば、きっと。

「……ローゼンベルク嬢」

静かな声が響いた。

公爵だった。しかし公爵は、舞台へ上がらなかった。その場に立ったまま、彼女を見つめていた。

「……その発表を、訂正してください」

エレノアの笑みが、止まった。

「……え?」

公爵は、淡々と続けた。

「私は、当該事業の共同賛助を承諾しておりません」

大広間が、静まり返った。

「……そんな」

エレノアは、息を呑んだ。

「……でも」

「先ほど、基金運営委員会に確認しました」

公爵は、静かに言った。

「当家の名前を記載した書類が存在するようですが、正式な承諾は行っておりません」

ざわめきが広がる。

エレノアは、震える声で答えた。

「……それは、何かの間違いですわ」

公爵は、彼女を見つめた。

「……では、承諾書を提示してください」

沈黙。

「……承諾書?」

「はい」

エレノアは、言葉に詰まった。公爵は、静かに続けた。

「当家が正式に承諾したことを示す文書です」

「……それは」

「お持ちですか」

大広間の視線が、彼女に集まった。

エレノアは、息を呑んだ。そして、必死に微笑んだ。

「……公爵閣下」

小さく呟く。

「……皆様が、見ていらっしゃいます」

公爵は、静かに答えた。

「存じております」

「……でしたら」

エレノアは、声を震わせた。

「……今は、少しだけ」

公爵は、首を横に振った。

「訂正が必要です」

その言葉は、あまりにも明確だった。

エレノアは、初めて理解した。公爵は、人前だからといって、意思を変えることはない。誰かの面目を守るために存在しない約束を、認めることはない。

「……どうして」

エレノアは、小さく呟いた。

「……どうして、そんなに」

その声は、演台の近くにいた者にしか聞こえなかった。

公爵は、静かに彼女を見つめた。

「……私は」

エレノアの唇が震える。

「……ただ、皆様に喜んでいただきたかっただけなのに」

公爵は、しばらく黙っていた。

そして。

「……それならば」

静かに言った。

「事実に基づいて、発表すべきでした」

その瞬間エレノアは、何も言えなくなった。


六 王太子の介入


「……何の騒ぎだ」

低い声が、大広間に響いた。レオンハルトだった。

深紅の礼装。プラチナブロンズの輝く髪。王家の紋章。その姿に、人々が一斉に頭を下げる。

「王太子殿下」

レオンハルトは、ゆっくりと歩み寄った。その視線は、まずエレノアへ。そして、公爵へ向けられた。

「……説明しろ」

基金の理事が、慌てて前へ出た。

「恐れながら、殿下。ヴェルシュタイン公爵家の共同賛助に関しまして、書類上の不一致が……」

「不一致?」

レオンハルトは、眉を寄せた。

「……どういうことだ」

「公爵家からの正式な承諾が確認されておりません」

レオンハルトは、公爵を見た。

「……ヴェルシュタイン公爵」

「はい」

「……また、お前か」

公爵は、わずかに眉を寄せた。

「……何のことでしょう」

レオンハルトは、低く息を吐いた。

「慈善事業への協力くらい、認めてもよいのではないか」

公爵は、静かに答えた。

「事業への協力と、無断で当家の名義を使用することは、別の問題です」

「……そうか」

レオンハルトは、エレノアを見た。

彼女は、今にも泣き出しそうな表情で立っている。その姿を見た王太子は、ゆっくりと微笑んだ。

「……では、こうしよう」

大広間が、静かになった。

「この件は、王宮内務局で調査する」

理事たちが、一斉に頭を下げた。

「……承知いたしました」

「そして、その間」

レオンハルトは、公爵を見つめた。

「……公爵には、関係者として王宮への出頭を求める」

公爵は、静かに答えた。

「……法的根拠を確認させてください」

レオンハルトの笑みが、わずかに消えた。

「……また、それか」

「はい」

公爵は、淡々と続けた。

「調査への協力はいたします。ただし、私に不正の疑いがあるのであれば、具体的な事実を提示していただきたい」

「……」

「また、今回の問題は、基金の会計管理と文書の真正性に関わるものです」

公爵は、周囲の理事たちを見た。

「王宮内務局だけでなく、基金の監査責任者にも調査へ参加していただくことを提案します」

レオンハルトは、眉を寄せた。

「……お前は、私の判断に異議があるのか」

公爵は、静かに答えた。

「調査の公正性を確保したいだけです」

レオンハルトは、公爵を見つめていた。

その灰銀色の瞳。落ち着いた声。そして、自分を恐れない態度。

『……欲しい』

頭の奥で、声が響いた。

レオンハルトは、息を止めた。

『……手に入れろ』

深紅の瞳が、かすかに揺れる。公爵は、その変化を見逃さなかった。

「……殿下?」

レオンハルトは、ゆっくりと笑った。

「……いいだろう」

そして、理事たちへ向き直った。

「正式な調査を行う」

その言葉に、会場は静まった。しかしレオンハルトの視線は、最後まで公爵から離れなかった。


七 冬を越すための金


「……閣下」

基金の会計担当官が、青ざめた顔で近づいてきた。騒動を受け、舞踏会は一時中断されていた。

「……何でしょう」

公爵が尋ねる。

担当官は、震える声で答えた。

「共同賛助に関する書類が無効となりますと、冬季救護事業の予算が不足する可能性がございます」

公爵は、眉を寄せた。

「……不足額は?」

「現時点では、確定しておりません」

「では、確定させてください」

「……はい」

担当官は、慌てて頭を下げた。しかし、公爵は続けた。

「なお、北方施療院への医薬品輸送については、別途手配します」

担当官が顔を上げた。

「……別途?」

「はい」

公爵は、アルフレッドを呼んだ。

「北方第三区の施療院へ、緊急輸送費を支出する」

「承知いたしました」

「公爵家の冬季予備費から、一時的に負担する形で構わない」

「はい」

「ただし、基金の正式予算とは区別して記録してくれ」

アルフレッドは、頷いた。

「かしこまりました」

公爵は、担当官へ向き直った。

「医薬品の不足は、待てません」

静かな声だった。

「ですが、今回の書類の問題を曖昧にする理由にもなりません」

担当官は、深く頭を下げた。

「……ありがとうございます」

公爵は、軽く頷いた。そして、淡々と答えた。

「……必要な仕事ですので」

その光景を少し離れた場所から、エレノアは見つめていた。

彼女は、理解できなかった。

どうして。どうして、そんなことができるのだろう。自分の頼みは、聞いてくれなかった。自分の名前を、共同賛助者として認めてくれなかった。

それなのに困っている人々への支援は、迷わず引き受ける。

「……どうして」

エレノアは、小さく呟いた。

「……私のお願いは、聞いてくださらないのに」

その声に、答える者はいなかった。

彼女は、まだ分かっていなかった。公爵が拒絶したのは、慈善事業ではない。本人の意思を無視して、名前を利用されたことだった。


八 薔薇の棘


夜。王宮西棟の小応接室。

エレノアは、長椅子に腰を下ろしていた。向かいには、基金の監査責任者と侯爵家の法務官。そして、公爵が座っている。

「……ローゼンベルク嬢」

監査責任者が、静かに口を開いた。

「今回の共同賛助者の記載について、説明をお願いできますか」

エレノアは、目を伏せた。

「……私は」

声が震えた。

「……公爵閣下なら、きっと協力してくださると思って」

「正式な承諾は?」

「……ありません」

監査責任者は、静かに頷いた。

「では、当家の承諾を得ないまま、名前を掲載したということですね」

「……はい」

エレノアは、俯いた。

「……でも」

小さく呟く。

「……悪いことをしようとしたわけではないんです」

公爵は、黙っていた。

「……誰かを、傷つけたかったわけでも」

彼女の声が、震えた。

「……ただ」

涙が、頬を伝った。

「……ただ、一度でいいから」

公爵が、顔を上げた。エレノアは、涙を浮かべた瞳で見つめた。

「……私を、見てほしかったんです」

長い沈黙だった。

公爵は、しばらく彼女を見つめていた。そして、静かに口を開いた。

「……ローゼンベルク嬢」

「……はい」

「あなたが私に関心を持っていることは、理解しています」

エレノアは、息を呑んだ。

公爵は続けた。

「しかし、それは私の意思を変更する理由にはなりません」

「……」

「まして、他人の名前を使用する理由にもなりません」

エレノアの唇が震えた。

「……それでも」

小さく呟く。

「……何も、感じないんですか」

公爵は、少し考えた。

「……今回の件については、不快に感じています」

その答えに、エレノアは息を止めた。

公爵は、静かに続けた。

「私の名前が、許可なく使用されました」

「……」

「その結果、慈善基金の会計にも混乱が生じています」

エレノアは、俯いた。

「……申し訳、ありません」

公爵は、軽く頷いた。

「謝罪は受け取ります」

その言葉にエレノアは、わずかに顔を上げた。

しかし。

「……ただし、文書の調査は必要です」

公爵は、淡々と続けた。

「謝罪によって、事実がなくなるわけではありませんので」

エレノアは、何も言えなかった。

そして、ふと思ってしまった。

あの人は本当に、自分を見てくれている。こんなにも、真剣に。こんなにも、まっすぐに。しかし、その眼差しには愛情も、憧れも、特別な関心もなかった。

ただ一人の当事者として、彼女を見ているだけだった。

エレノアは、ゆっくりと目を閉じた。そして初めて、自分が何をしてしまったのかを少しだけ、理解した。


九 印章の違和感


会談が終わり、エレノアが退室したあと公爵は、監査責任者へ尋ねた。

「……例の書類を、もう一度確認できますか」

「承知いたしました」

書類が、机の上に置かれた。

公爵は、その印章を見つめた。

銀色の紋様。ヴェルシュタイン公爵家の紋章。しかし、細部が異なっている。

正式な印章には、北方の湖を象徴する三本の波線が刻まれている。ところが、この印章には波線が、四本あった。

「……粗雑な偽造だな」

アルフレッドが、静かに頷いた。

「はい、閣下」

公爵は、書類を裏返した。

そのとき。

紙の端に、小さな刻印があることに気づいた。

王宮文書局の透かし。

それ自体は、不自然ではない。しかしその隣に、別の紋様が刻まれていた。

円。七つの突起。そして、その中央にある。小さな王冠。

公爵は、眉を寄せた。

「……これは?」

監査責任者が、首を傾げた。

「……分かりません」

公爵は、アルフレッドを見た。

「王宮の印章管理記録を調べられるか」

「正式な照会であれば、可能かと存じます」

「では、依頼してくれ」

「承知いたしました」

公爵は、再び書類を見つめた。

七つの突起を持つ王冠。それは、見覚えのある形だった。

昨夜、青い炎が、机の上に浮かび上がらせた古代文字。その周囲に現れた、円形の紋様。完全に同じではない。しかし似ている。

「……偶然か」

公爵は、小さく呟いた。そして、書類を閉じた。

この時点で、推測を重ねる意味はない。必要なのは、証拠だった。


十 密偵の失敗


同じ夜。

ヴェルシュタイン公爵邸の裏門近くで、一人の男が立ち止まっていた。

灰色の外套。深くかぶった帽子。男は、周囲を確認した。そして、小さく口笛を吹いた。

数秒後。

屋敷の使用人が、門の内側に現れた。

「……何の用ですか」

男は、静かに微笑んだ。

「少し、話がある」

「……どなたでしょう」

「公爵閣下の安全について、協力をお願いしたい」

使用人は、眉を寄せた。

「……安全?」

男は、懐から小さな革袋を取り出した。

金貨が、かすかに音を立てる。

「公爵閣下の外出予定を、教えてほしい」

使用人は、黙っていた。

男は続けた。

「特に、王宮への訪問予定だ」

「……」

「危険な人物が近づく可能性がある。こちらとしても、事前に対応したい」

使用人は、静かに尋ねた。

「……どなたのご依頼ですか」

男は、微笑んだ。

「それは、言えない」

「……そうですか」

使用人は、ゆっくりと頷いた。

「では、少々お待ちください」

男は、安堵したように笑った。

「……協力してくれるのか」

「責任者を、お呼びします」

その瞬間。

男の表情が変わった。

「……いや、それは」

しかしすでに遅かった。門の向こうから、複数の足音が響いた。

公爵家の警備兵だった。

「……何者だ」

警備責任者が、低い声で尋ねた。

男は、ゆっくりと後ずさった。

「……私は」

「公爵家の使用人に、金銭を渡して情報を得ようとしたと聞いている」

「……誤解だ」

男は、逃げようとした。しかし、警備兵が進路を塞いだ。短い抵抗の末、男は取り押さえられた。そして懐から、一冊の手帳が見つかった。

その中にはヴェルシュタイン公爵の移動経路。王宮への出席予定。面会記録。そして、複数の貴族の名前が記されていた。

警備責任者は、眉を寄せた。

「……これは」

手帳の最後のページ。そこには、小さな文字で。『L・V』と記されていた。


十一 誰が自由を守るのか


翌朝。ヴェルシュタイン公爵邸。

「……密偵?」

公爵は、アルフレッドの報告を聞いていた。

「はい、閣下」

「目的は?」

「閣下の移動経路および王宮訪問予定の収集とみられます」

公爵は、眉を寄せた。

「……雇い主は?」

「現時点では不明でございます」

アルフレッドは、手帳を差し出した。

「ただし、こちらの記録が発見されました」

公爵は、手帳を開いた。そこには、自分の行動が細かく記されていた。

外出時刻。訪問先。滞在時間。そして過去に会った人物の名前。

「……随分と、熱心だな」

公爵は、小さく呟いた。

アルフレッドは、静かに頷いた。

「……はい」

「使用人に被害は?」

「ございません」

「それならよかった」

公爵は、手帳を閉じた。

「……王都警備局に、正式な調査を依頼してくれ」

「承知いたしました」

「証拠品は、受領記録を取って引き渡す」

「はい」

「また、使用人には個人情報の取り扱いについて、再度周知してほしい」

「かしこまりました」

公爵は、椅子に深く腰を下ろした。

窓の外には、秋の庭園が広がっている。冷たい風。揺れる木々。静かな朝。

「……アルフレッド」

「はい、閣下」

「最近、似たようなことが多すぎるな」

アルフレッドは、少しだけ苦笑した。

「……否定はできかねます」

公爵は、静かに息を吐いた。

「……誰も彼も」

小さく呟く。

「……私のためだと言いながら、勝手なことばかりする」

アルフレッドは、何も答えなかった。

公爵は、窓の外を見つめた。

「……私は」

静かに言った。

「……自分の自由を、誰かに守ってもらうために生きているわけではない」

その言葉は、誰にも向けられていなかった。

ただ自分自身の意思を、確認するような声だった。


十二 王冠と薔薇


王宮東棟。

レオンハルトは、机の上の報告書を読んでいた。

『慈善舞踏会における共同賛助者名義の問題』

『ヴェルシュタイン公爵家、正式な調査を要求』

『基金運営委員会、ローゼンベルク侯爵令嬢への事情聴取を実施』

彼は、ゆっくりと笑った。

「……愚かな娘だ」

小さく呟く。

ローゼンベルク侯爵令嬢。誰からも愛されたいと願う女。公爵の関心を得るために、慈善事業まで利用した。その結果自分の立場を危うくしている。

「……だが」

レオンハルトは、報告書を閉じた。

「……使い道はある」

彼は、机の引き出しから一通の書簡を取り出した。

王宮文書局への内部照会。そこには、今回の共同賛助者に関する文書の出所を調査するよう記されていた。レオンハルトは、それを見つめた。

王宮文書局。王冠の古い印章。七つの封印。そしてヴェルシュタイン公爵。

すべてが、少しずつ近づいている。

「……もうすぐだ」

小さく呟く。その瞬間。右手に、鋭い痛みが走った。

「……っ」

レオンハルトは、手袋を外した。掌には、黒い線が浮かび上がっていた。細い線。まるで、鎖のような模様。それは、手首から指先へ向かって伸びていた。

「……何だ、これは」

小さく呟く。

そのとき。頭の奥で、声が響いた。

『……王冠は』

『……代償を求める』

レオンハルトは、息を呑んだ。

「……代償?」

『……欲望を』

『……叶えるために』

黒い線が、わずかに脈打った。レオンハルトは、ゆっくりと笑った。

「……構わない」

小さく呟く。

「……何を失おうと」

彼は、窓の外を見つめた。遠くに、ヴェルシュタイン公爵邸のある貴族街が見える。

「……お前さえ、手に入れば」

その声には、もはや迷いがなかった。

しかし彼は、まだ知らなかった。王冠が求める代償は必ずしも、本人が差し出すと決めたものだけではないことを。


十三 薔薇のない部屋


ローゼンベルク侯爵家。夜。

エレノアは、一人で寝室にいた。

机の上には、王立救貧基金からの通知書。

『共同賛助者の記載に関する調査が完了するまで、運営委員としての職務を一時停止する』

その一文を、何度も読み返していた。

職務停止。社交界での噂。侯爵家への問い合わせ。そして父から告げられた、厳しい言葉。

『お前は、侯爵家の信用を損なった』

エレノアは、ゆっくりと目を閉じた。

「……そんなつもりじゃ」

小さく呟く。

彼女は、本当に人々を助けたかった。慈善事業を成功させたかった。そして公爵に、褒めてほしかった。ただ、それだけだった。そう思いたかった。

しかし頭の中で、公爵の言葉が繰り返される。

『事実に基づいて、発表すべきでした』

エレノアは、唇を噛んだ。

分かっていた。承諾を得ていないことを。名前を勝手に掲載していることを。

それでも、止めなかった。

むしろその名前があれば、公爵が自分のそばへ来てくれると思った。

「……私」

小さく呟く。

「……何を、していたのかしら」

その声には、初めて自分自身への疑問が宿っていた。しかし次の瞬間。別の感情が、胸の奥から湧き上がった。

悔しさ。恥ずかしさ。そしてどうしようもないほどの、執着。

「……でも」

エレノアは、ゆっくりと顔を上げた。

「……あの方は」

涙が、頬を伝う。

「……私を、見てくれた」

それは、間違いではなかった。

公爵は確かに、彼女を見た。ただし愛する相手としてではない。特別な存在としてでもない。自分の行動に責任を負うべき、一人の人間として。

その違いを、エレノアは理解しかけていた。しかし受け入れることが、できなかった。

彼女は、鏡を見つめた。

美しい金髪。翡翠色の瞳。白い肌。誰からも愛されてきた、自分の姿。

「……一度でいいの」

小さく呟く。

「……私だけを、見てくれたら」

その声は、震えていた。

「……もう、何も望まないから」

けれど、その言葉が嘘であることを彼女自身が、誰よりもよく知っていた。

一度見てもらえたなら次は、微笑んでほしくなる。微笑んでもらえたなら次は、名前を呼んでほしくなる。そして、名前を呼んでもらえたなら。

もっと。もっと。もっと欲しくなる。

薔薇の香りが、部屋に満ちていた。しかし、その夜エレノアは初めて大好きだった薔薇の香りを、息苦しいと感じた。


十四 小さな亀裂


神骸の聖域。深い闇の底。

忘却の神ノクティスは、静かに目を開いていた。

石棺の周囲に、七本の黒い鎖。そのうち、二本はすでに砕け。三本目には、深い亀裂が走っている。

『……愚かな』

低い声が響いた。

『……何度』

『……同じことを、繰り返す』

青い光が、揺れた。ノクティスは、遠く離れた王都を見つめた。

王太子。女王。聖騎士。魔術師。侯爵令嬢。王弟。

六人。

それぞれの欲望。それぞれの言い訳。それぞれの、歪んだ愛情。

『……愛という名で』

神は、静かに呟いた。

『……何を、奪う』

長い沈黙。

『……あれは』

その声が、わずかに震えた。

『……誰のものでもない』

青い光が、ゆっくりと強くなる。しかしノクティスは、まだ気づいていなかった。自分自身もまた、公爵の存在を、忘れられなくなっていることに。

神すら拒む魂。何者にも縛られない存在。その特異性に惹かれ。声をかけ。警告し。何度も、様子を見に来ている。

それは、六人の欲望とは異なるものなのか。それともただ、違う名前を与えられているだけなのか。

ノクティスは、静かに目を閉じた。その問いに神自身も、まだ答えを持っていなかった。


十五 誰のための慈善か


翌朝。ヴェルシュタイン公爵邸。

公爵は、北方施療院への緊急輸送費に関する書類を確認していた。

「……医薬品の発送は?」

アルフレッドが答える。

「本日午後に出発予定でございます」

「到着見込みは?」

「道路状況に問題がなければ、四日後でございます」

公爵は、頷いた。

「……分かった」

そして、別の書類を開いた。

王立救貧基金の監査報告。ローゼンベルク侯爵令嬢の職務停止。偽造印章の調査。そして、王宮文書局への照会。

「……進展は?」

アルフレッドは、静かに答えた。

「王宮文書局からの正式な回答は、まだ届いておりません」

「そうか」

公爵は、筆を置いた。

「……では、引き続き確認してくれ」

「承知いたしました」

アルフレッドは、一礼した。そして、静かに尋ねた。

「……閣下」

「何だ」

「ローゼンベルク侯爵令嬢の件については、いかが思われますか」

公爵は、少し考えた。

「……残念なことだと思う」

アルフレッドは、わずかに驚いた。

「……残念、でございますか」

「うむ」

公爵は、淡々と続けた。

「彼女の慈善活動には、一定の実績がある」

「……はい」

「今回の件がなければ、今後も多くの人々を支援できただろう」

アルフレッドは、静かに頷いた。

「……おっしゃるとおりでございます」

公爵は、窓の外を見つめた。

秋の庭園。落葉。静かな風。

「……ただ」

小さく呟く。

「……その実績と、今回の行為は別の問題だ」

アルフレッドは、深く頭を下げた。

「……承知いたしました」

公爵は、再び書類へ目を落とした。そして、次の仕事を始めた。今日も、やるべきことは多かった。

領地の財政。道路整備。冬季輸送。施療院への支援。そして、王宮との法的な調整。そのすべてが、日常の仕事だった。

誰かの愛情を受け入れることよりも。誰かの執着に応えることよりも。はるかに、重要な仕事だった。公爵は、静かに筆を走らせた。


その頃。

ヴァレンティス王国使節館では、リオネルが密偵の失踪について報告を受けていた。

王宮では、レオンハルトの掌に浮かんだ黒い鎖が、少しずつ腕へ伸び始めていた。

白き大聖堂では、ルシアンが封印記録の写しを隠し持ったまま、公爵への接触方法を考えていた。

魔術研究棟では、カイが失われた記憶の輪郭を、必死に探していた。

そしてローゼンベルク侯爵家では、エレノアが、一輪の薔薇を見つめていた。

六人。

それぞれの欲望。それぞれの選択。しかしその中心にいる公爵はまだ、誰のものにもならなかった。

そして、これからも。

その意思を変えるつもりはなかった。


第十章 了

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