第十一章 密偵の手帳
人は、知らないものを恐れる。
けれど、誰かを愛したと信じた人間は、知らないことそのものを許せなくなる。
今日、どこへ行ったのか。
誰と会い、何を話したのか。
何時に帰り、どの部屋の明かりを消したのか。
それらを知ることが、相手を理解することだと思い込む。
やがて、知るだけでは足りなくなる。
危険だから、行かないでほしい。
心配だから、会わないでほしい。
あなたのためだから、私の言うことを聞いてほしい。
そうして人は、愛する相手の人生から、少しずつ選択肢を奪っていく。
リオネル・ヴァレンティスは、自分を優しい人間だと信じていた。
そして、その認識こそが、彼を最も危険な存在にしていた。
一 手帳に記された二十三日間
ヴェルシュタイン公爵邸。午前七時。
執務室の机には、一冊の黒い手帳が置かれていた。革表紙の角は擦り切れ、綴じ目には細かな傷がある。一見すれば、ありふれた帳面だった。しかしその中身は、決してありふれたものではなかった。
『十月三日、午前九時二十分。公爵邸より馬車出発。目的地、王立図書館』
『午前十一時四十分、王立図書館退館』
『午後零時十分、公爵邸帰着』
『十月五日、午後二時。聖騎士団長ルシアン・アストレア、公爵邸訪問』
『面会時間、約十分』
公爵は、静かにページをめくった。さらに記録が続いている。
『十月八日、ヴァレンティス王国からの書簡受領。返信なし』
『十月十二日、王室護衛隊派遣の申し入れを拒否』
『十月十六日、北方魔導灯整備会議に出席』
『十月二十一日、王宮西棟にて救貧基金審査会へ出席予定』
日付は、二十三日間にわたっていた。
公爵は、最後のページまで確認すると、手帳を閉じた。
「……アルフレッド」
「はい、閣下」
「これほど詳細な情報が、外部から収集されていたのか」
「現時点では、そのように考えられます」
「情報源は?」
アルフレッドは、別の報告書を差し出した。
「拘束された男の供述によれば、公爵邸周辺の監視に加え、馬車の出入りや王宮の公開予定を照合していたとのことでございます」
「……使用人からの情報提供は?」
「確認されておりません。昨夜接触を受けた者が、最初に報告しております」
公爵は、わずかに頷いた。
「そうか」
再び手帳を開く。一か所気になる点があった。
『十月八日、ヴァレンティス王国からの書簡受領。返信なし』
「……これは、どうやって確認した?」
アルフレッドは、手帳を覗き込んだ。
「……書簡の配達については、外部から確認できた可能性がございます」
「返信がないことは?」
アルフレッドの表情が引き締まった。
「……それは」
「通常、配達員や外部の監視者には分からない」
公爵は、静かに言った。
「こちらが別の経路で返信した可能性もあるからな」
「……おっしゃるとおりでございます」
公爵は、手帳の他の記録を見直した。そして、ある共通点に気づいた。
王太子からの招待。女王からの書簡。聖騎士団長の訪問。宮廷魔術師との接触。
そのいずれにも、拒否したかどうかが記されている。
「……なるほど」
小さく呟く。
「誰と会ったかではなく、誰を拒絶したかを調べている」
アルフレッドは、息を呑んだ。
公爵は、手帳を閉じた。
「……相手の目的が、少し見えてきたな」
その声には、怒りよりも、冷たい警戒があった。
二 王弟の朝
ヴァレンティス王国使節館。同じ朝。
「……拘束された?」
リオネルは、目の前の密偵を見つめた。
「はい、殿下」
男は、深く頭を下げた。
「昨夜、公爵邸の使用人へ接触を試みた調査員が、王都警備局へ引き渡されました」
リオネルは、しばらく黙っていた。やがて、静かに尋ねた。
「……怪我は?」
「ございません。抵抗はあったものの、軽度だったとの報告です」
「そう」
リオネルは、安堵したように息を吐いた。
「……それなら、よかった」
彼が最初に気にかけたのは、部下の身体だった。そのこと自体は、嘘ではない。
リオネルは、部下に対して決して冷酷な主人ではなかった。彼らの家族構成を覚え、病気になれば見舞金を出し、無理な任務を強いることも少なかった。だからこそ、部下たちは彼を慕っていた。
「……手帳は?」
「押収されました」
リオネルの指先が、止まった。
「……全部?」
「はい」
リオネルは、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「……そうか」
男は、慎重に尋ねた。
「殿下。いかがいたしましょう」
リオネルは、目を閉じた。
頭の中に、公爵の姿が浮かぶ。銀白色の髪。灰銀色の瞳。静かな声。
誰に対しても、一定の距離を保つ態度。
初めて会ったとき。彼は、ただ一言だけ告げた。
『どうぞ、お気をつけて』
それだけだった。しかしリオネルは、その短い言葉を何度も思い返していた。
誰にでも向けられる、形式的な挨拶。それでも、その場にいた他の誰でもなく、自分へ向けられた言葉だった。
彼は、その事実に意味を見いだしたかった。
「……まずは、彼の身元を確認して」
リオネルは、静かに言った。
「王国法に従った手続きが行われているか、弁護人を通じて確かめよう」
「承知いたしました」
「不必要な介入はしないで」
「……はい」
男が退出する。
一人になったリオネルは、長い息を吐いた。
「……困ったな」
彼は、机の引き出しを開いた。そこには、別の手帳が収められていた。密偵のものより、はるかに小さな帳面。表紙には、何の文字もない。しかし、中には、公爵に関する情報が丁寧に記されていた。
『香りの強い贈り物は受け取らない』
『私的な招待状には返信しない場合が多い』
『公務については、内容を確認したうえで判断する』
『相手の地位によって、意思を変えない』
そして最後のページには、一文だけ。
『あの人が望むのは、静かな生活』
リオネルは、その文字を見つめた。
「……分かっているよ」
小さく呟く。
「……ちゃんと、分かっている」
だからこそ危険を遠ざけなければならない。
王太子。聖騎士。魔術師。そして、自分の姉。
彼らは皆、公爵の自由を脅かしている。リオネルは、そう考えていた。
自分だけは、違う。自分は、公爵を無理に招いたりしない。触れようともしない。心を開けとも言わない。ただ、危険を知らせる。ただ、守る。ただ、静かな生活を維持できるようにする。
そのために、情報を集めているだけだ。
「……君の自由を守れるのは」
リオネルは、小さく微笑んだ。
「……僕だけなんだよ」
その言葉を、彼自身はまだ恐ろしいと思わなかった。
三 女王の疑念
「リオネル」
突然、扉が開いた。リオネルは顔を上げた。そこには、セラフィーナ女王が立っていた。
赤銅色の髪。深い緑の瞳。今日の彼女は、いつもの華やかなドレスではなく、簡素な濃紺の執務服をまとっていた。
「……姉上」
リオネルは立ち上がった。
「どうされたのですか」
「少し、話があるわ」
彼女は、背後の侍従へ視線を向けた。
「席を外して」
侍従が退出する。扉が閉まる。
セラフィーナは、弟を見つめた。
「……あなた、公爵家を監視していたの?」
リオネルは、ゆっくりと笑った。
「……ずいぶん急な質問ですね」
「答えて」
女王の声は、冷たかった。リオネルは、しばらく黙っていた。そして、静かに答えた。
「……情報収集は、指示していました」
セラフィーナの表情が変わった。
「……何のために」
「王太子の動向を警戒するためです」
「それなら、王太子を調べればいいでしょう」
「……」
「なぜ、公爵閣下の私生活を調べる必要があるの?」
リオネルは、言葉を選んだ。
「……危険が迫っているからです」
「何の危険?」
「王冠の契約です」
セラフィーナの表情が凍りついた。
「……何ですって?」
リオネルは、机の引き出しから一枚の報告書を取り出した。
「レオンハルト王太子は、王宮地下の禁域へ出入りしています」
「……」
「王家に伝わる、古い儀式を調べているようです」
セラフィーナは、報告書を受け取った。そこには、王宮地下霊廟への出入りを示す複数の記録があった。
「……王冠の契約」
女王は、小さく呟いた。
ヴァレンティス王家にも、三百年前の神殺しに関する断片的な記録が残されていた。
エルディア王家が、神々の力を奪おうとした。その結果、王家の血に呪いが宿った。詳しい内容は、今では分からない。しかし、それが国家間の争いを引き起こしかねない禁忌であることは、知っていた。
「……これは、確かな情報なの?」
「地下霊廟への出入りは確認されています。ただし、儀式を行った証拠まではありません」
セラフィーナは、ゆっくりと報告書を置いた。
「……ならば、なおさら」
彼女は、弟を見つめた。
「公爵閣下の監視を正当化する理由にはならないわ」
リオネルは、顔を上げた。
「……姉上」
「あなたは、あの方の行動を調べていたのでしょう?」
「……はい」
「本人に知らせずに?」
「……はい」
「本人の許可もなく?」
リオネルは、静かに答えた。
「……危険を避けるためです」
セラフィーナは、目を閉じた。
「……リオネル」
その声には、怒りよりも、深い失望が宿っていた。
「あなたがしていることは、王太子と何が違うの?」
リオネルの笑みが消えた。
「……違います」
「何が?」
「僕は、あの人に何も要求していません」
セラフィーナは、静かに弟を見つめた。
「……それだけ?」
「……はい」
「要求しなければ、何をしてもいいの?」
リオネルは、息を呑んだ。セラフィーナは、続けた。
「監視されていると知ったとき、あの方がどう感じるか、考えたことはある?」
「……」
「あなたは、公爵閣下を理解していると言ったわね」
リオネルは、俯いた。
「……はい」
「ならば、なぜ本人の意思を確認しなかったの?」
リオネルは、答えられなかった。しかし、その沈黙の中で彼は別のことを考えていた。
姉は、分かっていない。本当に危険なのは、レオンハルト王太子だ。彼が何をしようとしているのか、姉は知らない。だから、そんなことが言える。
「……姉上」
リオネルは、静かに口を開いた。
「僕は、あの人を守りたいだけです」
セラフィーナは、しばらく弟を見つめていた。
そして。
「……私もよ」
小さく答えた。
その瞬間二人は、互いの瞳に同じものを見た。
自分こそが、公爵を守れる。自分こそが、公爵の幸福を理解している。そう信じる、強い確信。
姉弟は、初めて互いの欲望が、驚くほど似ていることに気づいた。
四 外交上の抗議
午後。ヴェルシュタイン公爵邸。
「……外交抗議?」
アルフレッドが、確認するように尋ねた。
公爵は、頷いた。
「王都警備局の調査が進んだ段階で、正式に申し入れる」
「……ヴァレンティス王国へ、でございますか」
「現時点では、断定しない」
公爵は、机の上の報告書を見つめた。
「密偵が外国の情報機関に関係している可能性はある。しかし、手帳の末尾に記された文字だけでは、依頼者を特定できない」
『L・V』
二文字。リオネル・ヴァレンティス。その名前を連想することは、容易だった。しかし、それが証拠になるわけではない。
「……推測で他国の王族を非難すれば、外交問題になる」
公爵は、静かに続けた。
「こちらが法的な正当性を失うわけにはいかない」
アルフレッドは、深く頷いた。
「承知いたしました」
「それから、調査の範囲を明確にしてくれ」
「……範囲、でございますか」
「私の移動経路や面会記録が、どの経路で収集されたのか」
公爵は、手帳を開いた。
「外部から確認できる情報と、内部関係者でなければ知り得ない情報を分ける」
「……はい」
「そして、情報の提供者がいた場合も、最初から犯罪者と決めつけないこと」
アルフレッドは、少し驚いた。
「……閣下?」
「相手が公的な照会だと偽っていた可能性もある」
「……なるほど」
「使用人が脅迫や欺罔によって情報を渡したのであれば、対応が変わる」
公爵は、静かに言った。
「必要なのは犯人探しではなく、事実の確認だ」
アルフレッドは、深く頭を下げた。
「……かしこまりました」
公爵は、書類を閉じた。
そのとき扉が、控えめに叩かれた。
「……閣下」
使用人の声だった。
「ヴァレンティス王国使節館より、書簡が届いております」
公爵は、顔を上げた。
「……差出人は?」
「リオネル・ヴァレンティス殿下でございます」
公爵は、しばらく考えた。そして、静かに答えた。
「……持ってきてくれ」
五 善意という名の手紙
書簡は、一枚だけだった。香りはない。装飾もない。白い紙に、丁寧な文字が並んでいる。
以前、リオネルが送ってきた謝罪の手紙と、よく似ていた。
公爵は、封を切った。
『ヴェルシュタイン公爵閣下
突然のお便りをお許しください。
先日、公爵邸付近にて不審な人物が拘束されたとの報告を耳にいたしました。
王都において公爵閣下の安全が脅かされていることを、大変憂慮しております。
もし、何かお困りのことがございましたら、どうか遠慮なくお申し付けください。
私にできることであれば、可能な限りお力添えしたいと考えております。
何よりも、公爵閣下が静かに過ごされることを願っております。
リオネル・ヴァレンティス』
公爵は、最後まで読んだ。そして、書簡を机に置いた。
「……アルフレッド」
「はい」
「この書簡の到着時刻を記録してくれ」
「承知いたしました」
「返信は……いかがなさいますか」
公爵は、少し考えた。
「……今は不要だ」
そして、別の書類を取り出した。
拘束された密偵の報告書。その中に、ある一文が記されていた。
『情報収集の目的について、依頼人は対象者の安全確保を強調していた』
公爵は、リオネルの書簡を見つめた。
『公爵閣下が静かに過ごされることを願っております』
二つの文章。同じような言葉。同じような目的。しかし、それだけで結論を出すことはできない。
公爵は、静かに言った。
「……この手紙も、調査資料に加えておいてくれ」
アルフレッドは、頷いた。
「かしこまりました」
そして、書簡を慎重に封筒へ戻した。
公爵は、窓の外を見つめた。午後の光が、庭園を照らしている。静かな風。揺れる木々。
「……本当に……私の安全を心配する人間が、多すぎるな」
その声には、かすかな皮肉が混じっていた。
六 盗まれた予定
王都警備局。午後三時。
尋問室では、黒い手帳の持ち主が椅子に座っていた。その向かいには、王都警備局の調査官。そして、公爵家の法務官が同席している。
男の名前は、ノエル・ヴァイス。表向きは、交易関係の調査員だった。しかし所持品からは、複数の偽名を用いた通行証が見つかっていた。
「……雇い主の名前は?」
調査官が尋ねた。ノエルは、黙っていた。
「あなたの手帳には、公爵の行動記録が詳細に記されている」
「……」
「これを、誰に渡すつもりだった?」
ノエルは、ゆっくりと顔を上げた。
「……仕事です」
「何の仕事だ」
「……情報を、集める仕事」
調査官は、息を吐いた。
「誰のために?」
ノエルは、答えなかった。
やがて。
「……あの方は」
小さく呟いた。
「……悪い人では、ありません」
調査官は、眉を寄せた。
「……あの方?」
ノエルは、口を閉じた。
「……誰のことだ」
ノエルは、首を横に振った。
「……それ以上は、言えません」
調査官は、しばらく彼を見つめていた。そして、手帳を開いた。
「……では、別の質問だ」
ある一ページを示す。
「十月二十一日の記録だ」
ノエルは、顔を上げた。
「……」
「公爵が王宮西棟へ出席する予定について、正確な時刻が記されている」
「……」
「しかし、この予定は、一般公開されていなかった」
ノエルの表情が変わった。
「……その情報は、どこから入手した?」
長い沈黙。やがてノエルは、低く答えた。
「……王宮の、外部委託業者からです」
調査官は、眉を寄せた。
「……外部委託業者?」
「……はい」
「具体的には?」
ノエルは、しばらく黙っていた。そして、静かに答えた。
「……馬車の配車を管理している者です」
調査官は、記録係へ視線を向けた。
「……確認しろ」
記録係が、頷いた。そのときノエルは、続けた。
「……ただ」
調査官が顔を上げる。
「……何だ」
「……一つだけ、違う」
「……違う?」
ノエルは、手帳を見つめた。
「……その日の予定は」
小さく呟く。
「……後から、変更されていました」
調査官は、眉を寄せた。
「……どういうことだ」
ノエルは、静かに答えた。
「……最初に届いた予定では、公爵は王宮東棟へ向かうことになっていたんです」
「……しかし、実際には西棟だった…と?」
「……はい」
「なぜ、変更された?」
ノエルは、首を横に振った。
「……分かりません」
そして。
「……変更後の予定は……僕たちには、知らされませんでした」
調査官は、手帳を見つめた。
王宮東棟。そして、西棟。その違いが何を意味するのか。今は、まだ分からなかった。
七 交錯する監視
王宮東棟。
「……ヴァレンティスの密偵だと?」
レオンハルトは、報告書を見つめた。
「はい、殿下」
侍従が答える。
「現時点では断定されておりませんが、王都警備局では外国情報機関との関係を調べている模様です」
レオンハルトは、低く笑った。
「……なるほど」
手元には、別の報告書が置かれていた。
ヴァレンティス王国使節館の出入り記録。
リオネル・ヴァレンティス。女王セラフィーナの弟。王弟。そして公爵へ、以前から書簡を送っていた人物。
「……あいつもか」
レオンハルトは、小さく呟いた。
侍従が、慎重に尋ねた。
「……殿下?」
「リオネルだ」
王太子は、静かに言った。
「……あいつも、公爵を狙っている」
「……それは」
「調べれば分かる」
レオンハルトは、報告書を閉じた。
「王都警備局の調査を、こちらでも把握しておけ」
「……承知いたしました」
「ただし、調査官へ圧力はかけるな」
侍従は、少し驚いた。
「……殿下?」
レオンハルトは、静かに微笑んだ。
「正式な証拠が必要だからだ」
その言葉は、合理的に聞こえた。しかし彼の目的は、調査の公正性ではなかった。リオネルを、公爵から遠ざけること。外交上の立場を失わせること。
そして公爵へ近づく者を、一人ずつ排除すること。
「……まずは、王弟からだ」
レオンハルトは、低く呟いた。
その瞬間、掌に浮かんだ黒い鎖が、かすかに疼いた。彼は、手袋の上から握りしめた。
「……邪魔な者は」
小さく笑った。
「……すべて、排除する」
窓の外では、秋の雲が流れていた。
八 王弟の決断
ヴァレンティス王国使節館。夜。
リオネルは、机の上の報告書を見つめていた。
『ノエル・ヴァイス、王都警備局にて事情聴取中』
『王宮関係者との接触が確認される』
『ヴェルシュタイン公爵家、正式な調査を要請』
リオネルは、静かに息を吐いた。
「……そうか」
彼は、視線を報告書から外し、窓の外を見つめた。
王都の灯り。遠くに見える、貴族街。その先に、公爵邸がある。
「……嫌われたかな」
小さく呟く。初めて、その可能性を考えた。もし、公爵が自分の命令を知ったなら、どう思うだろう。
不快に感じるだろうか。怒るだろうか。それとも、これまでのように、淡々と拒絶するだろうか。
リオネルは、ゆっくりと笑った。
「……仕方ないよね」
小さく呟く。
「……危険だったんだから」
彼は、自分に言い聞かせた。これは、必要なことだった。
王太子は、禁忌の儀式を調べている。魔術師は、魂の観測を試みた。聖騎士は、公爵を救おうとしている。女王は、外交協定で公爵を自国へ招こうとしている。
皆、危険だ。
だから自分が、守らなければならない。
「……分かってもらえなくても」
小さく呟く。
「……それでも、僕は」
そのとき扉が叩かれた。
「……殿下」
侍従の声だった。
「ヴェルシュタイン公爵家より、正式な書簡が届いております」
リオネルは、顔を上げた。
「……公爵家から?」
「はい」
その瞬間、胸が高鳴った。
初めてだった。公爵から、自分へ向けた正式な書簡が届くのは。
「……持ってきて」
リオネルは、静かに言った。
侍従が、封筒を差し出す。
銀色の蝋印。ヴェルシュタイン公爵家の紋章。
リオネルは、ゆっくりと封を切った。
そして書かれていた内容を読んだ。
『リオネル・ヴァレンティス殿下
先日、当家の使用人へ接触し、私の行動に関する情報を収集しようとした人物が拘束されました。
現在、王都警備局において、当該人物の所属および依頼関係について調査が進められております。
その過程において、貴殿の関与を示唆する情報が確認されているとの報告を受けました。
つきましては、事実確認のため、正式な外交経路を通じて説明を求めます。
なお、調査が完了するまで、当家に対する私的な接触は控えていただきますようお願いいたします。
ヴェルシュタイン公爵』
リオネルは、書簡を見つめた。
何度も。何度も。読み返した。
『私的な接触は控えていただきますよう』
その一文が、胸に刺さった。
「……ああ」
小さく呟く。
「……そうか」
彼は、ゆっくりと目を閉じた。そして初めて、理解した。
自分は、公爵に拒絶されたのだ。しかも何かを贈ったからではない。何かを要求したからでもない。ただ公爵を守ろうとしただけなのに。
「……どうして……僕は」
その声が、震えた。
「……君のために」
彼は、書簡を握りしめた。そして静かに笑った。
「……いや」
小さく呟く。
「……まだ、分かってもらえていないだけだ」
その瞬間、彼の中で何かが変わった。
拒絶された。ならば、説明すればいい。説明しても伝わらないなら。もっと、確かな方法で示せばいい。自分が、どれほど公爵を守ろうとしているのか。どれほど危険を理解しているのか。
そしてどれほど、あの人の自由を大切に思っているのか。
「……大丈夫」
リオネルは、静かに微笑んだ。
「……僕なら、守れる」
その笑みには、これまで以上に強い確信が宿っていた。
九 王都の小さな会談
二日後。王宮外交会館。
ヴァレンティス王国側から、正式な説明の申し入れがあった。
出席者は、ヴェルシュタイン公爵。公爵家法務官。エルディア王国外務省の担当官。そして、リオネル・ヴァレンティス。
会議室は、静かだった。
長い机。白い壁。中央に置かれた、両国の国旗。
リオネルは、公爵を見つめた。
銀白色の髪。灰銀色の瞳。黒と銀の礼装。その姿は、以前と何も変わっていなかった。
「……お久しぶりです」
リオネルは、穏やかに微笑んだ。
公爵は、軽く一礼した。
「……殿下」
それだけだった。
リオネルは、胸の奥に小さな痛みを感じた。しかし、すぐに微笑んだ。
「……今回の件について、説明させてください」
公爵は、静かに頷いた。
「お願いします」
リオネルは、ゆっくりと口を開いた。
「……確かに、僕は情報収集を指示しました」
会議室に、緊張が走った。
「ただし、公爵閣下を害する意図はありませんでした」
公爵は、黙っていた。リオネルは、続けた。
「王太子殿下が、危険な行動を取っている可能性があったためです」
「……具体的には?」
公爵が尋ねた。リオネルは、少しだけためらった。
「……王家の禁忌に関わる問題です」
「王冠の契約ですか」
その瞬間、リオネルの表情が変わった。
「……ご存じなのですか」
「名称は、聞いています」
公爵は、静かに答えた。
「しかし、詳細は確認できていません」
リオネルは、息を吐いた。
「……それなら、なおさら」
彼は、身を乗り出した。
「……危険です」
公爵は、黙っていた。
「王太子殿下は、あなたを王冠の契約に利用しようとしている可能性があります」
「……根拠は?」
リオネルは、報告書を差し出した。
王宮地下霊廟への出入り記録。王家の禁書庫に関する調査。そして、ヴェルシュタイン公爵の魂について記された古い文献の断片。公爵は、資料を受け取った。
静かに読み進める。
「……なるほど」
小さく呟く。
「……情報提供には感謝します」
リオネルは、顔を上げた。その言葉に、胸が高鳴った。
「……いえ」
微笑む。
「……当然のことです」
しかし公爵は、次の瞬間。静かに続けた。
「それと、私への無断の監視については、別の問題です」
リオネルの笑みが、止まった。
「……え?」
公爵は、書類を机に置いた。
「王太子殿下に危険な動きがあるのであれば、その情報を正式に提供すればよかったはずです」
「……それは」
「なぜ、私の行動を監視する必要があったのですか」
リオネルは、言葉を探した。
「……あなたが、危険な場所へ行かないように」
「私がどこへ行くかは、私が決めます」
公爵の声は、静かだった。リオネルは、息を呑んだ。
「……でも」
「殿下」
公爵は、まっすぐに彼を見た。
灰銀色の瞳。そこには怒りではなく、明確な拒絶があった。
「……私の行動を、私に知らせずに把握しようとすることを、やめてください」
リオネルは、唇を噛んだ。
「……僕は……あなたを、守りたいだけなんです」
公爵は、静かに答えた。
「求めていません」
沈黙。リオネルは、息を止めた。その言葉は、あまりにも短かった。
しかし彼の胸に、深く突き刺さった。
「……それでも」
リオネルは、震える声で言った。
「……あなたが危険にさらされていることは、事実です」
「その危険について、情報を提供していただくことは構いません」
公爵は、淡々と答えた。
「ですが、それを理由に、私の意思を無視することは認められません」
リオネルは、何も言えなかった。公爵は、続けた。
「……殿下」
「……はい」
「あなたは、私の自由を理解していると、お考えなのでしょう」
リオネルは、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
公爵は、静かに言った。
「……理解しているなら、離れてください」
時計の針が、静かに進む。リオネルは、動けなかった。
離れる。
その言葉が、理解できなかった。理解したくなかった。自分は、誰よりもあの人を理解している。誰よりも、あの人の自由を大切にしている。誰よりも、あの人の静かな生活を望んでいる。
それなのに離れてほしい。
「……どうして」
小さく呟く。公爵は、静かに答えた。
「それが、私の意思だからです」
リオネルは、目を伏せた。そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……分かりました」
その声は、穏やかだった。
「……もう、直接は近づきません」
公爵は、軽く頷いた。
「ありがとうございます」
しかしリオネルは、心の中で続けていた。
直接は、近づかない。それなら、いいのでしょう。あなたに気づかれないところで。あなたの生活を乱さないように。危険だけを、取り除けばいい。
彼は、そう考えた。
それは自分が、また一つ。公爵の意思を歪めて解釈したことだということは、まだ気づくことができなかった。
十 女王の選択
会談の終了後。
セラフィーナは、弟を呼び出した。
「……リオネル」
「はい、姉上」
「公爵閣下と、話したのね」
「……はい」
「何と言われたの?」
リオネルは、しばらく黙っていた。そして、静かに答えた。
「……離れてほしい、と」
セラフィーナは、目を閉じた。
「……そう」
彼女は、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「……あなたは、どうするつもり?」
リオネルは、微笑んだ。
「……もちろん、従います」
セラフィーナは、弟を見つめた。
「……本当に?」
「はい」
「……すべての監視を、やめるのね」
その瞬間リオネルの笑みが、わずかに止まった。
「……姉上」
「何?」
「……監視は、もう必要ありません」
セラフィーナは、静かに頷いた。
「……そう」
しかし彼女は、弟の表情を見逃さなかった。
その微笑み。穏やかな声。丁寧な言葉遣い。それらは、いつもどおりだった。けれど目だけが、違っていた。
何かを決意した者の目。そして自分の行動を、疑っていない者の目。
「……リオネル」
セラフィーナは、静かに言った。
「これ以上、公爵閣下の私生活に関与することは、許さないわ」
リオネルは、顔を上げた。
「……姉上?」
「ヴァレンティス王国の情報機関を、私的な目的で使用することも禁じます」
リオネルは、ゆっくりと頷いた。
「……分かりました」
その声には、何の感情も浮かんでいなかった。セラフィーナは、少しだけ安堵した。
しかし彼女は、まだ知らなかった。
リオネルが、すでに情報機関とは別の経路を考え始めていることを。
十一 静かな侵入
その夜。
リオネルは、自室で一通の書簡を書いていた。
宛先は、ヴァレンティス王国の情報機関ではない。王都に拠点を置く、民間の警備会社だった。
『今後、特定の貴族に対する脅威情報を収集するため、外部警備体制の構築について協議したい』
彼は、静かに筆を走らせた。
『ただし、対象者本人への直接接触は不要とする』
書き終える。そして、しばらく紙を見つめた。
「……これなら……迷惑は、かけない」
彼は小さく呟き、微笑んだ。その微笑みは純粋な喜びではなく、傲慢を含んだ笑みだった。
公爵は、離れてほしいと言った。だから、離れる。
直接会わない。書簡も送らない。贈り物もしない。しかし危険は、放置できない。
王太子。魔術師。聖騎士。女王。
彼らが何をしようとしているのか。それだけは、把握しておかなければならない。
「……君の自由を守るためだよ」
リオネルは、静かに呟いた。
窓の外では、夜の街が静かに眠っていた。彼は、書簡を封筒に入れた。そして机の引き出しから、もう一冊の手帳を取り出した。そこには、公爵の名前が記されていた。
その下には、一文。
『直接の接触を避ける』
リオネルは、ゆっくりと書き加えた。
『周辺環境の安全管理へ移行』
その文字を見つめながら、彼は微笑んだ。自分は、約束を守っている。そう信じていた。
十二 公爵の違和感
ヴェルシュタイン公爵邸。深夜。
公爵は、書斎で一冊の記録帳を読んでいた。
王都警備局から届いた、追加の調査報告。そこには、密偵が収集した情報の一部が、王宮の配車管理記録と一致していたことが記されている。
公爵は、眉を寄せた。
「……王宮の配車管理」
小さく呟く。その記録を、別の資料と照合する。
十月二十一日。王宮西棟。慈善基金の審査会。
そして当初の予定では、王宮東棟への訪問が記されていた。
「……妙だな」
公爵は、静かに呟いた。
通常、王宮内の会議室変更は、事務局から参加者へ正式に通知される。しかしこの変更について、公爵家には一度も連絡がなかった。最初から、西棟で開催されると知らされていたからだ。
ではなぜ、密偵の手帳には、東棟という記録が残っているのか。
公爵は、しばらく考えた。そして、アルフレッドを呼んだ。
「……閣下」
「王宮西棟の審査会について、最初の通知を確認してくれ」
「承知いたしました」
「それから、王宮東棟で開催予定だった会議が、同日に存在しなかったかも調べたい」
アルフレッドは、少し驚いた。
「……何か、お気づきになられたのでしょうか」
公爵は、静かに答えた。
「……まだ、分からない」
そして、記録帳を閉じた。
「ただ、こちらが知らない予定を、誰かが作成していた可能性がある」
アルフレッドの表情が変わった。
「……偽の予定、でございますか」
「その可能性がある」
公爵は、窓の外を見つめた。夜の庭園。静かな風。月の光。
「……誰かが、私を王宮東棟へ向かわせようとしていたのかもしれない」
その声は、冷静だった。しかしそこには、明らかな警戒があった。
十三 王冠の囁き
王宮地下霊廟。同じ夜。
レオンハルトは、黒い王冠の前に立っていた。
掌には、黒い鎖の模様。その線は、すでに手首を越え、腕へ伸び始めている。
「……まだ、足りない」
小さく呟く。
王冠の契約。七つの封印。神々の祝福を受けない魂。
すべてが、揃い始めていた。しかし最後の条件だけが、満たされない。
本人の同意。
レオンハルトは、低く笑った。
「……同意」
その言葉が、忌々しかった。
何度も拒絶されてきた。婚姻の申し入れ。護衛の派遣。召喚状。すべて。
だが王冠の契約には、どうしても本人の同意が必要だった。
「……ならば」
レオンハルトは、ゆっくりと王冠へ手を伸ばした。
「……同意せざるを得ない状況を作ればいい」
その瞬間、頭の奥で声が響いた。
『……そうだ』
低い声。
『……選択肢を、奪え』
レオンハルトは、静かに笑った。
「……選択肢」
小さく呟く。
「……なるほど」
彼は、王冠を見つめた。
公爵には、領地がある。領民がいる。守るべきものがある。ならばその責任を、利用すればいい。
「……あいつは」
レオンハルトは、低く呟いた。
「……自分のためには、決して動かない」
けれど領民のためなら。公爵家のためならば。
きっと。
「……従うしか、なくなる」
その声には、危険な確信が宿っていた。黒い王冠が、深紅に輝いた。
王宮地下のさらに深い場所で七つの封印のうち、三本目の鎖が、静かに軋んだ。
十四 誰の自由か
翌朝。ヴェルシュタイン公爵邸。
公爵は、庭園を歩いていた。
冷たい朝の空気。落葉。静かな風。秋の終わりを告げる景色だった。
アルフレッドが、少し離れて付き従っている。
「……閣下」
「何だ」
「王弟殿下について、いかが思われますか」
公爵は、少し考えた。
「……危険な人物だと思う」
アルフレッドは、わずかに驚いた。
「……危険、でございますか」
「はい」
公爵は、静かに答えた。
「本人に悪意がないからこそ、厄介だ」
アルフレッドは、黙っていた。
公爵は、続けた。
「王太子殿下は、私を従わせたいと考えている」
「……はい」
「女王陛下は、私を自国へ招こうとしている」
「……はい」
「聖騎士団長は、私を救おうとしている」
「……はい」
「宮廷魔術師は、私の魂を調べようとした」
公爵は、足を止めた。
そして。
「……王弟殿下は」
静かに言った。
「……私の自由を守ろうとしている」
アルフレッドは、顔を上げた。公爵は、遠くの木々を見つめた。
「……皆、自分の目的を持っている」
「……はい」
「しかし、王弟殿下だけは、自分の目的が私の意思と一致していると信じている……それが、危険だ」
公爵は、静かに続けた。
「相手の意思を尊重しているつもりで、相手の意思を無視できてしまうからだ」
アルフレッドは、深く頷いた。
「……おっしゃるとおりでございます」
公爵は、再び歩き始めた。
庭園の奥には、小さな湖がある。水面は、静かだった。風が吹くたびに、細かな波紋が広がる。
「……アルフレッド」
「はい、閣下」
「私は、自分の自由を誰かに管理してもらうつもりはない」
「……承知しております」
「必要な助言は受ける。危険があれば対処する」
公爵は、静かに言った。
「だが、何を選ぶかは、私が決める」
アルフレッドは、深く頭を下げた。
「……はい、閣下」
公爵は、湖を見つめた。そして、小さく息を吐いた。
「……本当に……当たり前のことなんだがな」
その声には、わずかな疲労があった。しかしその意思に、迷いはなかった。
誰かが自分を愛していると言っても。誰かが自分を守りたいと言っても。誰かが自分の幸福を理解していると言っても。それだけで、自分の人生を預ける理由にはならない。
公爵は、静かに歩き続けた。
朝の光が、銀白色の髪を照らしていた。その頃ヴァレンティス王国使節館では、リオネルが新たな警備計画を作成していた。
王宮では、レオンハルトがヴェルシュタイン公爵領に関する古い軍事協定を調べ始めていた。
白き大聖堂では、ルシアンが第七封印に関する記録を探していた。
宮廷魔術研究棟では、カイが失われた記憶の代わりに、ある名前を思い出しかけていた。
そして神骸の聖域。
忘却の神ノクティスは、静かに目を開いた。
『……また』
低い声が響いた。
『……人は、愛を理由に』
『……他者を、縛る』
青い光が、揺れる。
『……だが』
神は、静かに呟いた。
『……お前だけは』
『……誰のものにも、ならぬ』
その声は、誰にも届かなかった。
ただ遠く離れた王都の朝。ヴェルシュタイン公爵は、静かな湖を見つめていた。
自分の人生を、自分で選ぶために。
第十一章 了




