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誰のものにもならない王冠  作者: 泉
第二部 愛という名の侵略

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第八章 神蝕の王子

王家の血には、祝福が宿る。

人々はそう信じていた。

王が神に選ばれた者であり、その血を継ぐ者が国を統べるのだと。

けれど、もしも王家の血に宿るものが、祝福ではなく呪いだったなら。

もしも王冠が、神から授けられたものではなく、神から奪い取ったものだったなら。

その王冠を戴く者は、何を支配しているのだろう。

国か。民か。

それとも、自分自身を蝕む欲望なのか。


一 王家の地下霊廟


王宮の最深部には、王族でさえ立ち入ることを許されない場所がある。歴代国王の遺骸が眠る、地下霊廟。そのさらに奥。王国の建国以前から存在すると伝えられる石造りの回廊には、扉が一つだけ設けられていた。

扉には鍵穴がない。取っ手もない。ただ、中央に王家の紋章が刻まれている。

三本の剣。燃え盛る太陽。

そして、その下に描かれた、七つの輪。

レオンハルトは、扉の前に立っていた。

「……ここか」

手には、古い羊皮紙が握られている。

昨夜、王家の禁書庫で見つけた記録だった。

『王冠の契約について知ることを望む者は、己の血をもって門を開け』

彼は、小さく笑った。

「……ずいぶんと大げさなものだな」

腰から短剣を抜く。そして、ためらいなく掌を切った。鮮血が、石の床に落ちる。

一滴。二滴。三滴。

その瞬間。

扉の紋章が、深紅に輝いた。石が軋む。重い音とともに、扉がゆっくりと開いていく。冷たい空気が、回廊へ流れ込んだ。レオンハルトは、足を踏み入れた。

室内は、円形だった。壁には、無数の古代文字。床には、巨大な魔法陣。そして、中央には一つの王冠が置かれていた。

黒い金属で作られた王冠。宝石は一つもない。ただ、七本の細い棘が、天へ向かって伸びている。

レオンハルトは、ゆっくりと近づいた。

「……これが」

王冠の契約。三百年前の禁忌。その中心にあったもの。

彼は、王冠へ手を伸ばした。

その瞬間。

『……触れるな』

低い声が響いた。レオンハルトは、手を止めた。

「……誰だ」

暗闇の奥から、一人の老人が現れた。

白い法衣。痩せた身体。深く刻まれた皺。その胸には、王家の紋章が刺繍されている。

「……王太子殿下」

老人は、静かに頭を下げた。

「ここは、まだ殿下が訪れるべき場所ではございません」

レオンハルトは、眉を寄せた。

「……お前は?」

「王冠の番人でございます」

「名前は」

「すでに、捨てました」

老人は、静かに答えた。

「ここでは、名前に意味がございませんので」

レオンハルトは、低く笑った。

「……面白い」

そして、王冠を見つめた。

「王冠の契約について、知りたい」

老人の表情が変わった。

「……なぜでございますか」

「必要だからだ」

「……何のために」

レオンハルトは、しばらく黙っていた。そして、ゆっくりと微笑んだ。

「……手に入れたいものがある」

老人は、目を閉じた。

「……そうでございますか」

その声には、深い疲労が滲んでいた。

「……また、同じ理由で」

レオンハルトは、眉を寄せた。

「……何?」

老人は、静かに首を振った。

「……いいえ」

そして、王冠を見つめた。

「……殿下。王冠の契約とは、神の祝福を得るための儀式ではございません」

レオンハルトは、目を細めた。

「……では、何だ」

老人は、ゆっくりと答えた。

「……神から、奪うための儀式でございます」

レオンハルトは、息を呑んだ。

「……奪う?」

「はい」

老人は、静かに続けた。

「三百年前、エルディア王家の祖先は、神々の力を欲しました」

「……」

「国を統べるため。敵を滅ぼすため。そして、永遠に王座を守るため」

老人は、王冠を見つめた。

「……彼らは、神と契約を結ぼうとしたのです」

「……それで?」

「神は、拒みました」

レオンハルトの表情が変わった。

「……拒んだ?」

「はい」

老人は、静かに答えた。

「忘却と静寂の神ノクティスは、人間の欲望に力を貸すことを拒んだのです」

「……そこで、王家は」

老人の声が、わずかに震えた。

「……神を、殺しました」


二 神殺しの代償


「……神を、殺した?」

レオンハルトは、低く繰り返した。老人は、静かに頷いた。

「はい」

「……どうやって」

「七つの封印を用いて、神の存在をこの世界へ縛りつけました」

老人は、床の魔法陣を指さした。

「神は、本来、人間の法則に縛られる存在ではありません」

「……」

「しかし、王家は、神の名を奪い、記憶を奪い、存在そのものを分断したのです」

レオンハルトは、王冠を見つめた。

「……それで、力を得たのか」

老人は、静かに答えた。

「……一部は」

「……一部?」

「神の力は、完全には奪えませんでした」

老人は、ゆっくりと続けた。

「そして、神を殺した代償として、王家の血に呪いが宿ったのです」

「……神蝕」

レオンハルトが呟く。老人は、頷いた。

「はい」

「……具体的には?」

「欲望が増幅されます」

老人は、静かに答えた。

「愛情は執着へ。誇りは傲慢へ。恐怖は憎悪へ」

「……」

「そして、時として、記憶さえも歪めます」

レオンハルトは、黙っていた。老人は、続けた。

「王家の血を継ぐ者は、強い欲望を抱いたとき、その感情を制御することが難しくなります」

「……それが、呪いか」

「はい」

レオンハルトは、ゆっくりと笑った。

「……くだらない」

老人は、顔を上げた。

「……殿下?」

「欲しいものを欲しいと思うことが、呪いだと?」

レオンハルトは、王冠を見つめた。

「……それは、王として当然のことだろう」

老人は、静かに首を振った。

「……殿下」

「何だ」

「欲望そのものが、呪いなのではございません」

老人は、ゆっくりと続けた。

「……欲望に、支配されることが呪いなのです」

レオンハルトは、眉を寄せた。

「……私は、支配されてなどいない」

老人は、何も答えなかった。ただ、静かに王冠を見つめていた。

その沈黙が、レオンハルトには不快だった。

「……それで」

彼は、話題を変えた。

「王冠の契約は、今でも使えるのか」

老人の表情が変わった。

「……殿下」

「答えろ」

老人は、しばらく黙っていた。そして、静かに答えた。

「……条件が揃えば」

レオンハルトの瞳が、深紅に輝いた。

「……条件?」

老人は、ゆっくりと口を開いた。

「王家の血」

「……」

「七つの封印」

「……」

「そして」

老人は、言葉を止めた。レオンハルトは、身を乗り出した。

「……そして?」

老人は、静かに答えた。

「……神々の祝福を受けない魂」

レオンハルトは、息を呑んだ。

銀白色の髪。灰銀色の瞳。誰にも従わない公爵。

その姿が、脳裏に浮かぶ。

「……なるほど」

小さく呟く。

「……そういうことか」

老人は、眉を寄せた。

「……殿下?」

レオンハルトは、ゆっくりと笑った。

「……条件は、揃っている」

その声には、危険な確信が宿っていた。


三 王宮からの召喚状


翌朝。ヴェルシュタイン公爵邸。

「……王宮から、召喚状?」

公爵は、アルフレッドが差し出した書類を見つめた。

「はい、閣下」

「差出人は?」

「王太子殿下でございます」

公爵は、書類を開いた。

『王家の安全保障に関する重要事項について協議を行うため、ヴェルシュタイン公爵の出席を命ずる』

日時。場所。そして、王家の紋章。

公爵は、最後まで読んだ。

「……議題が不明確だな」

アルフレッドは、頷いた。

「はい」

「安全保障に関する重要事項とは、具体的に何を指している?」

「記載されておりません」

「出席者は?」

「……不明でございます」

「議事録の作成についても、記載がない」

公爵は、書類を机に置いた。

「……アルフレッド」

「はい」

「法務官を呼んでくれ」

「承知いたしました」

公爵は、椅子に腰を下ろした。

王太子からの召喚。それ自体は、珍しいことではない。しかし今回の書類には、不自然な点が多かった。通常、王家の安全保障に関する協議であれば、国王の承認が必要となる。また、五大公爵家の当主を召喚する場合、議題と出席者を明示するのが慣例だった。

ところが今回の召喚状には、そのどちらもない。

「……また、何かを考えているのか」

公爵は、小さく呟いた。その声には、苛立ちが滲んでいた。

王太子が自分をどう思っているのか。そんなことは、どうでもよかった。

しかし公務の名目で私的な接触を図ることは、認められない。

「……面倒だな」

公爵は、静かに息を吐いた。そして、召喚状の写しを取るよう命じた。


四 聖騎士の発見


白き大聖堂。地下最深部。

ルシアンは、古い石造りの回廊を歩いていた。手には、一本の燭台。周囲には、冷たい空気が漂っている。

彼は、数日前から、封印された洗礼記録の行方を追っていた。

大司教グレゴリウスの命令。永久封印。そして、記録の移送。

通常の書庫では、見つからなかった。しかし古い記録管理台帳に、一つの記述が残っていた。

『第七保管庫』

その名前は、現在の大聖堂の見取り図には存在しない。

ルシアンは、古い図面を頼りに、地下の奥へ進んでいた。やがて石壁の前で、足を止めた。

「……ここか」

壁には、円形の紋章が刻まれている。その中心には、古代文字。

ルシアンは、胸元の聖印を握りしめた。

「……女神リュミエラよ」

静かに祈る。そして、壁へ手を伸ばした。その瞬間。聖印が、淡く輝いた。石壁が、ゆっくりと動き始める。重い音とともに、隠された扉が開いた。

ルシアンは、息を呑んだ。その先には、小さな部屋があった。

壁一面に、古い書物。中央には、石の台座。その上に、一冊の記録帳が置かれていた。

『ヴェルシュタイン公爵家 洗礼記録』

ルシアンは、ゆっくりと近づいた。

「……あった」

小さく呟く。記録帳を開く。

二十四年前。洗礼式。神の祝福。魂の波長。

そして消されたはずの記述。

ルシアンは、息を止めた。

そこには、こう記されていた。

『第七封印、反応確認』

『対象の魂、神性干渉を拒絶』

『王冠の契約との関連性、極めて高し』

最後の一文。

『当該魂を、王家の儀式に近づけてはならない』

ルシアンは、目を見開いた。

「……王家の儀式?」

そのとき背後から、声がした。

「……見つけてしまったか」

ルシアンは、振り返った。そこには大司教グレゴリウスが立っていた。


五 教会の秘密


「……猊下」

ルシアンは、深く頭を下げた。グレゴリウスは、静かに部屋へ入った。

「……なぜ、ここへ来た」

「真実を知るためです」

「……そうか」

大司教は、記録帳を見つめた。

「……それを、読んだのか」

「はい」

グレゴリウスは、ゆっくりと息を吐いた。

「……ならば、もう隠せぬな」

ルシアンは、顔を上げた。

「……猊下」

「何だ」

「王冠の契約とは、何なのでしょうか」

グレゴリウスは、しばらく黙っていた。そして、静かに答えた。

「……三百年前の罪だ」

「……罪?」

「王家が、神を殺した」

ルシアンは、息を呑んだ。

「……ノクティスを?」

グレゴリウスは、頷いた。

「そうだ」

「……なぜ」

「力を欲したからだ」

大司教は、静かに続けた。

「王家は、神の力を奪い、永遠の支配を得ようとした」

「……」

「だが、神は完全には死ななかった」

ルシアンの表情が変わった。

「……何?」

「神の存在は、七つに分断され、封印された」

グレゴリウスは、記録帳を指さした。

「そして、その封印の一つが、ヴェルシュタイン公爵家の血統と関わっている」

ルシアンは、息を呑んだ。

「……公爵閣下が?」

「正確には、あの者の魂が、だ」

「……では」

ルシアンは、震える声で尋ねた。

「……あの方は、神の封印なのですか」

グレゴリウスは、静かに首を振った。

「……分からぬ」

「……」

「ただ、あの魂は、神々の法則から外れている」

大司教は、ゆっくりと続けた。

「神の祝福を受けないのではない」

「……」

「神の力が、届かないのだ」

ルシアンは、目を見開いた。

「……そんなことが」

「あるのだ」

グレゴリウスは、静かに答えた。

「そして、王家は、その魂を必要としている」

ルシアンは、息を呑んだ。

「……王太子殿下が?」

グレゴリウスは、頷いた。

「……おそらく」

ルシアンは、記録帳を見つめた。

王冠の契約。神殺し。空白の魂。

すべてが、つながり始めていた。

「……ならば」

ルシアンは、静かに言った。

「……私が、守ります」

グレゴリウスは、顔を上げた。

「……何?」

「公爵閣下を、王家の儀式から守ります」

その声には、強い決意が宿っていた。グレゴリウスは、しばらくルシアンを見つめていた。

そして、静かに尋ねた。

「……本人は、それを望んでいるのか」

ルシアンは、言葉に詰まった。

「……それは」

「……ルシアン」

大司教は、静かに続けた。

「救うことと、支配することは、違う」

ルシアンは、息を呑んだ。その言葉は、以前、公爵自身から告げられたものと重なっていた。

しかし彼は、ゆっくりと首を振った。

「……それでも」

胸元の聖印を握りしめる。

「……危険が迫っているのです」

グレゴリウスは、目を閉じた。

「……そうだな」

小さく呟く。

「……だからこそ、恐ろしい」

その声には、深い疲労が滲んでいた。


六 王子の欲望


王宮東棟。

レオンハルトは、王冠の番人から受け取った記録を読んでいた。

『王冠の契約』

『王家の血』

『七つの封印』

『神々の祝福を受けない魂』

その文字を、何度も読み返す。

「……やはり」

小さく呟く。

「……あいつだ」

ヴェルシュタイン公爵。神の祝福を受けない魂。王冠の契約に必要な存在。それは、偶然ではない。そう思った。

「……運命、か」

レオンハルトは、ゆっくりと笑った。

これまで、何度も拒絶されてきた。婚姻の申し入れ。茶会への招待。私的な訪問。護衛の派遣。

すべて。

しかし王冠の契約に必要な存在であるならば。それは、王家にとって重要な意味を持つ。

つまり公爵は、王家のために存在している。そう考えることができた。

「……そうか」

レオンハルトは、静かに呟いた。

「……だから、私は」

彼は、窓の外を見つめた。

王都アステリア。遠くに見える貴族街。

「……あいつを、欲しいと思ったのか」

その考えは、甘美だった。自分の欲望が、単なる執着ではない。

王家の宿命。神々の意思。運命。

そうした大きな言葉で説明できる。

レオンハルトは、ゆっくりと笑った。

「……ならば」

小さく呟く。

「……拒絶される理由など、ない」

その瞬間。鏡に映った自分の瞳が、深紅に輝いた。

『……そうだ』

低い声が、頭の奥で響く。

『……王冠を、使え』

レオンハルトは、目を閉じた。

「……分かっている」

小さく答える。

「……必ず、手に入れる」


彼は、まだ理解していなかった。

神蝕は欲望を増幅する。しかし、他人を所有しようとする選択そのものを、呪いが代わりに行っているわけではない。


七 法務官の報告


ヴェルシュタイン公爵邸。午後。

「……召喚状の法的根拠が、確認できません」

公爵家の法務官は、静かに報告した。公爵は、机の上の書類を見つめた。

「……国王陛下の承認は?」

「ございません」

「枢密院の決議は?」

「確認されておりません」

「王太子殿下の単独命令か」

「そのようでございます」

公爵は、数秒考えた。

「……では、出席義務はないな」

法務官は、頷いた。

「はい。少なくとも、現時点では」

公爵は、筆を取った。

「正式に照会する」

「承知いたしました」

「議題、出席者、法的根拠、議事録の作成方法」

公爵は、淡々と続けた。

「すべて明示するよう求めてくれ」

「かしこまりました」

「回答がない場合は、出席しない」

「……承知いたしました」

法務官は、深く頭を下げた。そして、退室した。

公爵は、椅子に深く腰を下ろした。

「……本当に」

小さく呟く。

「……仕事を増やしてくれる」

机の上には、領地から届いた報告書が積まれている。

北方の冬支度。湖畔の道路整備。農村の税制改革。

本来、優先すべき仕事は山ほどあった。

それなのに。王太子。聖教会。宮廷魔術師。そして、社交界。

誰も彼もが、勝手に問題を持ち込んでくる。

「……静かに暮らしたいだけなんだが」

公爵は、ゆっくりと息を吐いた。

その願いは、決して大きなものではなかった。誰かを支配したいわけではない。誰かに愛されたいわけでもない。ただ自分の人生を、自分で決めたい。

それだけだった。


八 女王の外交


ヴァレンティス王国使節館。

セラフィーナ女王は、王宮から届いた情報を読んでいた。

「……王太子が、公爵を召喚?」

側近が頷いた。

「はい、陛下」

「……理由は?」

「王家の安全保障に関する協議とのことでございます」

セラフィーナは、ゆっくりと微笑んだ。

「……ずいぶんと、曖昧な理由ね」

「はい」

女王は、窓の外を見つめた。

王都アステリア。遠くに見える王宮。

「……レオンハルトは、焦っているのね」

小さく呟く。

彼女は、すでに王太子の執着を把握していた。婚姻の申し入れ。護衛の派遣。そして、今回の召喚。

すべてが、公爵を自分のそばへ置くための行動に見えた。

「……愚かな人」

セラフィーナは、静かに笑った。

「……あの方は、そんな方法では動かないのに」

側近は、恐る恐る尋ねた。

「……陛下」

「何?」

「……では、いかがなさいますか」

セラフィーナは、少し考えた。そして、ゆっくりと微笑んだ。

「……外交よ」

「……外交、でございますか」

「ええ」

女王は、机の上の地図を広げた。

エルディア王国。ヴァレンティス王国。その国境に広がる、北方の山脈。

「……ヴェルシュタイン公爵領は、我が国との交易において重要な位置にある」

「はい」

「ならば、正式な経済協定を提案すればいい」

側近は、息を呑んだ。

「……公爵閣下に、でございますか」

「ええ」

セラフィーナは、微笑んだ。

「……あの方は、私的な贈り物を受け取らない」

「……はい」

「けれど、公務ならば、話を聞くでしょう?」

その声には、確かな自信が宿っていた。

「……王太子が王権を使うなら」

セラフィーナは、静かに続けた。

「……私は、外交を使う」

その微笑みは、美しかった。しかしその内側には、危険な執着が潜んでいた。


九 王弟の警告


同じ頃。

リオネルは、密偵からの報告を読んでいた。

『王太子レオンハルト、王冠の契約に関する調査を開始』

その一文で、手が止まった。

「……王冠の契約?」

小さく呟く。

聞き覚えのある言葉だった。

ヴァレンティス王国にも、古い記録が残っている。三百年前の神殺し。エルディア王家の禁忌。そして、七つの封印。

リオネルは、ゆっくりと眉を寄せた。

「……これは、まずいな」

彼は、机の上の地図を見つめた。

ヴェルシュタイン公爵邸。王宮。大聖堂。

その位置を、指先でなぞる。

「……あの人を、王宮へ近づけてはいけない」

小さく呟く。

その考えは、彼にとって自然なものだった。

危険がある。ならば、避けるべきだ。しかし公爵本人が、どう判断するのか。

そのことを、彼は考えなかった。

「……僕が、守らなければ」

リオネルは、静かに微笑んだ。そして、密偵へ新たな命令を下した。

『ヴェルシュタイン公爵の王宮訪問予定を、すべて報告せよ』

その命令は、秘密裏に実行されることになった。


十 王冠の契約


王宮地下霊廟。深夜。

レオンハルトは、再び黒い王冠の前に立っていた。王冠の番人が、静かに頭を下げる。

「……殿下」

「準備は?」

「……整っております」

レオンハルトは、微笑んだ。

「……そうか」

老人は、ゆっくりと口を開いた。

「……殿下」

「何だ」

「最後に、一つだけお尋ねしてもよろしいでしょうか」

「……言え」

「……本当に、王冠の契約を望まれるのですか」

レオンハルトは、迷わず答えた。

「当然だ」

老人は、目を閉じた。

「……この儀式は、王家の血をさらに神蝕へ近づけます」

「……構わない」

「……欲望を制御できなくなる可能性がございます」

「……構わない」

「……そして」

老人は、声を震わせた。

「……契約に必要な魂が、拒絶した場合」

レオンハルトは、眉を寄せた。

「……何だ」

老人は、静かに答えた。

「……儀式は、成立いたしません」

レオンハルトは、王冠を見つめた。

「……拒絶?」

「はい」

「……ならば、拒絶できないようにすればいい」

老人は、息を呑んだ。

「……殿下」

「何だ」

「……それでは、三百年前と同じことに」

レオンハルトは、ゆっくりと笑った。

「……三百年前の王たちは、神を殺したのだろう」

「……はい」

「ならば、私は」

彼は、王冠へ手を伸ばした。

「……神すら拒んだ魂を、手に入れてみせる」

その瞬間。黒い王冠が、深紅に輝いた。床の魔法陣が、ゆっくりと動き始める。

七つの輪。七つの封印。そして王家の血。レオンハルトの掌から、鮮血が流れ落ちた。

王冠が、血を吸い込む。その瞬間。低い声が、部屋に響いた。

『……望むか』

レオンハルトは、目を閉じた。

「……望む」

『……何を』

彼は、ゆっくりと答えた。

「……ヴェルシュタイン公爵を」

長い沈黙があたりの空気を冷たくする。

『……代償を、払え』

王冠が、深紅に輝いた。レオンハルトは、息を呑んだ。その瞬間、胸の奥に、焼けるような痛みが走った。

「……っ!」

膝をつく。呼吸が乱れる。視界が赤く染まる。そして頭の奥で、無数の声が響いた。

『欲しい』

『手に入れろ』

『従わせろ』

『逃がすな』

レオンハルトは、歯を食いしばった。

「……黙れ」

声は、止まらなかった。

『欲しい』『欲しい』『欲しい』

その言葉が、頭の中を埋め尽くしていく。やがてレオンハルトは、ゆっくりと笑った。

「……そうだ」

小さく呟く。

「……私は、欲しい」

彼は、王冠を見つめた。その瞳は、深紅に染まっていた。

「……何を犠牲にしても」

老人は、震える声で呟いた。

「……殿下」

しかし、レオンハルトには届かなかった。彼は、ゆっくりと立ち上がった。

そして黒い王冠を、手に取った。

その瞬間王宮の地下深くで、七つの封印のうち、一つが静かに、砕けた。


十一 神の目覚め


神骸の聖域。

誰も立ち入ることを許されない、北方の禁域。

その最深部。巨大な石棺が、静かに置かれていた。石棺の周囲には、七本の黒い鎖。そのうち、二本が砕けている。

そして三本目の鎖に、ひびが入った。

『……また』

低い声が響いた。

『……王冠が、血を求める』

暗闇の中で、青白い瞳が開いた。忘却と静寂の神ノクティス。三百年前に殺されたとされる存在。その神は、ゆっくりと目を閉じた。

『……愚かな』

『……人の子よ』

『……なぜ、繰り返す』

石棺の周囲で、青い光が揺れた。

遠く離れたヴェルシュタイン公爵邸。書斎の燭台が、かすかに青く染まった。


十二 誰のものにもならない


ヴェルシュタイン公爵邸。深夜。

公爵は、書斎で本を読んでいた。

窓の外では、雨が降っている。静かな夜だった。そのとき机の上の燭台が、青く揺れた。

公爵は、ゆっくりと顔を上げた。

「……またか」

小さく呟く。

青い炎。低い声が、静かに響いた。

『……王冠が』

『……目覚めた』

公爵は、眉を寄せた。

「……王冠?」

『……お前を』

『……求めている』

公爵は、しばらく炎を見つめた。そして静かに答えた。

「……迷惑な話だな」

青い炎が、かすかに揺れた。

『……逃げろ』

公爵は、首を傾げた。

「……どこへ?」

『……遠くへ』

公爵は、ゆっくりと息を吐いた。

「……説明が足りない」

青い炎が、わずかに揺れた。

「何から逃げる必要があるのか。誰が、何をしようとしているのか」

公爵は、淡々と続けた。

「具体的な情報がなければ、判断できない」

深い沈黙、やがて青い炎が囁く

『……王家が』

声が、静かに響いた。

『……お前の魂を、求めている』

公爵は、眉を寄せた。

「……魂?」

『……王冠の契約』

『……三百年前の罪』

『……神殺し』

公爵は、しばらく考えた。そして、机の上の紙へ書き始めた。

『王冠の契約』『王家』『魂』『神殺し』

書き終えると、静かに尋ねた。

「……それで、私に何を求めている?」

青い炎が、揺れた。

『……生きろ』

公爵は、わずかに目を細めた。

「……当然だ」

『……誰にも』

『……奪われるな』

公爵は、静かに答えた。

「……そのつもりだ」

青い炎が、ゆっくりと小さくなった。最後に、一つの声が響いた。

『……お前は』

『……誰のものでもない』

公爵は、しばらく炎を見つめた。そして、静かに言った。

「……知っている」

炎が消えた。

書斎には、再び静寂が戻った。公爵は、机の上の紙を見つめた。

王冠の契約。神殺し。空白の魂。

王太子レオンハルト。

「……なるほど」

小さく呟く。

「……少し、面倒なことになりそうだな」

公爵は、筆を取った。そして、アルフレッド宛ての指示書を書き始めた。

『明朝、法務官および警備責任者を招集すること』

『王宮からの召喚状について、正式な回答があるまで出席を保留すること』

『公爵邸の警備体制を再確認すること』

『王家の古い契約法について、資料を収集すること』

書き終えると、静かに筆を置いた。窓の外では、雨が降り続いている。公爵は、椅子に深く腰を下ろした。

「……本当に」

小さく呟く。

「……静かに暮らしたいだけなんだが」

その願いは、誰にも届かなかった。

しかし公爵は、まだ知らなかった。

王太子が、すでに禁忌の王冠へ手を伸ばしたことを。

聖騎士が、封印された記録を見つけたことを。

女王が、外交という名の接近を計画していることを。

王弟が、秘密裏に自分の行動を監視していることを。

そして三百年前に殺された神が再び、この世界へ戻ろうとしていることを。

六人の欲望。一柱の神。

一人の公爵。

そのすべてが、王冠の下で交錯し始めていた。


第八章 了

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