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誰のものにもならない王冠  作者: 泉
第二部 愛という名の侵略

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第七章 王冠の鎖

王冠とは、何のために存在するのだろう。

民を守るためか。国を治めるためか。それとも、誰かを従わせるためか。

王は命じることができる。騎士は剣を振るうことができる。神官は神の名を借りて、人々に救いを説くことができる。

だが、いかなる権力にも、他人の心を所有する権利はない。

その当然の事実を、王太子レオンハルト・エルディアは理解していなかった。

彼にとって、王冠とは、欲しいものを手に入れるための力だった。

そして、その日。

彼は初めて、自分の王冠が一人の人間の前では何の意味も持たないことを知る。


一 王室護衛隊


王宮東棟。午前八時。

「……ヴェルシュタイン公爵家に、王室護衛隊を派遣する?」

王国軍務大臣は、目の前の命令書を見つめていた。差出人は、王太子レオンハルト・エルディア。その命令書には、王家の紋章が刻まれている。

『宮廷魔術師による無許可の禁術使用を受け、ヴェルシュタイン公爵の身辺警護を強化する。これに伴い、王室護衛隊十二名を公爵邸へ派遣し、必要に応じて公爵の移動および面会を管理する』

軍務大臣は、ゆっくりと顔を上げた。

「……殿下」

「何だ」

レオンハルトは、執務机の向こうで書類を読んでいた。

「公爵家への護衛派遣については、当主の同意が必要かと存じます」

「緊急措置だ」

「ですが、今回の事件では、公爵閣下に直接的な身体被害は確認されておりません」

レオンハルトは、筆を止めた。

「魂を覗かれたのだぞ」

「……はい」

「それが、被害ではないと?」

「いえ。しかし、王室護衛隊による常時警護が必要かどうかは、別の問題でございます」

レオンハルトは、ゆっくりと顔を上げた。

「……お前は、何が言いたい」

軍務大臣は、慎重に答えた。

「公爵閣下は、ご自身の護衛をお持ちです。また、公爵邸には独自の警備体制もございます」

「それが、禁術を防げたのか?」

「……」

「防げなかったから、こうなったのだろう」

レオンハルトは、命令書を指先で叩いた。

「王室護衛隊ならば、魔術対策にも対応できる」

「……それは…そうですが…」

「ならば、問題ない」

軍務大臣は、しばらく沈黙した。そして、ゆっくりと口を開いた。

「……殿下」

「何だ」

「移動および面会の管理については、どのような権限を想定されているのでしょうか」

レオンハルトは、少しだけ笑った。

「危険な人物との接触を防ぐためだ」

「……危険な人物、でございますか」

「宮廷魔術師カイ・アルヴェインのような者だ」

「……なるほど」

「それに、聖教会も不穏な動きを見せている」

軍務大臣は、命令書を見つめた。確かに、表面上は筋が通っている。しかし公爵の移動を管理する。面会相手を制限する。それは、護衛というよりも。

監視に近い。

「……殿下」

軍務大臣は、静かに言った。

「恐れながら、公爵閣下の同意なく行動を制限することは、王国法に抵触するおそれがございます」

レオンハルトの表情が冷えた。

「……王国法?」

「はい」

「私が、王太子であることを忘れたのか」

「存じております」

「ならば」

「だからこそ、申し上げております」

軍務大臣は、深く頭を下げた。

「王太子殿下の命令が、王国法に反するものであってはなりません」

レオンハルトは、しばらく軍務大臣を見つめていた。

やがて、低く笑った。

「……いいだろう」

命令書を取り上げる。

そして、最後の一文を修正した。

『必要に応じて、公爵の移動および面会に関する安全確認を行う』

「これなら問題ないだろう」

軍務大臣は、書類を確認した。文言は、確かに柔らかくなっている。しかし、実際の運用次第では、同じことができてしまう。

「……殿下」

「何だ」

「公爵閣下の同意を得ることを、前提としていただきたく存じます」

レオンハルトは、微笑んだ。

「当然だ」

その声には、何の迷いもなかった。だが。彼が求めていたのは、公爵の同意ではない。

同意せざるを得ない状況だった。


二 十二人の騎士


ヴェルシュタイン公爵邸。午前十時。

「……王室護衛隊?」

公爵は、アルフレッドが差し出した公文書を見つめた。

「はい、閣下」

「十二名?」

「はい」

「……何のために」

「先日の禁術使用事件を受け、閣下の身辺警護を強化するためとのことでございます」

公爵は、書類を読み進めた。そして、ある一文で手を止めた。

『公爵の移動および面会に関する安全確認を行う』

「……安全確認?」

「はい」

公爵は、顔を上げた。

「誰が?」

「王室護衛隊が、でございます」

「何を基準に?」

アルフレッドは、答えられなかった。

公爵は、再び書類を見た。

「……この命令書には、具体的な基準が記されていない」

「……はい」

「護衛隊の指揮権は?」

「王室にございます」

「つまり、私の護衛という名目で、王室直属の兵士が屋敷に常駐するということか」

「……そのようになります」

公爵は、しばらく沈黙した。そして、静かに言った。

「断ってくれ」

アルフレッドは、予想していたように頷いた。

「承知いたしました」

「ただし、正式な返書を出す」

「はい」

公爵は、筆を取った。

『王室護衛隊派遣のご提案につきましては、厚く御礼申し上げます。

しかしながら、ヴェルシュタイン公爵家には独自の警備体制が整備されており、現時点で王室護衛隊の常駐を必要とする事情は認められません。

また、当主の移動および面会に関する安全確認については、その権限の範囲が不明確であり、公爵家の自治権を侵害する可能性がございます。

以上の理由により、今回の派遣は辞退いたします。』

公爵は、書き終えた。

「……これでいい」

アルフレッドは、書類を受け取った。

「承知いたしました」

「それから」

「はい」

「王室護衛隊が到着した場合、屋敷への立ち入りを認めないように」

「……かしこまりました」

「正式な令状がある場合は、法務官に確認させてくれ」

「はい」

公爵は、再び書類に目を落とした。その表情には、何の変化もなかった。

王太子が何を考えているのか。なぜ、ここまで干渉してくるのか。

そんなことは、どうでもよかった。

ただ自分の屋敷に、許可していない兵士を入れる理由はない。

それだけだった。


三 王太子の訪問


午後。

ヴェルシュタイン公爵邸の正門前に、黒い馬車が停まった。王家の紋章。深紅の旗。そして、十二名の王室護衛騎士。

その中央に立っていたのは、レオンハルトだった。

「……殿下」

門番が、深く頭を下げる。

「公爵は?」

「……現在、執務中でございます」

「呼べ」

「恐れ入りますが、事前のご予約が……」

レオンハルトの眉が動いた。

「……私に、予約が必要だと?」

門番は、緊張した。

「……閣下より、すべてのご訪問について事前確認を行うよう申しつかっております」

「……そうか」

レオンハルトは、ゆっくりと笑った。

「ならば、確認しろ」

「かしこまりました」

門番は、すぐに屋敷へ連絡した。

数分後。

アルフレッドが、正門へ現れた。

「……王太子殿下」

深く一礼する。

「ご機嫌麗しゅうございます」

「公爵は?」

「現在、執務中でございます」

「会わせろ」

アルフレッドは、静かに答えた。

「恐れ入りますが、閣下は本日のご面会をお受けにならないご意向でございます」

レオンハルトの表情が変わった。

「……何?」

「また、王室護衛隊の派遣につきましても、正式に辞退の返書をお送りしております」

「……知っている」

「でしたら……」

「だから、直接来たのだ」

レオンハルトは、門の向こうを見つめた。

広い庭園。白い石造りの屋敷。その奥に、公爵がいる。

「……あいつは、私を避けているのか」

アルフレッドは、慎重に答えた。

「閣下は、私的な面会を望まれておりません」

「……私的?」

レオンハルトは、低く笑った。

「これは、公務だ」

「……殿下」

「王室護衛隊の派遣について、直接説明する必要がある」

アルフレッドは、しばらく沈黙した。そして、静かに言った。

「……承知いたしました」

一礼する。

「ただし、王室護衛隊の皆様には、門外でお待ちいただきます」

レオンハルトは、眉を寄せた。

「……何?」

「閣下の許可がないため、屋敷への立ち入りは認められません」

レオンハルトは、アルフレッドを見つめた。

やがて、ゆっくりと笑った。

「……いいだろう」

彼は、騎士たちに手を上げた。

「ここで待て」

「はっ!」

十二名の騎士が、一斉に敬礼した。

レオンハルトは、アルフレッドに案内され、屋敷へ入った。

その背中を見送りながら。門番は、静かに息を吐いた。

「……また、来たのか」

小さく呟く。

王太子殿下は、どうやら。本当に、諦めるつもりがないらしい。


四 王冠の重さ


応接室。

公爵は、窓際の椅子に腰を下ろしていた。レオンハルトが入室すると、形式どおり立ち上がる。

「……殿下」

「ヴェルシュタイン公爵」

王太子は、ゆっくりと微笑んだ。

「久しぶりだな」

「先日の舞踏会以来ですので、五日ぶりでしょうか」

レオンハルトの笑みが、わずかに薄れた。

「……相変わらずだな」

「何がでしょう」

「いや、いい」

レオンハルトは、椅子に腰を下ろした。公爵も、向かいの席に座る。

「……護衛隊の件だが」

「はい」

「なぜ、断った」

「必要性が認められないためです」

「禁術を使われたばかりだろう」

「王宮内での事件です」

「……何?」

「禁術が使用されたのは、王宮の会議室です。公爵邸の警備体制とは無関係です」

レオンハルトは、眉を寄せた。

「……それでも、危険はある」

「危険があることと、王室護衛隊の常駐が必要であることは、別の問題です」

「私は、お前を守ろうとしている」

公爵は、静かに答えた。

「求めておりません」

レオンハルトは、ゆっくりと息を吐いた。

「……お前は」

その声には、苛立ちが滲んでいた。

「……なぜ、そこまで私を拒む」

「必要がないからです」

「……必要?」

「はい」

公爵は、淡々と続けた。

「私は、殿下に私的な関係を求めておりません。また、公爵家の警備についても、王室の介入を必要としておりません」

レオンハルトは、拳を握りしめた。

「……私が、どれほど」

言いかけて、口を閉じる。

公爵は、静かに待っていた。

「……私が、どれほどお前を気にかけていると思っている」

「存じません」

即答だった。レオンハルトの表情が凍りついた。

「……何?」

「殿下のお気持ちについて、私が推測する理由はありません」

「……」

「ただし、私の意思は明確にお伝えしております」

公爵は、ゆっくりと続けた。

「私は、殿下との私的な関係を望みません」

その言葉は、静かだった。しかし何度目か分からないほど、明確だった。

レオンハルトは、しばらく公爵を見つめていた。やがて、低く笑った。

「……お前は、本当に」

彼は、ゆっくりと立ち上がった。

「……自分が、何を拒んでいるのか分かっているのか」

公爵は、顔を上げた。

「……何を、でしょう」

「私だ」

レオンハルトは、冷たく言った。

「この国の、次期国王だ」

公爵は、静かに答えた。

「存じております」

「ならば」

「しかし、それが何か?」

レオンハルトの表情が変わった。

「……何?」

公爵は、ゆっくりと立ち上がった。

「殿下が次期国王であることと、私が殿下との私的な関係を望まないことは、別の問題です」

「……」

「王太子としての権限は、王国の統治に関するものです」

公爵は、静かに続けた。

「私の私生活を管理する権限ではありません」

レオンハルトは、息を呑んだ。

「……お前」

「殿下」

公爵は、まっすぐに王子を見た。

灰銀色の瞳。そこには、恐怖も、怒りもなかった。ただ、揺るぎない意思だけがあった。

「……私は、あなたの所有物ではありません」

時計の針が、静かに進む。

レオンハルトは、動けなかった。その言葉は、まるで刃のように胸へ突き刺さった。

『あなたの所有物ではありません』

分かっている。そんなことは、分かっている。まだ、自分のものではない。

だからこそ。

「……ならば」

レオンハルトは、低く呟いた。

「……どうすれば、お前は私のものになる」

公爵は、わずかに眉を寄せた。

「……なりません」

「……何?」

「どのような条件であっても、私は殿下の所有物にはなりません」

レオンハルトは、息を止めた。公爵は、静かに続けた。

「人間は、物ではありません」

その言葉は、あまりにも当然のことだった。しかし王太子にとっては、理解しがたいものだった。

彼は、生まれてからずっと。欲しいものを、手に入れてきた。

人も。地位も。権力も。すべて。

自分が望めば、周囲が動いた。自分が命じれば、誰かが従った。

それが、彼の世界だった。

だからこそ目の前の人間が、自分の望みに従わないという事実がどうしても、受け入れられなかった。

「……後悔するぞ」

低い声だった。

公爵は、静かに答えた。

「そうですか」

レオンハルトは、拳を握りしめた。

「……お前は、私を怒らせたいのか」

「いいえ」

「ならば、なぜ」

「殿下が怒るかどうかは、殿下ご自身の問題です」

レオンハルトは、しばらく公爵を見つめていた。

やがて、ゆっくりと笑った。

「……分かった」

その声には、奇妙な静けさがあった。

「……今日のところは、引こう」

公爵は、軽く一礼した。

「ご理解いただき、ありがとうございます」

レオンハルトは、何も答えなかった。ただ、公爵を見つめた。

そして、ゆっくりと踵を返した。

扉が閉まる。公爵は、静かに息を吐いた。

「……アルフレッド」

「はい、閣下」

「今後、王太子殿下からの私的な訪問は、すべて断ってくれ」

「……承知いたしました」

公爵は、再び書斎へ戻った。その表情には、何の変化もなかった。

ただ今日もまた、予定していた仕事が遅れた。

それだけだった。


五 王子の怒り


王宮東棟。夜。

「……ふざけるな!」

レオンハルトの怒声が、執務室に響いた。

机の上の書類が、床へ叩きつけられる。侍従たちは、身を強張らせた。

「……あいつは、何様のつもりだ!」

王太子の拳が、机を叩く。

「……私を、何だと思っている!」

誰も答えなかった。レオンハルトは、荒い息を吐いた。

『私は、あなたの所有物ではありません』

その言葉が、頭から離れない。

所有物ではない。分かっている。まだ、そうではない。

だがいつかは。

「……必ず」

レオンハルトは、低く呟いた。

「……必ず、私のものにしてやる」

その声には、これまで以上の強い執着が宿っていた。

彼は、ゆっくりと窓の外を見つめた。

王都アステリア。その向こうに、ヴェルシュタイン公爵邸がある。

「……逃がさない」

小さく呟く。

「……どこへ行こうと」

その言葉は、誰にも届かなかった。しかしその夜、王宮では一つの命令が下された。

ヴェルシュタイン公爵家に関する情報収集の強化。

公爵の交友関係。移動経路。面会記録。

そして王家との婚姻に関する、過去の法令の再調査。

レオンハルトは、まだ諦めていなかった。

むしろ拒絶されたことで、彼の執着は、さらに深くなっていた。


六 聖騎士の疑念


白き大聖堂。地下書庫。

ルシアンは、再び洗礼記録を調べていた。

しかし。

「……記録が、ない?」

彼は、目の前の空になった棚を見つめた。

二十四年前の洗礼記録。ヴェルシュタイン公爵家の記録。

それが、消えていた。

「……どういうことだ」

ルシアンは、近くにいた神官へ尋ねた。

「この棚に保管されていた記録は?」

神官は、困ったように答えた。

「……中央評議会の命令により、移送されました」

「……移送?」

「はい」

「どこへ?」

「……存じません」

ルシアンは、眉を寄せた。

「……誰の命令だ」

「大司教グレゴリウス猊下でございます」

ルシアンは、ゆっくりと息を吐いた。

「……そうか」

そして、踵を返した。向かう先は、中央評議会議長室。

大司教グレゴリウス。彼に、直接問いただす必要があった。


七 信仰と忠誠


「……ルシアン」

大司教グレゴリウスは、目の前の聖騎士を見つめた。

「何の用だ」

ルシアンは、深く頭を下げた。

「猊下。ヴェルシュタイン公爵家の洗礼記録について、お伺いしたいことがございます」

グレゴリウスの表情が、わずかに変わった。

「……その件か」

「はい」

「記録は、永久封印に指定された」

「存じております」

「ならば、これ以上の調査は不要だ」

ルシアンは、静かに答えた。

「……しかし、猊下」

「何だ」

「記録には、改竄の痕跡がございます」

グレゴリウスは、何も答えなかった。

ルシアンは続けた。

「また、洗礼に立ち会った神官たちが、全員死亡または行方不明となっております」

「……偶然だ」

「……本当に、そうでしょうか」

グレゴリウスは、ゆっくりと立ち上がった。

「……ルシアン」

「はい」

「お前は、聖騎士団長だ」

「……はい」

「その使命は、何だ」

ルシアンは、迷わず答えた。

「女神リュミエラの教えを守り、民を救うことでございます」

「そうだ」

グレゴリウスは、静かに頷いた。

「ならば、教会の判断に従え」

ルシアンは、息を呑んだ。

「……しかし」

「信仰とは、疑うことではない」

グレゴリウスは、冷たく言った。

「神の意思を信じることだ」

ルシアンは、しばらく黙っていた。そして、静かに口を開いた。

「……猊下」

「何だ」

「もし、教会の判断が、神の教えに反していたら」

グレゴリウスの表情が、凍りついた。

「……何?」

ルシアンは、まっすぐに大司教を見た。

「女神リュミエラは、自由な契約を司る神です」

「……」

「ならば、本人の意思を無視して記録を封印することは、女神の教えに反するのではありませんか」

グレゴリウスは、しばらくルシアンを見つめていた。

やがて、低く言った。

「……お前は、何を知っている」

ルシアンは、静かに答えた。

「……まだ、何も」

「……」

「だからこそ、知りたいのです」

グレゴリウスは、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。

「……ルシアン」

その声には、疲労が滲んでいた。

「……真実を知ることが、必ずしも救いになるとは限らぬ」

ルシアンは、答えた。

「……それでも、私は」

胸元の聖印を握りしめる。

「……あの方を、救いたいのです」

グレゴリウスは、目を閉じた。

「……愚かな」

小さく呟く。

「……お前も、同じか」

ルシアンは、眉を寄せた。

「……同じ?」

しかし、大司教は答えなかった。ただ、静かに言った。

「……下がれ」

ルシアンは、深く頭を下げた。そして、部屋を後にした。

扉が閉まる。

グレゴリウスは、一人になった。机の引き出しから、古い銀の鍵を取り出す。

黒く変色した鍵。

その持ち手には、円形の紋章が刻まれている。

「……また、繰り返すのか」

小さく呟く。

「……三百年前と、同じことを」

その声には、深い恐怖が宿っていた。


八 王弟の調査


ヴァレンティス王国使節館。夜。

リオネルは、薄暗い部屋で一人の男と向かい合っていた。

黒い外套。顔の半分を隠す仮面。その男は、ヴァレンティス王国の情報機関に所属する密偵だった。

「……調査は?」

リオネルが尋ねる。

「順調でございます、殿下」

密偵は、低い声で答えた。

「ヴェルシュタイン公爵閣下の移動経路、面会記録、書簡の受領状況について、可能な範囲で情報を収集しております」

リオネルは、静かに頷いた。

「……それで?」

「王太子殿下からの接触が、依然として続いております」

「……そうだろうね」

「また、聖騎士団長ルシアン卿が、公爵家の洗礼記録について調査を進めている模様です」

「……なるほど」

「宮廷魔術師カイ・アルヴェインについては、禁術使用の疑いにより研究活動を制限されております」

リオネルは、報告書を受け取った。

「……ありがとう」

密偵は、頭を下げた。

「引き続き、監視を続けますか」

リオネルは、少し考えた。そして、静かに答えた。

「……うん」

「承知いたしました」

「ただし」

リオネルは、微笑んだ。

「公爵本人には、絶対に気づかれないように」

密偵は、深く頭を下げた。

「……かしこまりました」

扉が閉まる。

リオネルは、一人になった。机の上の報告書を見つめる。

公爵の移動。面会。書簡。

そのすべてが、少しずつ明らかになっていく。

「……これで」

小さく呟く。

「……少しは、守れるかな」

彼は、静かに微笑んだ。

その表情には、優しさがあった。少なくとも、本人はそう信じていた。

しかし相手の自由を守るために、相手の知らないところで行動を監視する。その行為が、すでに自由を侵害していることに。彼は、まだ気づいていなかった。


九 王冠の鎖


深夜。王宮東棟。

レオンハルトは、古い法令集を読んでいた。

王家と五大公爵家の婚姻に関する記録。

王国建国以来、王家は有力貴族との婚姻を通じて権力を維持してきた。その中には、現在ではほとんど使われていない制度も存在する。

『王家保護婚姻』

王国の安全保障上、特定の貴族家との婚姻を王家が要請できる制度。

ただし。

『当事者双方の自由意思による同意を必要とする』

レオンハルトは、その一文を見つめた。

「……同意」

小さく呟く。

「……また、それか」

彼は、ゆっくりとページをめくった。

古い制度。王家の特権。例外規定。

何か、使えるものはないか。何か、あの公爵を自分のそばに置く方法はないか。

そう考えながら、読み進める。

やがてある一文で、手が止まった。

『神蝕を受けた王家の血統において、王冠の契約が必要とされる場合、特別な保護措置を講じることができる』

レオンハルトは、眉を寄せた。

「……神蝕?」

聞き覚えのある言葉だった。

王家に伝わる、古い呪い。三百年前の神殺しに関わる、禁忌。

その詳細は、王族の中でも限られた者しか知らない。

レオンハルトは、ゆっくりと文字をなぞった。

「……王冠の契約」

その言葉が、妙に胸に残った。

そして窓の外で、雷が鳴った。一瞬、部屋が青白く照らされる。

レオンハルトは、顔を上げた。

その瞬間。鏡に映った自分の瞳が、深紅に輝いた。

「……?」

彼は、ゆっくりと鏡へ近づいた。瞳の奥に、奇妙な光が宿っている。まるで、炎のような。血のような。

「……何だ、これは」

小さく呟く。

そのとき頭の奥で、声がした。

『……欲しいか』

レオンハルトは、息を呑んだ。

「……誰だ?」

返事はなかった。

ただ、低い声が続いた。

『……あれを』

『……手に入れたいか』

レオンハルトは、鏡を見つめた。その中の自分が、ゆっくりと微笑んでいるように見えた。

「……当然だ」

小さく答える。

『……ならば』

声が、囁いた。

『……王冠を、使え』

その瞬間。

鏡の中の瞳が、さらに深く赤く染まった。レオンハルトは、息を荒げた。

「……王冠?」

『……王は』

『……望むものを、手に入れる』

やがて、声は消えた。

鏡には、いつもの自分が映っていた。レオンハルトは、しばらく動けなかった。

そしてゆっくりと笑った。

「……そうか」

小さく呟く。

「……そういうことか」

彼は、机の上の法令集を見つめた。

王冠の契約。神蝕。特別な保護措置。

それらが、頭の中でつながり始めていた。

「……ならば」

レオンハルトは、低く笑った。

「……王冠の力を、使えばいい」

その声には、危険な確信が宿っていた。


十 静かな夜


ヴェルシュタイン公爵邸。深夜。

公爵は、いつもの書斎で本を読んでいた。

窓の外では、雨が降っている。静かな夜だった。

机の上には、王室護衛隊の派遣を辞退した書簡の写し。聖教会との記録開示に関する協議資料。そして、宮廷魔術師カイの禁術使用事件に関する報告書。

公爵は、それらを一瞥した。

「……面倒なことばかりだな」

小さく呟く。アルフレッドが、控えめに扉を叩いた。

「閣下」

「何だ」

「本日のご報告は、以上でございます」

「分かった」

「……それから」

アルフレッドは、少しだけ言葉を濁した。

「……王太子殿下より、再度の書簡が届いております」

公爵は、顔を上げなかった。

「内容は」

「……今後も、閣下の安全を最優先に考える、とのことでございます」

「そうか」

「……ご返書は?」

「不要だ」

「承知いたしました」

アルフレッドは、一礼した。そして、静かに退室した。

公爵は、再び本を開いた。窓の外では、雨が降り続いている。その音が、心地よかった。誰にも話しかけられない。誰にも期待されない。誰にも何も求められない。

ただ、自分の時間が流れている。それが、公爵の望む生活だった。

しかしその静寂は、長く続かなかった。机の上の燭台が、かすかに揺れた。炎が、青く染まる。

公爵は、ゆっくりと顔を上げた。

「……またか」

小さく呟く。

青い炎。何度も見てきた現象。しかし、今夜は違った。炎が、ゆっくりと形を変え始めた。細い糸のように伸びる。空中で、円を描く。

そしてその中心に、一つの文字が浮かび上がった。古代文字。

公爵は、眉を寄せた。

「……何だ、これは」

その瞬間。誰にも聞こえない声が、静かに響いた。

『……王冠が』

『……動き始めた』

公爵は、息を止めた。

「……誰だ」

返事はなかった。

ただ、青い炎が揺れている。

『……鎖が』

『……お前を、求める』

公爵は、ゆっくりと立ち上がった。

「……何を言っている」

青い炎が、大きく揺れた。

『……逃げろ』

その声は、静かだった。

しかしこれまでとは違う、明確な警告だった。

公爵は、しばらく炎を見つめていた。

そして。

「……説明が足りない」

淡々と言った。青い炎が、一瞬止まった。

「王冠とは何だ。鎖とは何だ。誰が、何を求めている」

沈黙。

公爵は、続けた。

「警告するのであれば、具体的な情報を提示してほしい」

青い炎が、かすかに揺れた。

『……お前は』

声が、静かに響いた。

『……本当に』

『……変わらぬな』

公爵は、眉を寄せた。

「……知り合いなのか?」

返事はなかった。

青い炎が、ゆっくりと消えていく。最後に、一つの言葉だけが残った。

『……神骸の聖域へ』

『……来るな』

炎が消えた。

書斎には、再び静寂が戻った。

公爵は、しばらく燭台を見つめていた。やがて、ゆっくりと息を吐いた。

「……来るな、か」

小さく呟く。

「……そもそも、行く予定がない」

公爵は、椅子に腰を下ろした。そして、再び本を開いた。その表情には、何の変化もなかった。

ただ机の上に置かれた紙へ、一行だけ書き加えた。

『青い炎。古代文字。神骸の聖域。要調査』

それだけだった。公爵は、再び読書に戻った。

その頃王宮では、レオンハルトが王冠の契約について調べ始めていた。

白き大聖堂では、ルシアンが教会の秘密を追い始めていた。

宮廷魔術研究棟では、カイが失われた記憶を取り戻す方法を探していた。

ローゼンベルク侯爵家では、エレノアが公爵との再会を計画していた。

ヴァレンティス王国使節館では、リオネルが公爵の行動を監視し始めていた。

そして、セラフィーナは。公爵を自国へ招くための、新たな外交計画を立てていた。

六人。それぞれ異なる欲望。それぞれ異なる方法。しかし、向かう先は同じだった。

ヴェルシュタイン公爵。

誰にも従わず。誰にも心を許さず。誰のものにもならない人間。


三百年前に殺された神は、静かに目を閉じた。

『……王冠が』

『……再び、血を求める』

その声は、誰にも届かなかった。ただ、遠く離れた神骸の聖域で。黒い鎖が、一本。静かに、砕けた。


第七章 了

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