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誰のものにもならない王冠  作者: 泉
第二部 愛という名の侵略

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第六章 空白の魂

人は、理解できないものに名前を与える。

異端。怪物。奇跡。呪い。

名前をつければ、理解したような気になれるからだ。

そして、理解したと思い込んだものを、人は支配しようとする。

だが、この世には、誰かの理解を必要としない存在もある。

宮廷魔術師カイ・アルヴェインが知ろうとしたのは、まさにそのような魂だった。

彼はまだ知らない。

他人の秘密を暴くために差し出す代償が、必ずしも自分で選べるとは限らないことを。


一 封じられた記録


「……開示を拒否する?」

ヴェルシュタイン公爵は、机の上に置かれた公文書を見下ろした。

差出人は、エルディア聖教会中央評議会。

公爵家が提出した洗礼記録の調査請求に対する、正式な回答だった。

『当該資料は聖教会の機密記録に該当するため、原本の閲覧および複写を認めない』

さらに、その下には一文が加えられていた。

『なお、当該資料は本日をもって永久封印記録に指定する』

公爵は読み終えると、静かに紙を置いた。

「……アルフレッド」

「はい、閣下」

「この回答は、誰が承認した?」

「聖教会中央評議会の議長、大司教グレゴリウスでございます」

「国王陛下の承認は?」

「記載されておりません」

「では、聖教会単独の判断か」

「そのようでございます」

公爵は数秒考えた。そして、引き出しから別の書類を取り出した。

「聖教会と王国の記録管理協定を持ってきてくれ」

「……記録管理協定、でございますか」


「二十八年前に締結されたものだ。洗礼記録の保管と閲覧に関する条項があるはずだ」

アルフレッドは、すぐに頷いた。

「承知いたしました」

公爵は椅子に深く腰を下ろした。

聖教会は、王国から一定の自治権を認められている。信仰に関する問題については、国王でさえ容易に介入できない。しかし、洗礼記録は単なる宗教文書ではなかった。

貴族の身分証明。相続権。婚姻資格。そして、王国における法的な身分の確認。

そのすべてに関わる公的資料でもある。

「……永久封印、か」

公爵は小さく呟いた。二十四年前の洗礼記録。そこに何が記されていたのか。正直なところ、興味は薄かった。

神の祝福を受けていない。それは事実だ。

今さら、その理由を知ったところで、生活が変わるとは思えない。

しかし。

「……記録の改竄を認めたまま、封印するとは」

公爵は眉を寄せた。

それは、別の問題だった。公爵家の公的記録が、何者かによって書き換えられた。その事実を放置すれば、将来、相続や領地統治に関する紛争の原因となる可能性がある。

「……面倒なことを」

公爵は、静かに息を吐いた。自分の魂が何であるかよりも。自分の名前が記された書類を、勝手に書き換えられることの方が、よほど不愉快だった。


二 聖教会の沈黙


白き大聖堂。中央評議会議長室。

「……ヴェルシュタイン公爵家から、再度の照会が?」

大司教グレゴリウスは、目の前の神官を見つめた。

「はい、猊下」

神官は深く頭を下げる。

「記録管理協定に基づき、永久封印指定の法的根拠を示すよう求められております」

グレゴリウスは、しばらく黙っていた。

白髪交じりの髪。深く刻まれた皺。

その表情には、長年にわたり聖教会を統率してきた者特有の威厳があった。

「……やはり、そう来たか」

小さく呟く。神官は顔を上げた。

「猊下?」

「ヴェルシュタイン公爵は、感情で動く人物ではない」

グレゴリウスは、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。

「恐怖を煽っても無駄だ。神罰を持ち出しても、信仰心に訴えても、あの者には通じぬ」

「……では、いかがいたしましょう」

「時間を稼げ」

グレゴリウスは答えた。

「王国法と教会法の解釈に相違があるとして、協議を申し入れよ」

「承知いたしました」

「その間に、記録の保管場所を移す」

神官の表情が変わった。

「……移す、のでございますか」

「そうだ」

グレゴリウスは、窓の外を見つめた。

大聖堂の尖塔。白い雲。遠くに見える王宮。

「……あの記録を、誰にも見せてはならぬ」

その声には、明らかな緊張が宿っていた。神官は、恐る恐る尋ねた。

「……猊下」

「何だ」

「二十四年前、いったい何があったのでしょうか」

グレゴリウスは答えなかった。

ただ、机の引き出しから古い鍵を取り出した。黒く変色した銀の鍵。その持ち手には、円形の紋章が刻まれている。

「……神は、すべてを見ている」

グレゴリウスは呟いた。そして、ゆっくりと首を振った。

「……そう、教えられてきた」

神官は、何も言わなかった。

「だが」

大司教は、鍵を握りしめた。

「……神に見えぬものが、この世に存在するとしたら……それは、神の失敗なのか」

グレゴリウスは、静かに目を閉じた。

「……それとも、神を殺した者たちの罪なのか」

その問いに答える者は、いなかった。


三 宮廷魔術師の計画


王宮地下。魔術研究棟。

「……なるほど。公爵本人の出席は、確定しているんだね」

カイ・アルヴェインは、机の上の会議予定表を眺めていた。

「はい、カイ様」

若い助手が答える。

「三日後、王宮西棟にて開催される北方魔導灯整備会議に、ヴェルシュタイン公爵閣下がご出席される予定です」

「ふうん」

カイは、ゆっくりと微笑んだ。

「いいね」

「……何が、でしょうか」

「いや、何でもない」

彼は予定表を閉じた。

北方魔導灯整備会議。ヴェルシュタイン領に設置される魔導灯の維持管理について、王国と公爵家が協議する場だった。

本来、宮廷魔術師であるカイが参加しても不自然ではない。魔導灯の魔力供給は、宮廷魔術研究院の管轄だからだ。つまり公爵に近づくための、正当な理由がある。

「……ちょうどいい」

カイは、机の引き出しを開いた。

そこには、小さな銀色の魔導具が収められていた。指輪ほどの大きさ。中央には、黒い魔晶石。表面には、細かな古代文字が刻まれている。

助手は、それを見た瞬間、顔色を変えた。

「……カイ様」

「何?」

「それは、まさか……」

「うん」

カイは、楽しそうに笑った。

「魂の観測器」

「……ですが、それは禁術に分類されているはずでは」

「正確には、使用が制限されているだけだよ」

「制限というより、王国魔術法で禁止されていると……」

「細かいことを気にするね」

カイは、魔導具を指先で転がした。

「普通の観測魔術では、公爵の魂を捉えられない」

「……はい」

「ならば、別の方法を使うしかないでしょう?」

助手は、息を呑んだ。

「……まさか、公爵閣下に?」

カイは微笑んだ。

「ちょっと、確かめたいだけだよ」

「ですが、本人の許可なく魂を観測することは……」

「分かってる」

カイは、軽く手を振った。

「だから、気づかれないようにする」

助手は言葉を失った。カイは、魔導具を見つめた。

黒い魔晶石。その奥には、淡い紫色の光が揺れている。

「……君は、何を隠しているんだろうね」

小さく呟く。


四 北方魔導灯整備会議


三日後。王宮西棟。

会議室には、王国の官僚と魔術師たちが集まっていた。

長い楕円形の机。壁には、北方領の地図が掲げられている。その中央には、ヴェルシュタイン公爵領が広がっていた。

公爵は、定刻どおりに入室した。

銀白色の髪。黒と銀の礼装。灰銀色の瞳。

周囲の者たちが、一斉に立ち上がる。

「ヴェルシュタイン公爵閣下」

公爵は軽く一礼した。

「お待たせしました」

そして、指定された席に腰を下ろした。

会議が始まる。議題は、北方魔導灯の維持費。冬季の魔力消費量。魔晶石の輸送経路。そして、王国からの補助金。

公爵は、提出された資料を確認しながら、淡々と質問を重ねていた。

「……この魔晶石の交換周期は?」

「通常、五年でございます」

「北方の低温環境下でも?」

「……それは」

担当官が言葉に詰まる。

公爵は、資料の一箇所を指さした。

「昨年度の報告では、北方地域における平均交換周期は三年八か月となっています」

「……はい」

「であれば、五年を前提とした予算では不足します」

会議室に、沈黙が落ちた。公爵は続けた。

「実際の使用環境に合わせて、予算を再計算してください」

「かしこまりました」

「それから、輸送費についても……」

そのとき、会議室の隅に座っていたカイが、ゆっくりと指を動かした。

袖口に隠された、小さな銀の魔導具。黒い魔晶石が、かすかに光る。

「……さて」

カイは、心の中で呟いた。

「……見せてもらおうかな」

魔導具から、目に見えない魔力の糸が伸びた。

細く。静かに。

誰にも気づかれないように。

それは、会議室を横切り、公爵へ向かっていった。

カイは、呼吸を整えた。

魂の観測。

通常の魔術では、対象の魔力波長を読み取る。しかし、この禁術は違う。魂そのものに触れ、その構造を解析する。

記憶。感情。神性。存在の根幹。

すべてを、覗き見ることができる。

代償は大きい。だが、カイは自信を持っていた。自分なら、制御できる。

そう信じていた。

そして魔力の糸が、公爵の魂に触れた。

その瞬間。

世界が、消えた。


五 何もない場所


音が消えた。

光が消えた。

温度が消えた。

カイは、暗闇の中に立っていた。

「……?」

周囲を見回す。何もない。

床も。壁も。天井も。

ただ、果てしない暗闇が広がっている。

「……何だ、ここは」

声を出した。しかし、その声は響かなかった。

まるで、音そのものが存在しない場所にいるようだった。

カイは、ゆっくりと歩き出した。足元の感覚はある。だが、地面は見えない。どれほど歩いても、景色は変わらない。

「……おかしいな」

カイは、眉を寄せた。

魂の観測魔術で、こんな現象が起こるはずがない。通常なら、対象の記憶や感情が、光や映像となって現れる。しかし、ここには何もない。

「……空白?」

小さく呟く。その瞬間。遠くに、淡い光が見えた。青白い光。カイは、そちらへ歩き出した。近づくにつれ、光の正体が見えてくる。

それは、一輪の花だった。

銀白色の花弁。細い茎。そして、その周囲を取り囲む、無数の黒い鎖。

「……何だ、これは」

カイは、息を呑んだ。

鎖は、花に触れていなかった。ただ、その周囲を幾重にも取り囲んでいる。まるで、何かを閉じ込めようとしているかのように。

「……封印?」

カイは、ゆっくりと手を伸ばした。

その瞬間。

背後から、声がした。

『……触れるな』

カイは振り返った。そこには、誰もいなかった。

「……誰?」

返事はない。ただ、暗闇が広がっている。

『……それは』

声が、再び響いた。

『……お前のものではない』

カイは、眉を寄せた。

「……ノクティス?」

その名を口にした瞬間。

暗闇が、揺れた。青い光が、激しく明滅する。そして無数の黒い鎖が、一斉に動き始めた。

「……っ!」

カイは、後ずさった。鎖が、空間を切り裂くように伸びる。その一本が、カイの手首に巻きついた。

冷たい。氷よりも冷たい感触。

「……何だ、これ!」

カイは、魔術を発動しようとした。しかし何も起こらなかった。

魔力が、ない。いや。魔力という概念そのものが、この場所には存在しない。

「……そんな」

鎖が、ゆっくりと締まる。カイは、息を呑んだ。そのとき暗闇の奥から、声が響いた。

『……知りたいのか』

低く。静かな声。

『……あれが、何者なのか』

カイは、息を荒げながら答えた。

「……ああ」

鎖が、わずかに緩んだ。

『……ならば』

声が、近づく。

『……代償を、払え』

カイは、目を見開いた。

「……代償?」

『……知識には』

『……対価が必要だ』

カイは、震える声で尋ねた。

「……何を、望む?」

声が、静かに答えた。

『……お前の』

『……最も、大切な記憶を』

カイは、息を呑んだ。

最も大切な記憶。それが何なのか。自分でも、分からなかった。

「……それで、分かるのか?」

『……すべてではない』

『……だが』

『……一つだけ、教えてやろう』

カイは、ゆっくりと目を閉じた。

そして。

「……いいよ」

小さく呟いた。

「……知りたいんだ」

その瞬間。鎖が、彼の胸に突き刺さった。


六 失われた名前


「……カイ殿?」

会議室。

誰かが、声をかけた。カイは、机に突っ伏していた。

「……カイ殿!」

肩を揺さぶられる。カイは、ゆっくりと顔を上げた。

「……え?」

目の前には、同僚の魔術師がいた。

「大丈夫ですか?」

「……ああ」

カイは、ぼんやりと答えた。

「……大丈夫」

しかし何かが、おかしかった。

頭の中に、奇妙な空白がある。何かを、忘れた。大切な何かを。

「……あれ?」

カイは、眉を寄せた。

「……僕、何をしてたんだっけ」

同僚は、困惑した。

「……会議中ですよ」

「……そうだね」

カイは、ゆっくりと周囲を見回した。

長い机。北方領の地図。官僚たち。そして銀白色の髪を持つ公爵。その姿を見た瞬間。胸の奥に、奇妙な感覚が走った。

「……あ」

カイは、小さく呟いた。

「……そうだ」

思い出した。

魂の観測。空白の世界。銀白色の花。黒い鎖。そして。

『代償を、払え』

カイは、息を呑んだ。

「……何を、失った?」

小さく呟く。そのとき頭の中に、一つの記憶が浮かんだ。幼い頃。小さな家。暖かな暖炉。誰かが、自分の名前を呼んでいる。

『カイ』

優しい声。

『カイ、こっちへおいで』

その声を、知っている。知っているはずだった。

しかし。

「……誰?」

カイは、息を止めた。思い出せない。

顔も。名前も。その人が、誰だったのかも。ただ、優しい声だけが残っている。

「……そんな」

カイは、震える手で額を押さえた。

最も大切な記憶。

それは、幼い頃、自分を愛してくれた誰かの記憶だった。そして、その人物が誰だったのか、もう思い出せなかった。


七 気づかれた侵入


「……カイ・アルヴェイン殿」

静かな声が響いた。カイは顔を上げた。

目の前に、公爵が立っていた。

灰銀色の瞳。冷たい表情。

その視線が、カイを捉えている。

「……何でしょう」

カイは、無理に微笑んだ。公爵は、彼の袖口を見た。

「その魔導具は?」

カイの表情が凍りついた。

「……え?」

「先ほどから、魔力反応が不自然です」

公爵は、淡々と言った。

「会議室内で、許可されていない魔術を使用しましたか」

カイは、息を呑んだ。

「……どうして」

「魔導灯の出力が、一瞬だけ低下しました」

公爵は、壁際の魔導灯を指さした。

「その直後、あなたが意識を失ったように見えました」

カイは、言葉を失った。公爵は続けた。

「使用した魔術について、説明をお願いします」

「……いや」

カイは、笑おうとした。

「……ちょっと、実験を」

「許可は?」

「……」

「ありませんね」

公爵は、静かに言った。

「会議室内での無許可の魔術使用は、王国魔術法に抵触する可能性があります」

「……」

「魔導具を提出してください」

カイは、ゆっくりと袖口を押さえた。

「……それは」

「拒否されるのであれば、王宮警備隊に確認を依頼します」

カイは、しばらく公爵を見つめた。

その瞳には、何の感情も浮かんでいない。

怒りも。恐怖も。好奇心も。

ただ、事実を確認しようとしているだけだった。

カイは、ゆっくりと笑った。

「……本当に」

小さく呟く。

「……君は、面白いね」

公爵は、わずかに眉を寄せた。

「……何がでしょう」

「いや」

カイは、魔導具を取り出した。そして、机の上に置いた。

「……どうぞ」

公爵は、それを確認した。

黒い魔晶石。銀の装飾。古代文字。

「……禁術の可能性がありますね」

カイは、笑った。

「……詳しいんだ」

「必要な知識です」

公爵は、淡々と答えた。

「私は魔術師ではありませんが、領地の魔導設備を管理する立場ですので」

カイは、何も言わなかった。公爵は、警備隊を呼んだ。魔導具は、正式に押収された。

そしてカイは、王宮魔術研究院による事情聴取を受けることになった。


八 知りたいという欲望


その夜。王宮魔術研究棟。

カイは、自室の椅子に腰を下ろしていた。

事情聴取は、すでに終わっていた。禁術の使用について、正式な調査が開始される。当面の間、研究活動は制限されることになった。しかしカイは、そのことを気にしていなかった。

頭の中には、別のことがあった。

空白の世界。銀白色の花。黒い鎖。

そして失われた記憶。

「……誰だったんだろう」

小さく呟く。

幼い頃、自分の名前を呼んでいた人。優しい声。暖かな手。その人が、誰だったのか。思い出せない。

「……母さん?」

口にしてみる。しかし、何も浮かばなかった。

母親だったのか。父親だったのか。祖母だったのか。それとも、まったく別の誰かだったのか。

分からない。

カイは、ゆっくりと笑った。

「……すごいな」

その声には、震えがあった。

「……本当に、消えたんだ」

彼は、机の上のノートを開いた。そこには、これまでの研究記録が記されている。

ヴェルシュタイン公爵。神の祝福を受けない魂。魔術によって観測できない存在。そして今日、得た新たな情報。

『空白の魂は、神々の法則の外に存在する』

カイは、ゆっくりと文字を書き加えた。

『ただし、魂の周囲には、何らかの封印構造が存在する』

筆が止まる。

銀白色の花。黒い鎖。

あれは、何だったのだろう。

「……もっと、知りたい」

小さく呟く。

記憶を失った。大切な誰かを、忘れた。

それでも。

「……もっと、知りたいんだ」

カイは、ゆっくりと笑った。

「……君のことを、全部知ったら」

窓の外を見つめる。

「……この気持ちも、消えるのかな」

その問いに、答える者はなかった。


九 王太子の怒り


王宮東棟。

「……禁術を使用した?」

レオンハルトは、報告書を見つめた。

「はい、殿下」

侍従が答える。

「宮廷魔術師カイ・アルヴェインが、北方魔導灯整備会議の最中に、無許可の魔術を使用した疑いがございます」

「……対象は?」

「現時点では不明ですが……」

侍従は、少しだけ言葉を濁した。

「……ヴェルシュタイン公爵閣下に対する魂の観測を試みた可能性が」

レオンハルトの表情が変わった。

「……何?」

低い声だった。侍従は、身を強張らせた。

「……禁術による、魂の観測でございます」

レオンハルトは、ゆっくりと立ち上がった。

「……あいつに、触れたのか」

「……魔術的な接触を試みた可能性がございます」

レオンハルトは、拳を握りしめた。

「……ふざけるな」

その声には、明らかな怒りが宿っていた。

「……誰の許可を得て」

侍従は、答えなかった。

レオンハルトは、窓の外を見つめた。

カイ・アルヴェイン。宮廷魔術師。優秀だが、規則を軽視する危険な男。

その男が、公爵の魂に触れようとした。自分が、何度も拒絶されている相手に。

「……許さない」

小さく呟く。

「……あいつに、勝手な真似を」

侍従は、恐る恐る尋ねた。

「……殿下」

「何だ」

「カイ殿への処分について、何かご指示が……」

レオンハルトは、ゆっくりと振り返った。

「……徹底的に調べろ」

「……はい」

「禁術の使用だけではない。過去の研究も、すべてだ」

「……承知いたしました」

「二度と、あいつに近づけないようにしろ」

侍従は、頭を下げた。

「かしこまりました」

レオンハルトは、再び窓の外を見つめた。その瞳には、冷たい光が宿っていた。彼は、自分が公爵を守ろうとしているのだと思っていた。しかしその怒りの根底にあったのは、自分ではない人間が、いとも簡単に公爵の根幹を垣間見たことへの嫉妬だった。


十 自由を守るという名目


ヴァレンティス王国使節館。

リオネルは、カイの禁術使用に関する報告書を読んでいた。

「……なるほど」

小さく呟く。

「……魔術師まで、動き始めたか」

彼は、報告書を閉じた。

王太子。女王。聖騎士。魔術師。侯爵令嬢。

皆、公爵に近づこうとしている。

そして、その方法は、少しずつ過激になっていた。

「……危険だな」

リオネルは、ゆっくりと息を吐いた。

公爵は、誰とも関わりたくない。それなのに、周囲は勝手に近づいてくる。その結果、禁術まで使用されるようになった。

「……誰かが、止めなければ」

小さく呟く。リオネルは、机の上の地図を広げた。

王都アステリア。貴族街。ヴェルシュタイン公爵邸。そして、王宮。

彼は、ゆっくりと指を動かした。

「……まずは、情報を集めよう」

公爵に近づく人間。公爵へ送られる書簡。公爵が出席する会議。公爵の移動経路。

それらを把握できれば、危険な接触を防ぐことができる。

リオネルは、静かに微笑んだ。

「……あの人の自由を守るためだ」

その言葉には、迷いがなかった。しかし彼の行動は相手の自由を守るために、相手の行動を監視するという矛盾。それが徐々に彼の中で正当化されていったのだ。


十一 公爵の判断


ヴェルシュタイン公爵邸。夜。

公爵は、王宮から届いた報告書を読んでいた。

カイ・アルヴェイン。

禁術使用の疑い。魂の観測。そして、正式な調査。

公爵は、書類を閉じた。

「……アルフレッド」

「はい、閣下」

「今後、宮廷魔術師による無許可の魔術使用が確認された場合、王宮警備隊へ直ちに通報するよう、使用人に周知してくれ」

「承知いたしました」

「それから、屋敷の魔術防護設備を再点検してほしい」

「かしこまりました」

「費用が必要なら、予算を組み直そう」

アルフレッドは、少しだけ驚いた。

「……閣下」

「何だ」

「……カイ殿のことは、恐ろしくありませんか」

公爵は、わずかに眉を寄せた。

「……恐ろしい?」

「はい。禁術を使用してまで、閣下の魂を調べようとしたのです」

公爵は、少し考えた。

「……不快ではある」

「……はい」

「だが、必要なのは感情的な反応ではなく、再発防止だ」

アルフレッドは、静かに頷いた。

「……おっしゃるとおりでございます」

公爵は、再び書類に目を落とした。

「私が何者であるかを知りたいなら、本人に尋ねればいい」

「……はい」

「答えるかどうかは、私が決める」

その言葉は、静かだった。しかし、明確だった。

「……勝手に調べられる理由はない」

アルフレッドは、深く一礼した。

「……承知いたしました」

公爵は、窓の外を見つめた。

夜の庭園。静かな雨。遠くで、風が木々を揺らしている。

「……本当に」

小さく呟く。

「……なぜ、放っておいてくれないんだ」

その声には、怒りよりも、深い疲労が滲んでいた。


十二 神の沈黙


深夜。ヴェルシュタイン公爵邸。

公爵は、寝室で眠っていた。

窓の外では、雨が降り続いている。静かな夜だった。そのとき机の上の燭台が、かすかに青く揺れた。炎が、ゆっくりと大きくなる。

そして暗闇の中に、一つの影が浮かび上がった。

人の形。しかし、人ではない。

銀白色の長い髪。青白い瞳。黒い衣。

その姿は、まるで夜そのものが人の形を取ったかのようだった。

影は、眠る公爵を見つめた。

長い沈黙。

そして。

『……愚かな、人の子らよ』

静かな声が響いた。

『……なぜ、あれほどまでに』

『……他者を、欲する』

影は、ゆっくりと手を伸ばした。しかしその指先が、公爵に触れようとした瞬間。何かが、影を拒んだ。青い光が、弾ける。影は、わずかに後ずさった。

『……やはり』

小さく呟く。

『……お前には、触れられぬ』

公爵は、眠ったままだった。影は、静かに笑った。

『……神すら、拒む魂』

『……三百年』

『……待ち続けた』

その声には、奇妙な感情が宿っていた。

懐かしさ。驚き。そしてかすかな、執着。

『……お前は』

『……何を、望む』

返事はなかった。公爵は、ただ眠っていた。

影は、しばらくその姿を見つめた。やがて、ゆっくりと消えていった。青い炎が、元の色に戻る。

寝室には、再び静寂が訪れた。

誰にも聞こえない声が、最後に囁く。

『……私も』

『……お前を、知りたい』

その言葉は、夜の闇に溶けていった。


十三 空白の意味


翌朝。王宮魔術研究棟。

カイは、机の上のノートを見つめていた。

そこには、昨夜書き記した研究記録が残っている。

『空白の魂』

『神々の法則の外に存在する』

『封印構造』

『銀白色の花』

『黒い鎖』

カイは、ゆっくりと指先で文字をなぞった。

「……分かったことは、少ないな」

小さく呟く。記憶を失った。大切な誰かを、忘れた。それでも、得られた情報はわずかだった。

「……割に合わない」

カイは、苦笑した。しかしその笑みは、すぐに消えた。

「……でも」

彼は、ノートを閉じた。

「……まだ、終われない」

その声には、確かな決意が宿っていた。

一度、覗いてしまった。あの空白の世界を。銀白色の花を。黒い鎖を。そして、神の声を。

もう、知らなかった頃には戻れない。

カイは、ゆっくりと立ち上がった。窓の外には、朝日が昇っている。

「……君のことを、全部知りたい」

小さく呟く。

その言葉は、誰にも届かなかった。

そして、知ることを望んだ魔術師は、少しずつ、自分自身を失い始めていた。


十四 誰のものでもない魂


ヴェルシュタイン公爵邸。午前。

公爵は、いつもどおり執務室で書類を確認していた。

窓の外には、青い空が広がっている。昨夜の雨は、すっかり上がっていた。

「……閣下」

アルフレッドが、静かに声をかけた。

「何だ」

「聖教会より、再度の回答が届いております」

公爵は、顔を上げた。

「内容は」

「記録の開示について、王国法と教会法の解釈に相違があるため、協議を申し入れたいとのことでございます」

公爵は、数秒考えた。

「……そうか」

そして、静かに言った。

「法務官を呼んでくれ」

「承知いたしました」

「必要なら、王国裁判所に判断を求める」

「……はい」

「記録の改竄については、正式に調査する」

公爵は、書類を閉じた。

「ただし」

アルフレッドが顔を上げる。

「……私の魂について、勝手な推測を広めることは認めない」

「……承知いたしました」

公爵は、窓の外を見つめた。

青い空。静かな庭園。風に揺れる木々。その景色は、いつもと変わらなかった。

公爵は、ゆっくりと息を吐いた。

「……私が何者であろうと」

小さく呟く。

「……私の人生は、私のものだ」

その言葉は、誰にも届かなかった。しかし遠く離れた白き大聖堂。王宮地下の禁書庫。そして、三百年前に封印された神骸の聖域。

そのすべてで青い光が、かすかに揺れた。

忘却の神ノクティスは、静かに目を開いた。

『……そうだ』

誰にも聞こえない声。

『……お前は』

『……誰のものでもない』

『……だからこそ』

その声に、奇妙な熱が宿った。

『……私は』

『……お前を、忘れられぬ』

青い光が、ゆっくりと消える。

世界は、再び静寂に包まれた。だが、その静寂の下では、六人の欲望と、一柱の神の関心が少しずつ、同じ場所へ向かい始めていた。


第六章 了

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