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誰のものにもならない王冠  作者: 泉
第二部 愛という名の侵略

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第五章 聖騎士の祈り

救いとは、誰のために存在するのだろう。

苦しむ者のためか。

それとも誰かを救った自分を愛するためか。

祈りは美しい。献身もまた美しい。

けれど、その祈りが他人の意思を踏みにじり、献身が拒絶を許さなくなったとき。

それは、果たして善と呼べるのだろうか。

聖騎士ルシアン・アストレアは、まだ知らなかった。

正しい人間でありたいと願う心が、時として最も残酷な過ちを生むことを。


一 消された洗礼記録


白き大聖堂の鐘が、朝の六時を告げた。

王都アステリアの中央にそびえる大聖堂は、エルディア王国における信仰の中心である。愛と契約の女神リュミエラ。欲望と王権の神ヴァルディス。そして、三百年前に神々の系譜から消された、忘却と静寂の神ノクティス。

かつて三柱の神を祀っていたという大聖堂には、現在、二柱の神像しか存在しない。

ルシアン・アストレアは、その大聖堂の地下にいた。目の前には、古い羊皮紙の束が広げられている。

二十四年前の洗礼記録。

ヴェルシュタイン公爵家の嫡子に関する記述だった。

『祝福、確認されず』

『神聖魔力への反応、なし』

『魂の波長、測定不能』

そこまでは、以前にも確認した。問題は、その下にあった。

ルシアンは、羊皮紙の表面を指先でなぞった。

「……削られている?」

文字の一部が、不自然に薄くなっていた。羊皮紙の繊維が荒れている。

誰かが、意図的に記述を消した痕跡だった。

「……どういうことだ」

ルシアンは机の上の燭台を近づけた。光を斜めから当てる。すると、消された部分に、かすかな筆跡が浮かび上がった。

『……第七……』

『……封……』

『……神……』

判読できるのは、わずか三つの文字だけだった。

「第七……封印?」

ルシアンは眉を寄せた。洗礼記録に、封印という言葉が記されることなど通常はない。まして、神の祝福を確認する儀式において、封印が必要になる理由など考えられなかった。

彼は、記録の末尾に視線を落とした。洗礼に立ち会った神官の名前が、四人記されている。

大司祭オルフェン。

神官長ミハイル。

記録官セドリック。

そして、補佐神官エドガー。

ルシアンは、別の名簿を開いた。

オルフェン。二十二年前、病死。

ミハイル。十九年前、事故死。

セドリック。十七年前、急死。

エドガー。二十年前より、行方不明。

「……全員?」

ルシアンは息を呑んだ。

偶然だろうか。

二十四年前の洗礼に立ち会った四人のうち、三人が死亡し、一人が消息を絶っている。しかも、記録には改竄の痕跡がある。

「……何かが、隠されている」

ルシアンは、ゆっくりと羊皮紙を閉じた。そして、静かに祈りの姿勢を取った。

「女神リュミエラよ」

胸元の聖印を握りしめる。

「どうか、私に真実をお示しください」

その祈りに、答える声はなかった。しかし、ルシアンは気づかなかった。

彼が真実を求めているのは、神のためでも、公爵のためでもない。

すでに、自分の中で一つの結論を作り上げていたからだ。

あの人は、何かに苦しめられている。あの人は、何かを奪われている。

だから、自分が救わなければならない。

その確信を裏づけるために、彼は真実を探し始めていた。


二 聖騎士の訪問


「……また、面会の申し入れですか」

ヴェルシュタイン公爵邸。

アルフレッドは、目の前の白銀の鎧をまとった青年を見つめた。

ルシアン・アストレア。王国聖騎士団長。その肩には、女神リュミエラの紋章が輝いている。

「突然の訪問、申し訳ありません」

ルシアンは深く頭を下げた。

「ですが、公爵閣下にどうしてもお伝えしたいことがございます」

アルフレッドは、困ったように眉を下げた。

「恐れ入りますが、閣下は私的な面会をお受けにならないご意向でございます」

「存じております」

「でしたら……」

「しかし、今回は私的な用件ではありません」

ルシアンは、真剣な表情で言った。

「公爵閣下の洗礼記録について、重大な疑義が見つかったのです」

アルフレッドの表情が変わった。

「……洗礼記録?」

「はい」

「それは、どういう……」

「詳しくは、閣下ご本人にお伝えしたいのです」

アルフレッドは沈黙した。主人は、神の祝福に関する話題を好まない。というより、興味を示さない。

しかし、洗礼記録の改竄となれば、話は別だった。公爵家の公的な記録に関わる問題である。

「……少々、お待ちください」

アルフレッドは一礼した。ルシアンは、静かに頷いた。


書斎。


公爵は、領地から届いた報告書を読んでいた。

「……洗礼記録に、改竄?」

アルフレッドの報告を聞き、顔を上げる。

「はい。聖騎士団長ルシアン卿が、直接ご説明したいと」

公爵は少し考えた。洗礼記録。二十四年前のもの。

神の祝福を受けていないという事実は、すでに何度も確認されている。それ自体には、何の関心もない。しかし、公的な記録が改竄されているのであれば、確認する必要がある。

「……分かった」

公爵は筆を置いた。

「十分だけ時間を取ろう」

「承知いたしました」

「記録の写しを持参しているか、確認してくれ」

「かしこまりました」

公爵は立ち上がった。その表情には、何の変化もなかった。


三 救いを求めない者


応接室。

ルシアンは、椅子に腰を下ろしていた。公爵が入室すると、すぐに立ち上がる。

「ヴェルシュタイン公爵閣下」

「ルシアン卿」

公爵は形式どおり一礼した。

「洗礼記録について、お話があると伺いました」

「はい」

「では、資料を拝見できますか」

ルシアンは、持参した羊皮紙の写しを差し出した。公爵は受け取り、内容を確認する。

数分間、沈黙が続いた。やがて、公爵は顔を上げた。

「……確かに、改竄の痕跡があるようですね」

「はい」

「原本は?」

「大聖堂の地下書庫に保管されております」

「閲覧記録は残っていますか」

ルシアンは瞬きをした。

「……閲覧記録、ですか?」

「誰が、いつ、原本に触れたのかを確認したいのです」

「……なるほど」

「改竄された時期を特定できれば、関係者を絞り込めます」

ルシアンは、少しだけ驚いた。公爵は、動揺していなかった。自分の洗礼記録が改竄されていたというのに。

「……閣下」

「何でしょう」

「ご自身の洗礼に関する記録が、意図的に消されていたのですよ」

「そのようですね」

「……恐ろしくは、ありませんか」

公爵は、わずかに首を傾げた。

「何がでしょう」

「ご自身の魂に、何か重大な秘密があるかもしれないのです」

「そうかもしれません」

「でしたら……」

「それと、恐怖を感じることに、どのような関係が?」

ルシアンは言葉に詰まった。公爵は淡々と続けた。

「事実関係が不明な段階で、感情的になる必要はありません」

「……ですが」

「記録の改竄は大きな問題です。必要であれば本格的に調査を行います」

公爵は羊皮紙を机に置いた。

「ただし、私の魂に何か問題があるという推測については、現時点では判断できません。記録の改竄と魂については別問題だからです」

ルシアンは、静かに公爵を見つめた。

冷たい瞳。

落ち着いた声。

何の動揺もない表情。

その姿が、ルシアンにとって公爵を益々痛々しい姿に見せた。

「……閣下」

「何でしょう」

「どうか、無理をなさらないでください」

公爵は眉を寄せた。

「……無理?」

「ご自身のことなのです。恐ろしくないはずがありません」

「恐ろしくありませんが」

「……」

「少なくとも、現時点では」

ルシアンは、ゆっくりと息を吐いた。

「……分かりました」

その声には、どこか悲しげな響きがあった。

「今は、そう感じるのですね……」

公爵は、わずかに眉を寄せた。

「ルシアン卿」

「はい」

「私の言葉を、信じていないのですか」

ルシアンは息を呑んだ。

「……そのようなことは」

「私は、恐ろしくないと申し上げました。それを、なぜ否定するように受け取るのでしょうか」

二人しか居ない部屋は沈黙で埋め尽くされる。ルシアンは、答えられなかった。

公爵は続けた。

「私が何を感じているかは、私自身が判断します」

「……」

「あなたが私をどう思うかは自由ですが、私の感情を決めつけないでください」

その言葉は、静かだった。しかし、明確だった。ルシアンは、胸の奥が締めつけられるような感覚を覚えた。

「……申し訳ありません」

彼は深く頭を下げた。公爵は、短く頷いた。

「資料については、正式な手続きを通して調査を進めます」

「……はい」

「ご報告、ありがとうございました」

公爵は立ち上がった。面会は、それで終了した。

ルシアンは、しばらく動けなかった。公爵が退室したあとも、椅子に座ったままだった。そして、静かに呟いた。

「……どうして」

なぜ、あの人は、あれほど冷たいのだろう。なぜ、自分の善意を受け取らないのだろう。なぜ、救われることを拒むのだろう。

ルシアンは、胸元の聖印を握りしめた。

「……きっと、まだ」

小さく呟く。

「……まだ、私を信頼していないだけだ」

それは、彼にとって都合のよい答えだった。

公爵が救いを求めていないのではない。ただ、まだ自分を信じていないだけ。そう考えれば、拒絶された理由を説明できた。

そして、ルシアンは理解できていなかった。

相手の拒絶を、自分が良いように解釈し、自分の理想の物語へと書き換え始めていたことに。


四 古い神官の証言


その日の夕刻。

ルシアンは、大聖堂の奥にある療養施設を訪れていた。そこには、引退した神官たちが暮らしている。ルシアンが訪ねたのは、八十歳を超える老神官だった。

名を、マティアスという。

彼は、二十四年前の洗礼式に直接立ち会ってはいなかった。しかし、当時、大聖堂の記録管理を担当していた人物だった。

「……ヴェルシュタイン公爵家の洗礼?」

マティアスは、かすれた声で繰り返した。

「はい」

ルシアンは、静かに頷いた。

「当時の記録について、お伺いしたいことがございます」

老神官は、しばらく黙っていた。そして、ゆっくりと首を振った。

「……その話は、やめた方がいい」

ルシアンは眉を寄せた。

「なぜですか」

「……知らない方が、いいこともある」

「ですが、記録が改竄されているのです」

マティアスの表情が変わった。

「……改竄?」

「はい」

ルシアンは、写しを差し出した。老神官は、震える手で受け取った。そして、消された文字を見た瞬間。顔が青ざめる。

「……まだ、残っていたのか」

ルシアンは息を呑んだ。

「……何をご存じなのですか」

マティアスは、羊皮紙を握りしめた。

「……あの日」

声が震えていた。

「……あの日、神官たちは、何かを見た」

「何を?」

老神官は、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、明らかな恐怖が宿っていた。

「……神が、いなかった」

ルシアンは眉を寄せた。

「……どういう意味ですか」

「祝福がなかったのではない」

マティアスは、震える声で言った。

「……神々が、あの子を見つけられなかったのだ」

マティアスの小さな声が消えていく。ルシアンは、言葉を失った。

「……神々が?」

「そうだ」

老神官は、目を閉じた。

「通常、洗礼では、神々の光が魂に触れる」

「……はい」

「だが、あの子の魂には、何も届かなかった」

「……」

「神官たちは、何度も祈った。何度も祝福を求めた」

マティアスは、ゆっくりと首を振った。

「……だが、神々は、あの子を認識できなかった」

ルシアンは、息を呑んだ。

「……そんなことが」

「そして」

老神官は、震える声で続けた。

「……最後に、一人の神官が、禁じられた祈りを唱えた」

「禁じられた祈り?」

「三百年前に封印された、忘却の神の名を」

ルシアンの表情が変わった。

「……ノクティス?」

老神官は、目を見開いた。

「……その名を、口にするな!」

突然の叫びだった。

ルシアンは驚き、身を引いた。マティアスは、荒い息を吐いていた。

「……その名は、忘れられなければならない」

「……なぜですか」

「……神は、死んだのだ」

老神官は、震える声で言った。

「……三百年前に、殺された」

(殺された?神が一体誰に、どんな目的で?)

ルシアンは、ゆっくりと尋ねた。

「……誰に?」

マティアスは、答えなかった。ただ、窓の外を見つめていた。やがて、小さく呟いた。

「……王冠を戴く者たちに」

その言葉は、部屋に入る風にのってどこかへ消えていった。


五 侯爵令嬢の小さな嘘


同じ頃。

ローゼンベルク侯爵家。

エレノアは、友人たちとの茶会に参加していた。

淡い桃色のドレス。

柔らかな金髪。

完璧な微笑み。

いつもどおりの、美しい侯爵令嬢。しかし、その心は穏やかではなかった。

「……エレノア様」

友人の一人が、興味深そうに声をかけた。

「先日の舞踏会で、ヴェルシュタイン公爵閣下とお話しされたのでしょう?」

エレノアの手が止まった。

「……ええ」

「まあ! どのようなお方でした?」

「とても、美しい方でしたわ」

「それで? 何をお話しになったの?」

エレノアは、微笑んだ。

「……少しだけ、社交のお話を」

「まあ、素敵!」

「公爵閣下は、とても冷たい方だと伺っておりますけれど……」

エレノアは、カップを置いた。

「……そうでも、ありませんでしたわ」

友人たちが顔を見合わせた。

「まあ、本当ですの?」

「ええ」

エレノアは、微笑んだ。

「……私には、とても丁寧に接してくださいました」

それは、嘘ではなかった。公爵は、確かに礼儀正しかった。

しかし。

「……それに」

エレノアは、少しだけ声を落とした。

「……また、お話しできる機会があるかもしれませんの」

友人たちが歓声を上げた。

「まあ!」

「それは素晴らしいですわ!」

「やはり、エレノア様は特別なのですね!」

エレノアは、微笑んだ。

その言葉が、胸に染み込んでいく。

特別。

そう。自分は、特別なのだ。誰もが愛する、エレノア・ローゼンベルク。だから、あの公爵も。

きっと。いつか。

自分だけは、違う存在になるはずだ。

「……ふふ」

エレノアは、静かに笑った。その笑顔は、完璧だった。だが、その内側では。

現実と願望の境界が、ほんの少しだけ曖昧になり始めていた。


六 広がる噂


翌日。

王都の社交界では、新たな噂が広まっていた。

『ヴェルシュタイン公爵が、ローゼンベルク侯爵令嬢には心を許しているらしい』

『あの冷たい公爵閣下が?』

『ええ。先日の舞踏会で、親しげにお話しされたとか』

『まあ、素敵!』

『もしかすると、婚約のお話が進んでいるのでは?』

噂は、瞬く間に広がった。それも大きな尾を携えて。

誰も、事実を確認しなかった。誰も、本人に尋ねなかった。ただ、面白い話として語られた。

そして、その噂は王宮にも届いた。


「……エレノア・ローゼンベルク?」

レオンハルトは、報告書を見つめた。

「はい、殿下」

侍従が答える。

「社交界では、ヴェルシュタイン公爵閣下と親しくなさっているとの噂が……」

レオンハルトの表情が変わった。

「……親しい?」

「はい」

「……あいつが?」

「……そのように噂されております」

レオンハルトは、ゆっくりと立ち上がった。

「……誰が言い始めた」

「詳細は不明ですが、ローゼンベルク侯爵家の茶会で……」

「調べろ」

低く冷たい声だった。侍従は頭を下げた。

「かしこまりました」

レオンハルトは、窓の外を見つめた。

エレノア。あの美しい侯爵令嬢。誰もが愛する女性。公爵は、彼女の誘いも断ったはずだった。

それなのに。

「……まさか」

胸の奥に、冷たいものが落ちた。自分の知らないところで、あの公爵が誰かに心を許している。その可能性が、耐えがたかった。

「……ふざけるな」

小さく呟く。

「……私には、あれほど冷たくしておいて」

拳が強く握られた。

この怒りの先にいるものは一体何なのか。レオンハルトは知る由もなかった。そして公爵が、自分以外の誰かを選ぶ可能性そのものが、許せなくなっていたことすらも。


七 魔術師の好奇心


王宮地下。禁書庫。

カイは、古い魔術書を開いていた。

『忘却の神ノクティス』

その名前が記されたページ。三百年前の禁忌。神々の法則から外れた魂。

カイは、ゆっくりと指先で文字をなぞった。

「……なるほどね」

机の上には、小さな魔晶石が置かれている。先日の夜、青い光を放ったものだった。カイは、それを手に取った。

「……君は、何を知っているんだろう」

魔晶石は、何も答えなかった。

「……神が、死んだ?」

カイは、笑った。

「そんなこと、あり得るのかな」

神は、不滅の存在だ。少なくとも、教会はそう教えている。しかし、三百年前の記録には、明確に記されていた。

『神殺し』

『王冠の契約』

『第七封印』

そして。

『空白の魂』

カイは、その言葉に視線を止めた。

「……空白の魂」

ヴェルシュタイン公爵。神の祝福を受けない魂。魔術によって観測できない存在。

すべてが、つながり始めていた。

「……これは、偶然じゃないな」

カイは、ゆっくりと笑った。

「……君は、何かを隠している」

しかし。公爵自身が、何かを隠しているとは限らない。その可能性を、カイは考えなかった。

彼にとって、謎は解かれるべきものだった。そして、謎を解くためなら。多少の危険は、許される。そう信じていた。

「……一度、直接確かめてみようかな」

カイは、魔晶石を握りしめた。

その瞬間。

青い光が、かすかに揺れた。そして。誰にも聞こえない声が、静かに囁いた。

『……触れるな』

カイは、息を呑んだ。

「……また?」

魔晶石の光が消える。

カイは、しばらく動けなかった。やがて、ゆっくりと笑った。

「……ますます、面白い」

その笑みには、これまでとは異なる熱が宿っていた。


八 聖騎士の決意


夜。白き大聖堂。

ルシアンは、女神リュミエラの神像の前に跪いていた。胸元の聖印を握りしめる。

「……女神よ」

静かな声が、礼拝堂に響く。

「どうか、私に力をお与えください」

彼は、目を閉じた。公爵の姿が、脳裏に浮かぶ。

銀白色の髪。

冷たい灰銀色の瞳。

誰にも頼らない姿。

そして。

『私が何を感じているかは、私自身が判断します』

その言葉。

ルシアンは、胸の奥に痛みを覚えた。なぜ、あの人は、自分を拒むのだろう。なぜ、助けを求めないのだろう。なぜ、誰にも心を開かないのだろう。

「……きっと」

小さく呟く。

「……何か、理由があるはずです」

神の祝福を受けない魂。改竄された洗礼記録。死んだ神官たち。失われた神の名。

すべてが、あの人の孤独につながっている。そう思った。

「……私が、真実を明らかにします」

ルシアンは、ゆっくりと顔を上げた。

「……そして、必ず」

女神の神像を見つめる。

「……あの方を、救ってみせます」

その祈りは、純粋だった。少なくとも、彼自身にとっては。けれど、その祈りは時として牙となり、傲慢な感情にもなる。

救済とは、相手が望むものでなければならない。望まれない救済は、時として、支配と変わらない。

そして。

自分の正しさを疑わない人間ほど、他人の拒絶を許せなくなる。その危うさが、彼の中で静かに育ち始めていた。


九 王都の噂


翌朝。ヴェルシュタイン公爵邸。

「……婚約?」

公爵は、アルフレッドが差し出した報告書を見た。

「はい、閣下」

「誰と?」

「ローゼンベルク侯爵家のエレノア様と公爵様との間でございます」

公爵は、数秒沈黙した。

「……なぜ?」

アルフレッドは、困ったように眉を下げた。

「社交界で、そのような噂が広まっておりまして」

「事実ではない」

「承知しております」

「婚約の申し入れも受けていない」

「はい」

「私から申し入れたこともない」

「はい」

公爵は、報告書を机に置いた。

「……では、なぜそんな話になる」

アルフレッドは、答えられなかった。

公爵は、少し考えた。

「……分かった」

そして、静かに言った。

「正式に否定してくれ」

「……よろしいのですか?」

「事実ではないからな」

「しかし、ローゼンベルク侯爵家のご令嬢の評判に影響する可能性が……」

公爵は、わずかに眉を寄せた。

「事実ではない婚約話を放置する方が、問題だろう」

「……おっしゃるとおりでございます」

「公爵家として、正式な声明を出す」

「承知いたしました」

「内容は簡潔に」

公爵は、淡々と言った。

「ローゼンベルク侯爵家との婚約、ならびに婚約交渉の事実は一切ない。以上だ」

アルフレッドは一礼した。

「かしこまりました」

公爵は、再び書類に目を落とした。その表情には、何の変化もなかった。

誰が噂を広めたのか。なぜ、そのような話になったのか。

そんなことには、興味がなかった。

ただ事実ではない情報が、公爵家の名で広まることは、放置できない。それだけだった。


十 初めての屈辱


ローゼンベルク侯爵家。午後。

エレノアは、友人から届いた手紙を読んでいた。

『エレノア様。

本日、ヴェルシュタイン公爵家より正式な声明が発表されました。

ローゼンベルク侯爵家との婚約、ならびに婚約交渉の事実は一切ないとのことです。

何かの行き違いでしょうか。

どうか、お気を落とされませんように。』

エレノアの手が止まった。

「……え?」

もう一度、読む。

『婚約、ならびに婚約交渉の事実は一切ない』

文字が、滲んで見えた。

「……どうして」

小さく呟く。

「……どうして、そんなことを」

彼女は、何もしていない。

ただ、少しだけ、友人たちに話しただけだ。公爵と、また話せるかもしれない。

そう言っただけ。

それなのに。なぜ、わざわざ正式な声明を出すのだろう。なぜ、皆の前で否定するのだろう。なぜ、自分を恥ずかしい立場に追い込むのだろう。

エレノアは、唇を噛んだ。

「……ひどい」

涙が、頬を伝った。

「……ひどいわ」

その涙は、本物だった。彼女は、本当に傷ついていた。

しかし傷ついた理由は、公爵に愛されなかったからではない。

自分が他人から愛されない存在として、他人に見られることが耐えられなかったのだ。

エレノアは、震える手で手紙を握りしめた。

「……絶対に」

小さく呟く。

「……絶対に、私を見てもらうんだから」

その声には、これまでになかった強さが宿っていた。


十一 王弟の観察


ヴァレンティス王国使節館。

リオネルは、王都の噂をまとめた報告書を読んでいた。

エレノア・ローゼンベルク。ヴェルシュタイン公爵との婚約の噂。

そして、公爵家による正式な否定。

リオネルは、ゆっくりと息を吐いた。

「……なるほど」

彼は、報告書を閉じた。

「……あの人らしい」

事実ではない情報は、訂正する。相手の感情を考慮して、曖昧な態度を取ることはしない。誰かに期待を持たせるような言葉も使わない。

リオネルは、静かに微笑んだ。

「……本当に、分かりやすい人だ」

彼は、窓の外を見つめた。王都の街並み。遠くに見える、ヴェルシュタイン公爵邸のある貴族街。

「……誰も、あの人を理解していない」

小さく呟く。

王太子は、所有しようとしている。

女王は、贈り物で心を動かそうとしている。

聖騎士は、救おうとしている。

魔術師は、暴こうとしている。

侯爵令嬢は、愛されようとしている。

皆、同じだ。自分の望みを、あの人に押しつけている。

リオネルは、ゆっくりと微笑んだ。

「……僕は、違う」

その言葉は、静かだった。

「……僕なら、ちゃんと」

彼は、少しだけ考えた。そして、続けた。

「……あの人の自由を、守れる」

その瞬間。彼の中に、一つの考えが生まれた。

あの人は、今後も多くの人間に追いかけられるだろう。

王太子。女王。聖騎士。魔術師。侯爵令嬢。

そのすべてから、あの人を守るためには。

誰かが、間に立たなければならない。誰かが、余計な接触を遮断しなければならない。誰かが、あの人の代わりに判断しなければならない。

リオネルは、微笑んだ。

「……そうか」

小さく呟く。

「……僕が、そうなればいいんだ。僕しかいないじゃないか」

その考えが、どれほど危険なものなのか。

彼は、まだ気づいていなかった。相手の自由を守るために、相手の自由を管理する。その矛盾が、彼の中で静かに形を持ち始めていた。


十二 祈りの終わり


深夜。白き大聖堂。

ルシアンは、再び女神の神像の前に跪いていた。

「……女神よ」

静かな声が、礼拝堂に響く。

「……どうか、私に力を」

そのとき、神像の足元に置かれた燭台が、かすかに揺れた。

炎が、青く染まる。ルシアンは、顔を上げた。

「……?」

青い炎。それは、通常の神聖魔術では起こり得ない現象だった。

「……これは」

ルシアンは、ゆっくりと立ち上がった。

神像を見つめる。女神リュミエラ。愛と契約の女神。その美しい顔が、暗闇の中で静かに微笑んでいる。

しかし青い炎は、神像の足元ではなく。その背後。壁に刻まれた古い紋章を照らしていた。

円。その内側に刻まれた、失われた古代文字。

ルシアンは、息を呑んだ。

「……ノクティス」

忘却と静寂の神。三百年前に殺されたとされる存在。その名前を口にした瞬間。青い炎が、大きく揺れた。

そして誰にも聞こえない声が、静かに囁いた。

『……救うな』

ルシアンは、息を止めた。

「……誰だ?」

返事はなかった。ただ、青い炎が揺れている。

『……あれは』

『……お前のものではない』

ルシアンは、目を見開いた。

「……何を」

声が震えた。

「……何を、言っている」

青い炎が、ゆっくりと消える。礼拝堂には、再び静寂が戻った。

ルシアンは、しばらく動けなかった。

やがて、胸元の聖印を握りしめた。

「……邪神の囁きか」

小さく呟く。

「……私を、惑わせようとしているのか」

彼は、再び神像の前に跪いた。

「……女神よ」

その声には、これまで以上の強い決意が宿っていた。

「……私は、決して屈しません」

目を閉じる。

「……必ず、あの方を救ってみせます」

その祈りに、答える声はなかった。ただ。礼拝堂の奥。誰にも見えない暗闇の中で。忘却の神は、静かに呟いた。

『……愚かな』

『……人の子よ』

『……お前たちは』

『……なぜ、拒絶を』

『……理解できぬ』

その声は、誰にも届かなかった。

そして王都の夜は、静かに更けていった。

六人の人間が、それぞれ異なる欲望を抱き。一人の人間が、誰のことも望まず。三百年前に殺された神が、再び目覚め始めていた。


第五章 了

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