第四章 六人目の招待客
愛されることに慣れた人間は、愛されないことを知らない。
微笑めば微笑みが返り、手を差し伸べれば誰かがその手を取る。
そんな世界で生きてきた者にとって、無関心ほど理解しがたいものはない。
憎まれるのなら、まだいい。
嫌われるのなら、理由を探せばいい。
けれど、自分という存在が、相手の心に何一つ残らないとしたら。
それは、いったい何を意味するのだろう。
一 王太子の命令
「出席義務は、ない?」
王宮の執務室に、レオンハルトの低い声が響いた。外務府から提出された報告書には、ヴェルシュタイン公爵家の正式な回答が記されている。
『当該協議において、領主本人の出席を義務づける法的根拠は認められない。したがって、ヴェルシュタイン公爵家は全権代理人を派遣する』
レオンハルトは、最後の一文をもう一度読んだ。
「……全権代理人」
「はい、殿下」
外務府の官僚が答える。
「公爵閣下は、代理人として財務総監を派遣されるとのことでございます」
「本人は?」
「出席なさらないご意向です」
レオンハルトは報告書を机に置いた。
「ヴァレンティス女王は、本人の出席を求めていたはずだ」
「はい。しかし、我が国の法令上、今回の協議において公爵閣下ご本人の出席を強制することはできません」
「……そうか」
レオンハルトは椅子に深く腰を下ろした。窓の外では、秋の風が王宮の旗を揺らしている。あの公爵は、また逃げた。
いや。
逃げたのではない。最初から、こちらの思惑に付き合う気がなかったのだ。
「……実に、あいつらしい」
レオンハルトは小さく笑った。官僚は安堵しかけた。
しかし、次の言葉で背筋を伸ばした。
「ならば、別の機会を設ければいい」
「……別の機会、でございますか」
「王宮主催の秋季慈善舞踏会だ」
官僚は目を瞬かせた。
「来週開催される、あの舞踏会でしょうか」
「そうだ」
レオンハルトは立ち上がった。
「五大公爵家の当主には、王家から正式な招待状を送る」
「しかし、殿下。舞踏会は慈善事業のためのものであり、出席は任意で……」
「分かっている」
レオンハルトは微笑んだ。
「今回は、国王陛下にもご臨席いただく」
官僚の表情が変わった。
国王が出席するとなれば、五大公爵家の当主が欠席することは、政治的に難しくなる。法的な義務ではない。そして王家への忠誠を示す場としての意味が生まれる。
「……殿下」
「何だ」
「ヴェルシュタイン公爵閣下をお招きするために、そこまでなさる必要がございますか」
レオンハルトは官僚を見た。
「何か問題が?」
「……いえ」
「ならば、準備を進めろ」
官僚は深く頭を下げた。扉が閉まる。
一人になったレオンハルトは、机の上の報告書を見つめた。
自身が公爵に送った七通の招待状。感情的な突然の訪問。そして、外交協議。
自身が行動したものに対して、すべて拒絶の姿勢を崩さない。
だが、彼にはまだ理解できなかった。拒絶されるたびに、なぜこれほど相手のことを考えてしまうのか。なぜ、あの冷たい瞳を思い出すのか。なぜ、自分に関心を向けない人間を、これほど強く求めてしまうのか。
「……今度こそ」
レオンハルトは、ゆっくりと呟いた。
「私眼中に。」
その言葉には、愛情よりも強い何かが滲んでいた。
二 招待状の価値
ヴェルシュタイン公爵邸。
午後。
「……秋季慈善舞踏会?」
公爵は、アルフレッドが差し出した招待状を見た。
「はい、閣下」
「国王陛下も出席されるのか」
「そのようでございます」
公爵は招待状を開いた。王家の紋章。正式な儀礼文。そして、国王の名による招待。
「……なるほど」
公爵はしばらく内容を確認した。
「出席しなかった場合の影響は?」
アルフレッドは、あらかじめ用意していた資料を差し出した。
「五大公爵家の当主が全員出席する見込みでございますので、閣下のみ欠席なさいますと、王家への不敬と受け取られる可能性がございます」
「領地への影響は?」
「直接的なものはないかと。ただし、今後の予算審議において、不要な反発を招くおそれはございます」
公爵は考える。
舞踏会。
社交。
挨拶。
無意味な会話。
どれも好ましくない。しかし、欠席によって領地の行政に支障が生じるのであれば、出席した方が効率的だ。
「……分かった」
公爵は招待状を閉じた。
「出席する」
アルフレッドは、ほっと息を吐いた。
「承知いたしました」
「ただし、陛下へのご挨拶と、慈善事業への寄付手続きが終わり次第、帰宅する」
「……はい」
「舞踏会に参加する必要はないだろう」
「形式上は、問題ございません」
「ならば、それでいい」
公爵は書類に目を落とした。
「衣装は以前のもので構わない」
「かしこまりました」
アルフレッドは一礼した。そして、部屋を出ようとして、ふと足を止めた。
「……閣下」
「何だ」
「今回は、ローゼンベルク侯爵家のご令嬢もご出席なさるそうです」
「そうか」
「社交界では、大変人気のあるお方だとか」
「それが?」
アルフレッドは口を閉じた。
「……いえ、何でもございません」
公爵は再び筆を動かした。
その名前は、公爵の頭の隅にすら残らない。
三 社交界の花
ローゼンベルク侯爵家。
鏡張りの化粧室には、柔らかな午後の日差しが差し込んでいた。
「……もう少し、髪を高く結ってちょうだい」
エレノア・ローゼンベルクは、鏡越しに侍女へ微笑んだ。
「かしこまりました、お嬢様」
柔らかな金髪が、丁寧に梳かれる。白磁のような肌。宝石のような緑の瞳。薄桃色の唇。
エレノアは、誰もが認める美しい令嬢だった。
社交界では、彼女の微笑みを一目見るために、多くの青年貴族が列をなした。舞踏会では、最初の曲が始まる前にすべてのダンスの予約が埋まる。贈り物は絶えず、求婚の申し入れも数え切れない。
彼女は、それを当然のこととして受け入れていた。
「お嬢様」
侍女が声をかける。
「来週の慈善舞踏会には、ヴェルシュタイン公爵閣下もご出席なさるそうです」
エレノアの手が止まった。
「……本当に?」
「はい。王宮から正式に発表がございました」
「そう」
エレノアは微笑んだ。
「それは、楽しみね」
侍女も笑った。
「きっと、公爵閣下もお嬢様の美しさに驚かれることでしょう」
「ふふ。そんなことないわ」
エレノアは控えめに首を振った。
「公爵閣下は、とても冷たい方だと聞いているもの」
「ですが、お嬢様にお会いになれば、きっと……」
「……そうかしら」
エレノアは鏡を見つめた。そこには、美しい令嬢が映っている。完璧に整えられた髪。上品な化粧。柔らかな微笑み。誰もが愛する姿。
「……一度、お話ししてみたいわ」
小さく呟く。
その声には、純粋な好奇心があった。しかし、心の奥には別の感情もあった。
王太子殿下も。
隣国の女王陛下も。
聖騎士団長も。
宮廷魔術師も。
皆、あの公爵に関心を向けている。なぜだろう。自分にはない、何かがあるのだろうか。エレノアは、鏡の中の自分に微笑みかけた。
「……きっと、仲良くなれるわ」
それは、彼女にとって疑う余地のない未来だった。誰もが自分を好きになる。だから、あの公爵も例外ではない。そう信じていた。
四 秋季慈善舞踏会
王宮の大広間は、黄金色の光に包まれていた。
巨大なシャンデリア。
白大理石の柱。
壁を飾る絵画。
天井には、愛と契約の女神リュミエラを讃える壮麗な天井画が描かれている。楽団が優雅な旋律を奏で、貴族たちは色鮮やかな衣装で広間を彩っていた。
「ヴェルシュタイン公爵閣下のご入場です!」
侍従の声が響く。広間の一角が、静かになった。
銀白色の髪。
灰銀色の瞳。
黒と銀を基調とした礼装。
公爵は、周囲の視線を気にすることなく歩いていた。
「……あの方が」
「ええ、ヴェルシュタイン公爵ですわ」
「相変わらず美しい……」
「けれど、恐ろしい方だとか」
囁き声が広がる。しかし、公爵自身もはや他者からの戯言など慣れていた。その声はノイズでしかなく、耳に入れど、脳みそまで伝わることはない。
今夜の目的は明確だった。
国王への挨拶。
寄付金の手続き。
それだけ。公爵からしたら、今夜来たのはそれだけのためなのだ。
「ヴェルシュタイン公爵」
背後から声がした。公爵が振り返ると、そこには輝くプラチナブロンズに深紅の瞳。誰もが息をのむであろう容姿のレオンハルトだった。
「殿下」
いつも通り、簡潔に短く公爵は挨拶を送る。
「ご機嫌麗しゅう」
「……今日は来たのだな」
「陛下がご出席なさると伺いましたので」
レオンハルトの眉が動いた。
「私の招待は断るのに?」
「はい」
即答だった。レオンハルトは、苦笑した。
「……本当に、容赦がないな」
「何がでしょう」
「いや、いい」
彼は一歩近づいた。
「今夜は、私と一曲踊らないか」
公爵は答えた。
「お断りいたします」
レオンハルトの笑みが止まる。
「……理由は」
「踊る予定がありません」
「私が誘っている」
「承知しております」
「ならば」
「殿下」
公爵は静かに言った。
「以前も申し上げましたが、私は殿下との私的な交流を望んでおりません」
周囲の貴族たちが、息を潜めた。静かに淡々と話す公爵をレオンハルトは見つめる。そう、それはまるで冷たい虚空のような公爵の瞳を持つ黒豹とまるで灼熱のような熱い瞳を持つライオンのような二人だった。
「……ここで、それを言うのか」
「明確な理由をお伝えした方がいいかと思いましたので」
「少しは場所を考えろ」
「では、今後は公の場で私的なお誘いをなさらない方がよろしいかと」
鋼のような糸がピンと張り詰めるような緊張感。レオンハルトの表情が、わずかに歪んだ。しかし、公爵は気にしなかった。
「失礼いたします」
形式的だが優雅に見える一礼を送る。そして、王子の返答を待つことなく、その場を離れた。レオンハルトは動かなかった。握りしめた拳に、力が入る。周囲の視線が痛い。
だが、それ以上に。あの公爵が、自分を見ていないことが、耐えがたかった。
五 初めての拒絶
「……あの方ね」
エレノアは、遠くからその様子を見ていた。王太子の誘いを断った公爵。周囲の視線にも動じず、静かに歩いていく姿。確かに、美しい。だが、それ以上に。
「……不思議な方」
エレノアは小さく呟いた。友人の令嬢が、隣で頷く。
「本当に。王太子殿下のお誘いを、あのように断るなんて……」
「……そうね」
エレノアは微笑んだ。そして、ゆっくりと歩き出した。
「エレノア様?」
「ご挨拶してくるわ」
「……公爵閣下に?」
「ええ」
エレノアは、柔らかな笑みを浮かべた。
「せっかくの機会ですもの」
彼女は、自信を持っていた。誰もが自分に微笑み返す。誰もが自分との会話を喜ぶ。それが、彼女の世界だった。
公爵が、壁際のテーブルで水を飲んでいる。エレノアは、優雅に近づいた。
「……ごきげんよう、ヴェルシュタイン公爵閣下」
公爵が顔を上げた。灰銀色の瞳が、エレノアを捉える。
「ごきげんよう」
低く、静かな声。エレノアは微笑んだ。
「突然お声がけしてしまい、申し訳ございません」
「何かご用でしょうか」
「私、ローゼンベルク侯爵家のエレノアと申します」
「存じております」
エレノアの胸が、わずかに高鳴った。
知っている。自分のことを。やはり、噂は届いているのだ。
「まあ、光栄ですわ」
彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「以前から、一度お話ししてみたいと思っておりましたの」
「そうですか」
「公爵閣下は、あまり社交の場にお出にならないと伺っております」
「ええ」
「では、今夜お会いできたのは、とても幸運ですわね」
「そうでしょうか」
エレノアは、少しだけ戸惑った。しかし、すぐに笑みを取り戻した。
「ふふ。公爵閣下は、少し変わったお方ですのね」
公爵は答えなかった。エレノアは続ける。
「私、今夜の舞踏会をとても楽しみにしておりましたの」
「そうですか」
「公爵閣下は、いかがですか?」
「特に」
「……特に?」
「楽しみにしていたわけではありません」
エレノアは瞬きをした。
「……まあ」
沈黙。こんな会話は、初めてだった。
普通なら、相手は自分に質問を返す。衣装を褒める。髪型を褒める。今夜の舞踏会について、何か話題を提供する。
しかし、公爵は何もしなかった。ただ、静かに立っている。エレノアは、少しだけ焦った。
「……あの、公爵閣下」
「何でしょう」
「もしよろしければ、今度、私のお茶会にいらっしゃいませんか?」
公爵は答えた。
「お断りいたします」
エレノアの笑みが止まった。
「……え?」
「私的な茶会には参加しておりませんので」
「……でも」
「申し訳ございません」
公爵は、形式的に一礼した。
「失礼いたします」
そして、歩き出そうとした。そんな公爵に反射的にエレノアは声を上げる。
「お待ちください!」
公爵が足を止める。振り返る。
「何でしょう」
エレノアは、慌てて微笑んだ。
「……あの、私、何か失礼なことを申し上げましたか?」
「いいえ」
「では、なぜ……」
「何がでしょう」
「……私のお誘いを、断られるのですか?」
公爵は、わずかに首を傾げた。
「参加する意思がないからです」
あまりにも、簡潔な答えだった。
エレノアは言葉を失った。
「……私のことが、お嫌いですか?」
公爵は答えた。
「特に」
「……え?」
「嫌ってはいません」
エレノアの胸に、わずかな安堵が生まれた。しかし、次の言葉が、それを消し去った。
「好意もありませんが」
エレノアは、息を呑んだ。公爵は続ける。
「本日初めてお話しした方ですので、特別な感情はありません」
「……」
「それでは、失礼いたします」
公爵は一礼した。そして、今度こそ、その場を離れた。
エレノアは動けなかった。周囲の音が、遠くなる。
音楽。
笑い声。
グラスの触れ合う音。
すべてが、どこか別の場所で鳴っているようだった。
『好意もありませんが』
その言葉が、頭の中で繰り返される。嫌われたわけではない。侮辱されたわけでもない。ただ自分は、何の意味も持たなかった。エレノアは、ゆっくりと唇を噛んだ。
「……そんな」
誰にも聞こえない声だった。
「……そんなこと、あるはずないわ」
六 見つめる者たち
舞踏会は、何事もなかったかのように続いていた。しかし、公爵を見つめる視線は、確実に増えていた。
広間の中央。レオンハルトは、エレノアが拒絶される様子を見ていた。
「……あいつもか」
小さく呟く。美しい侯爵令嬢。社交界の花。誰もが愛する女性。その誘いすら、公爵は断った。レオンハルトは、奇妙な安堵を覚えた。自分だけではない。あの公爵は、誰に対しても同じなのだ。だが、その事実は、同時に別の感情を呼び起こした。
誰にも心を許さないのなら。
誰にも関心を向けないのなら。
自分が、最初の一人になればいい。その考えが、胸の奥で静かに膨らんでいく。
一方。広間の反対側では、ルシアンが公爵を見つめていた。
「……また、お断りになったのですね」
隣に立つ騎士が答える。
「はい。ローゼンベルク侯爵令嬢のお誘いも」
ルシアンは眉を寄せた。
「……あの方は、なぜあそこまで人を遠ざけるのでしょう」
騎士は答えなかった。ルシアンは、静かに呟いた。
「……きっと、何か理由があるはずです」
その声には、確信があった。神の祝福を受けない魂。人の好意を拒む態度。孤独を選ぶ生き方。すべてが、彼の中で一つの物語になりつつあった。
傷ついた人間。
救いを求められない人間。
誰かが手を差し伸べなければならない人間。
そして、その誰かは。自分であるべきだ。ルシアンは、そう信じ始めていた。
「……ふうん」
王宮の柱の陰。カイは、興味深そうに公爵を眺めていた。手には、小さな魔晶石。その表面には、淡い紫色の光が浮かんでいる。
「……やっぱり、変だな」
彼は小さく呟いた。魔晶石は、周囲の魔力を測定するためのものだった。貴族たちの魂には、それぞれ異なる神性が宿っている。
赤。青。金。白。
さまざまな色の光が、魔晶石の内部に浮かび上がる。しかし公爵の姿が視界に入った瞬間。魔晶石の光が消えた。
「……まただ」
カイは目を細めた。光が弱まったのではない。反応が遮断されたのでもない。まるで、魔晶石そのものが、観測する対象を失ったかのように。
「……面白い」
カイは笑った。
「本当に、面白いな」
その声には、純粋な好奇心があった。
まだ、執着ではない。
まだ、欲望でもない。
ただ、知りたい。
それだけだった。しかし知ることを望む人間ほど、知らないままでいることに耐えられない。
カイは、まだそのことを理解していなかった。
七 女王の観察
「……あら」
広間の二階。貴賓席から、セラフィーナは公爵を見下ろしていた。隣には、リオネルが立っている。
「姉上」
「何?」
「また、あの方を見ていらっしゃるのですか」
セラフィーナは微笑んだ。
「ええ」
「……随分とお気に入りですね」
「だって、見ていて飽きないのだもの」
彼女は扇を開いた。
「王太子も、侯爵令嬢も、みんな断られているわ」
「そうですね」
「なのに、誰も諦めない」
リオネルは、静かに答えた。
「……姉上も、そのお一人ですが」
セラフィーナは笑った。
「ふふ。そうね」
彼女は、公爵を見つめた。
銀白色の髪。
冷たい瞳。
誰にも媚びない姿勢。
「……欲しいわ」
小さく呟く。
リオネルは、姉を見た。
「……姉上」
「何?」
「欲しいからといって、必ずしも手に入るとは限りませんよ」
セラフィーナは微笑んだ。
「分かっているわ」
しかし、その瞳は笑っていなかった。
「だからこそ、欲しいのよ」
リオネルは、何も言わなかった。彼は、再び公爵へ視線を向けた。あの人は、今夜も誰にも関心を示していない。
王太子にも。
女王にも。
侯爵令嬢にも。
誰にも。
リオネルは、ふと考えた。もし、自分があの人の立場だったら。これほど多くの人間に囲まれ、好意を向けられ、期待され、要求されることは。どれほど煩わしいだろう。
「……可哀想に」
思わず、呟いた。セラフィーナが振り返る。
「何か言った?」
「いえ」
リオネルは微笑んだ。
「何でもありません」
だが、彼の心には、一つの考えが生まれていた。
あの人は、誰にも理解されていない。誰も、あの人の望みを尊重していない。だが自分だけは、違う存在でありたい。
その願望が、静かに芽生えていた。
八 壊れた微笑み
「……エレノア様?」
友人の令嬢が、心配そうに声をかけた。エレノアは、窓際の椅子に座っていた。
「……何?」
「お顔の色が、少し……」
「大丈夫よ」
エレノアは微笑んだ。いつもどおりの、完璧な笑顔。しかし、その指先は、膝の上で強く握りしめられていた。
『好意もありませんが』
あの言葉が、頭から離れない。嫌われていない。だが、好かれてもいない。自分は、何の意味も持たなかった。そんなことが、あるのだろうか。
「……公爵閣下は、少し変わったお方ですものね」
友人が言った。
「きっと、誰に対してもああなのですわ」
「……そうね」
エレノアは微笑んだ。
「私も、そう思うわ」
しかし心の奥では、別の声がしていた。
(でも、私には違うはずでしょう?)
(私は、エレノア・ローゼンベルクなのよ。)
(誰もが私を好きになる。)
(誰もが私に微笑む。)
(誰もが私を特別だと言う。)
(なのに、どうして。)
エレノアは、ゆっくりと顔を上げた。広間の向こうに、公爵の姿が見える。誰とも話さず、静かに立っている。その横顔は、美しかった。けれど、冷たかった。
「……もう一度」
小さく呟く。友人が首を傾げる。
「何かしら?」
エレノアは微笑んだ。
「……何でもないわ」
そして、心の中で決めた。もう一度、話してみよう。きっと、最初は緊張していただけ。きっと、まだ自分のことを知らないだけ。きっと、時間をかければ。あの冷たい瞳も、自分に微笑みかけるはずだ。その考えが、彼女の胸に小さな希望を灯した。だが、それは希望ではなかった。
自分が特別ではないという現実を、受け入れられない心が生み出した、幻想なだけだ。
九 誰もいない廊下
舞踏会の終盤。公爵は、広間を離れていた。
国王への挨拶。
寄付金の手続き。
必要な公務がすべて終わった。
あとは帰宅するだけだった。
「……ようやく終わった」
小さく呟く。人のいない廊下を歩く。窓の外には、夜の庭園が広がっている。月明かりが、大理石の床を照らしていた。静かだった。ようやく、静かになった。公爵は足を止めた。窓辺に立ち、夜空を見上げる。星が瞬いている。遠くで、風が木々を揺らす音がした。
公爵は、その静寂を好んでいた。
誰にも話しかけられない。誰にも期待されない。誰にも何も求められない。ただ、自分の時間が流れている。
そのとき。
「……ヴェルシュタイン公爵」
背後から声がした。公爵は目を閉じた。
ほんの一瞬。
それから、振り返る。そこに立っていたのは、リオネルだった。
姉と同じ綺麗な赤銅色の髪。琥珀色の瞳。柔らかな微笑み。
「……リオネル殿下」
公爵は形式どおり一礼した。
「何かご用でしょうか」
リオネルは、少しだけ距離を置いて立ち止まった。
「いえ。たまたま、お見かけしたものですから」
「そうですか」
「……お帰りになるところですか?」
「はい」
「では、お引き止めしません」
リオネルは微笑んだ。
「どうぞ、お気をつけて」
公爵は一瞬、彼を見た。それから、軽く一礼した。
「ありがとうございます」
そして、歩き出した。リオネルは追いかけなかった。声もかけなかった。ただ、その背中を見送った。
銀白色の髪が、月明かりに照らされている。やがて、公爵の姿は廊下の向こうへ消えた。
リオネルは、小さく息を吐いた。
「……やっぱり」
呟く。
「……あの人には、こうするのが一番なんだ」
彼は微笑んだ。追いかけない。要求しない。好意を押しつけない。ただ、相手の望みを尊重する。それが、正しい接し方だ。そう思った。
しかし。
彼は、まだ気づいていなかった。自分が、あの公爵の反応を観察していたことに。
どうすれば、警戒されないのか。
どうすれば、拒絶されないのか。
どうすれば、他の者たちとは違う存在になれるのか。
その答えを探していたことに。
相手の自由を尊重する行為が、相手に近づくための手段になった瞬間である。それは、もはや純粋な尊重ではなくなる。リオネルは、まだその境界を越えていない。だが、確実に一線を越える存在になっていた。
十 王冠の下の亀裂
王宮の最上階。レオンハルトは、夜の庭園を見下ろしていた。舞踏会は終わった。公爵は帰った。また、何も得られなかった。
「……なぜだ」
小さく呟く。なぜ、あの人間は自分を見ない。なぜ、何も求めない。なぜ、誰にも関心を示さない。
レオンハルトは、窓ガラスに映る自分の姿を見た。
輝くプラチナブロンズの髪。
燃えるような深紅の瞳。
王家の紋章。
次期国王。
誰もが羨む地位。誰もが従う権力。
それなのに。あの公爵の前では、何の意味も持たない。
「……ふざけるな」
拳が、窓枠を叩いた。鈍い音が響く。レオンハルトは、ゆっくりと息を吐いた。怒っている。それは、分かっていた。しかし、その怒りの奥にあるものが、何なのか。
彼には、まだ分からなかった。
拒絶された屈辱。手に入らない苛立ち。そして誰にも関心を向けないあの人間が、もし自分だけを見つめたら。そんな想像をした瞬間。
胸の奥に、熱が走った。
「……そうか」
レオンハルトは、ゆっくりと笑った。
「……そういうことか」
彼は、ようやく一つの答えに辿り着いた。
自分は、あの公爵を欲している。ただ、美しいからではない。ただ、優秀だからでもない。ただ、王家に相応しいからでもない。誰にも従わないあの人間を。誰にも心を許さないあの人間を。独占したいのだ。そして、公爵の心に入りたいのだ。自分だけが公爵の特別を手に入れたいと。
その願望が、胸の奥で形を持った。
「……必ず」
レオンハルトは、窓の外を見つめた。
「……必ず、私のものにしてやる」
その声は、静かだった。だが、そこには確かな決意があった。
愛情と呼ぶには、あまりにも歪んだもの。それでも、彼はそれを愛だと信じ始めていた。
十一 神の名を呼ぶ者
同じ夜。
王宮地下の禁書庫。カイは、古い魔術書を開いていた。
黄ばんだ羊皮紙。かすれた文字。三百年前に封印された、神々の記録。
その中に、一つの名前があった。
『ノクティス』
忘却と静寂の神。三百年前、王家によって殺されたとされる神。
カイは、ゆっくりと文字をなぞった。
「……なるほど」
その記録には、奇妙な一節があった。
『神の祝福を受けぬ魂は、神の法則に縛られぬ』
カイは目を細めた。
「……神の法則に、縛られない?」
ヴェルシュタイン公爵。
祝福を持たない魂。魔術によって観測できない存在。その特徴が、古い記録と重なる。
「……まさか」
カイは、ページをめくった。そこには、さらに一つの記述があった。
『忘却の神は、己を忘れぬ魂を求める』
カイは、息を止めた。
「……求める?」
神が、人間を?それも、神の祝福を受けない魂を?
彼は、しばらく文字を見つめた。やがて、ゆっくりと笑った。
「……これは、本当に面白い」
紫の瞳が、暗闇の中で輝く。
「……君は、いったい何者なんだろうね」
その声には、純粋な好奇心があった。だが、その好奇心は、すでに危険な方向へ向かい始めていた。
カイは、机の上の魔晶石を手に取った。
「……一度、直接確かめてみたいな」
そう呟いた瞬間。
魔晶石の内部に、淡い青い光が灯った。カイは目を見開いた。
「……?」
青い光。
それは、彼の魔術に反応したものではなかった。魔晶石の内部から、何かがこちらを見ている。
そんな感覚。
カイは、思わず手を離した。魔晶石が机の上に転がる。
そして。
誰にも聞こえない声が、静かに囁いた。
『……触れるな』
カイは息を呑んだ。
「……今のは」
青い光が消える。
禁書庫には、再び静寂が戻った。カイは、しばらく動けなかった。やがて、震える指先で魔晶石を拾い上げた。
「……神?」
その言葉は、暗闇に吸い込まれた。
十二 誰のものにもならない
ヴェルシュタイン公爵邸。深夜。
公爵は、寝室の窓を閉めた。遠くで、雨が降り始めている。静かな夜だった。舞踏会は終わった。王太子の誘いも断った。侯爵令嬢の茶会も断った。女王の贈り物も返した。聖騎士団長の面会も断った。宮廷魔術師の検査も断った。そして、王弟とは、短い挨拶を交わしただけだった。
それだけだ。
公爵にとって、今日という日は、特別なものではなかった。ただ、予定より少し長く拘束された一日。それ以上でも、それ以下でもない。
「……疲れたな」
小さく呟く。
衣装を脱ぎ、寝台に横たわる。目を閉じると静寂が、部屋を満たした。
そのとき。
窓辺の燭台が、かすかに青く揺れた。炎は、静かに揺れている。
そして。
誰にも聞こえない声が、囁いた。
『……お前は』
『……誰も、望まぬのか』
返事はなかった。公爵は、すでに眠りについていた。青い炎が、ゆっくりと消えゆく。暗闇の中で、神の声だけが残った。
『……ならば』
『……なぜ、私は』
『……お前を求めようとしているのだろう』
その問いに答える者は、いなかった。
ただ、静かな夜が続いていた。
そして。
王都のあちこちで。六人の人間が、それぞれ異なる思いを抱いていた。
王太子は、所有を望んだ。
聖騎士は、救済を望んだ。
女王は、崇拝を望んだ。
魔術師は、理解を望んだ。
侯爵令嬢は、承認を望んだ。
王弟は、特別な存在になることを望んだ。
しかし。
そのすべての中心にいる公爵は誰のことも、望んでいなかった。そして、それこそが六人の破滅を招く、最も残酷な事実だった。
第四章 了




