第三章 女王の贈り物
愛とは、与えることだという。では、与えたものを受け取らなかった相手に、何を求めるというのだろう。
感謝か。
服従か。
それとも、自分だけを見つめる瞳か。
ヴァレンティス王国の女王は、生まれてこの方、欲しいものを手に入れられなかったことがほとんどなかった。だからこそ、彼女はまだ知らなかった。どれほど美しい贈り物にも、受け取らないという選択肢が存在することを。
一 百二十七個の宝石
「……何だ、これは」
ヴェルシュタイン公爵は、玄関広間に積み上げられた木箱を見下ろした。早朝から降り続いていた雨は、昼過ぎになってようやく止んでいた。窓から差し込む淡い日差しが、大理石の床を照らしている。その中央に、大小合わせて二十三個の木箱が並べられていた。いずれも上質な黒檀で作られ、蓋には金色の紋章が刻まれている。
薔薇を咥えた双頭の鷲。
ヴァレンティス王家の紋章だった。
「ヴァレンティス王国より、贈答品が届いております」
アルフレッドが答えた。
「誰宛てだ」
「閣下宛てでございます」
「差出人は」
「セラフィーナ女王陛下です」
公爵は箱を見た。それから、アルフレッドを見た。
「返してくれ」
「……まだ中身をご覧になっておりませんが」
「必要ない」
「ですが、外交上の贈答品ですので、一度確認した方がよろしいかと」
公爵は数秒考えた。
「そうか」
そして、最も近くにあった箱を指さした。
「開けてくれ」
「かしこまりました」
使用人が蓋を開く。内部には、深紅の天鵞絨が敷き詰められていた。その上に置かれていたのは、大粒のエメラルドを中心に、百を超える宝石をあしらった首飾りだった。精巧な金細工。花弁を模した銀の装飾。一目で、王家の宝物庫に収められていても不思議ではない品だと分かる。
「……これは」
アルフレッドが息を呑んだ。
「ヴァレンティス王家に伝わる『暁の涙』では……」
「そうか」
公爵は首飾りを一瞥した。
「次は」
二つ目の箱には、銀糸で織られた最高級の絹。
三つ目には、東方諸国から取り寄せた香料。
四つ目には、古代王朝の金貨。
五つ目には、魔力を帯びた青い宝石。
六つ目には、細密な彫刻を施した黄金の杯。
そして、残る箱にも、同様に高価な品々が収められていた。
「……総額にして、いったいいくらになるのでしょう」
アルフレッドが呟いた。公爵は答えなかった。最後の箱が開かれる。そこには、銀白色の薔薇が一輪、透明な水晶の器に収められていた。花弁は薄く透き通り、中心から淡い光を放っている。
「これは……月白の薔薇」
アルフレッドの表情が変わった。
「ヴァレンティス王国の王立庭園にのみ咲く、極めて希少な魔法植物です」
「そうか」
「通常、国外への持ち出しは禁じられているはずですが……」
公爵は花を見つめた。
銀白色の花弁。
淡い光。
確かに、美しい植物だった。だが、それだけだ。
「アルフレッド」
「はい」
「これらをすべて返送してくれ」
「……すべて、でございますか」
「そうだ」
「女王陛下からの贈り物を、ですか?」
「そう言った」
アルフレッドは困り果てたように眉を下げた。
「閣下。恐れながら、これほどの贈答品をすべて返却するとなりますと……」
「外交問題になるか?」
「可能性はございます」
「では、正式な返書を添えよう」
公爵は淡々と言った。
「贈答の意図が不明であり、個人として受領する理由がない。国家間の正式な贈答であれば、外務府を通してほしい、と」
「……承知いたしました」
「それから」
「はい」
「今後、このようなものを屋敷に運び込む前に確認してくれ」
「申し訳ございません」
「謝る必要はない。次から気をつければいい」
公爵は踵を返した。その背中を、アルフレッドが呼び止める。
「閣下」
「何だ」
「こちらに、女王陛下からの親書がございます」
公爵は足を止めた。
「……まだあるのか」
アルフレッドは聞こえなかったことにした。
二 女王の招待
親書には、薔薇の香りが染み込ませてあった。公爵は封を切り、内容を確認した。流麗な筆跡で、次のように記されている。
『親愛なるヴェルシュタイン公爵へ。
先日の夜会では、実に楽しい時間を過ごさせていただきました。
あなたの率直な言葉と、何ものにも媚びない姿勢は、私にとって大変新鮮なものでした。
つきましては、来月開催されるヴァレンティス王国の建国祭に、ぜひご臨席いただきたく存じます。
滞在中は王宮の客室をご用意し、あらゆる便宜を図ることをお約束いたします。
あなたと再びお会いできる日を、心より楽しみにしております。
セラフィーナ・ヴァレンティス』
公爵は読み終えると、手紙を机に置いた。
「アルフレッド」
「はい」
「断ってくれ」
「……かしこまりました」
「贈答品の返却と合わせて、正式に返書を送っておいてほしい」
「承知いたしました」
「それから、外務府にも写しを送ってくれ」
アルフレッドは顔を上げた。
「外務府に、でございますか」
「女王が公爵家に直接接触している。後で問題にならないよう記録を残しておきたい」
「……なるほど」
アルフレッドは深く一礼した。
「直ちに手配いたします」
公爵は再び書類に目を落とした。その表情には、何の変化もなかった。遠い異国の女王が、自分のためにどれほどの財宝を集めたのか。どのような期待を抱いているのか。そんなことは、どうでもよかった。
ただ。
「……香りが強いな」
公爵は親書を見た。薔薇の香水が、書斎にまで漂っている。
「アルフレッド」
「はい」
「その手紙も持っていってくれ」
「……はい」
「窓を開けてほしい」
公爵にとって、女王の親書がもたらした最も大きな問題は、部屋に残った香水の匂いだった。
三 女王の微笑
「……すべて、返却された?」
ヴァレンティス王国の使節館。豪奢な応接室に、女王セラフィーナの声が響いた。赤銅色の髪が、肩から滑り落ちる。翡翠色の瞳が、机の上の報告書を見つめていた。
「はい、陛下」
使節長が深々と頭を下げる。
「贈答品二十三箱、すべて返却されました」
「……一つも?」
「はい」
「月白の薔薇も?」
「はい」
セラフィーナはしばらく黙っていた。やがて、ゆっくりと扇を開いた。
「……ふふ」
使節長の肩が強張る。
「ふふふ……」
女王は笑った。
「本当に、面白い人」
その声には、怒りがなかった。少なくとも、表面上は。
「それで、建国祭の招待は?」
「……辞退されました」
「理由は?」
「領地経営上の都合により、長期の国外滞在は難しいとのことでございます」
セラフィーナは微笑んだ。
「そう」
使節長は恐る恐る続けた。
「また、今後の贈答につきましては、エルディア王国外務府を通じて正式に行うように、とのご要請が……」
ぱちん。
扇が閉じられた。使節長は口を噤んだ。セラフィーナは窓の外を眺めた。王都アステリアの街並み。遠くには、エルディア王宮の尖塔が見える。
「……私の贈り物を、すべて返したのね」
「はい」
「私がどれほどの時間をかけて選んだか、知らないのでしょうね」
使節長は答えなかった。
「暁の涙は、王家の宝物庫から特別に持ち出したものよ」
「存じております」
「月白の薔薇は、十年に一度しか咲かない」
「はい」
「それを、すべて」
女王はゆっくりと振り返った。
「不要だと言ったのね」
「……はい」
沈黙が落ちた。やがて、セラフィーナは再び笑った。
「……素敵」
使節長は、思わず顔を上げた。
「陛下?」
「素敵じゃない」
女王は楽しそうに言った。
「私の財宝に、まるで興味を示さないなんて」
彼女は立ち上がった。深紅のドレスが、床の上を滑る。
「王冠も、宝石も、名誉も。人は皆、それらを欲しがるわ」
窓辺へ歩み寄る。
「私に近づく者は、必ず何かを求める」
財産。
地位。
権力。
庇護。
愛情。
あるいは、女王という存在そのもの。
「でも、あの人は違う」
セラフィーナは目を細めた。
「何も求めない」
その声には、うっとりとした響きがあった。
「……なんて、美しいのかしら」
使節長は何も言わなかった。女王が何を考えているのか、理解できなかったからだ。拒絶されたのだ。それも、明確に。贈答品も、招待も、すべて。普通ならば、これ以上の接触は控えるべきだろう。
しかし、セラフィーナは違った。
彼女にとって、拒絶は価値を下げるものではなかった。むしろ、価値を高めるものだった。
誰もが求める財宝を拒む人間。
誰もが憧れる王権を欲しがらない人間。
誰にも媚びない人間。
その存在は、女王の目に、まるで神聖なもののように映っていた。
「……欲しいわ」
ぽつりと呟く。使節長は息を呑んだ。
「陛下……」
「何も望まないあの人が、私だけを望むようになったら」
セラフィーナは微笑んだ。
「それは、どれほど素晴らしいことでしょう」
彼女はまだ気づいていなかった。何も求めないことを美しいと称賛しながら、その人間に自分だけを求めるよう望んでいる。
その矛盾に。
四 理解者の仮面
「姉上」
応接室の扉が開いた。入ってきたのは、セラフィーナと同じく赤銅色の髪を持つ青年だった。
琥珀色の瞳。柔らかな微笑み。
ヴァレンティス王国の王弟、リオネル。
「ずいぶん楽しそうですね」
セラフィーナは振り返った。
「あら、リオネル」
「贈り物を返されたと聞きましたが」
「ええ」
「それで、そんなに嬉しそうなのですか?」
「だって、面白いでしょう?」
リオネルは小さく笑った。
「……姉上らしい」
彼は机の上の返書に視線を落とした。整った筆跡。無駄のない文章。礼節を守りながらも、受領と招待を明確に拒む内容。リオネルはそれを読み、わずかに目を細めた。
「……なるほど」
「何が?」
「この方は、姉上のことを嫌っているわけではありませんね」
セラフィーナが顔を上げる。
「そう思う?」
「ええ」
リオネルは微笑んだ。
「嫌悪しているなら、もっと感情的な文章になるでしょう」
「では?」
「単純に、関心がないのだと思います」
セラフィーナは一瞬黙った。そして、笑った。
「……それがいいのよ」
「そうですか」
「あなたには分からないでしょうね」
リオネルは何も答えなかった。ただ、返書をもう一度見た。
『今後、私的な贈答および招待につきましては、ご遠慮申し上げます』
簡潔だった。明確だった。そして、どこにも含みがなかった。リオネルは、その一文をしばらく見つめた。
「……姉上」
「何?」
「これ以上、贈り物を送るのはおやめになった方がよろしいかと」
セラフィーナの笑みが薄れる。
「なぜ?」
「相手が望んでいませんから」
「望んでいなくても、いつか気に入るものが見つかるかもしれないでしょう?」
「それは、姉上の希望です」
リオネルは穏やかに言った。
「公爵の希望ではありません」
セラフィーナは弟を見つめた。
「……あなた、随分とあの人の肩を持つのね」
「そうでしょうか」
「ええ」
リオネルは微笑んだ。
「私はただ、相手の意思を尊重すべきだと思っているだけですよ」
それは、正しい言葉だった。少なくとも、現段階では。
「……つまらない子」
セラフィーナは扇を開いた。
「あなたは昔から、欲しいものに対して慎重すぎるわ」
「姉上が性急すぎるのです」
「欲しいものは、手に入れなければ意味がないでしょう?」
リオネルは少し考えた。そして、静かに答えた。
「……そうとも限りませんよ」
セラフィーナは興味を失ったように窓の外へ視線を戻した。リオネルは一礼し、部屋を後にした。
彼はしばらく、閉ざされた扉の前に立っていた。やがて、懐から小さな手帳を取り出した。
そこには、エルディア王国の有力貴族に関する覚書が記されている。
ヴェルシュタイン公爵。
その名前の横に、リオネルは短い文章を書き加えた。
『私的接触を嫌う。贈答品を受け取らない。明確な拒絶を行う』
筆を止め、少し考える。
さらに一行。
『強制を嫌う可能性が高い』
リオネルは手帳を閉じた。
「……なるほどね」
小さく呟く。
「姉上とは、やり方を変えた方がよさそうだ」
その声を聞く者は、誰もいなかった。
五 王太子の不機嫌
「ヴァレンティス女王が、ヴェルシュタイン公爵に贈答品を?」
レオンハルトは、報告書から顔を上げた。
「はい、殿下」
侍従が答える。
「高価な宝石や魔法植物など、二十三箱に及ぶ贈答品が届けられたとのことです」
「……二十三箱?」
「はい」
レオンハルトは眉を寄せた。
「何のために」
「詳細は不明ですが、女王陛下から公爵閣下への個人的な贈り物と見られます」
「……個人的な?」
声が低くなる。侍従は緊張した。
「はい」
レオンハルトは報告書を机に置いた。
セラフィーナ・ヴァレンティス。隣国の女王。
外交手腕に優れ、野心的で、欲しいものを手に入れるためには手段を選ばない人物。その女が、公爵に贈り物をした。しかも、二十三箱も。
「……受け取ったのか」
「いえ」
侍従は首を振った。
「すべて返却されたそうです」
レオンハルトは動きを止めた。
「……すべて?」
「はい」
「一つも?」
「はい」
沈黙。やがて、レオンハルトは小さく笑った。
「……そうか」
その声には、明らかな安堵があった。
「そうだろうな」
彼は椅子に深く腰を下ろした。
「あいつが、宝石ごときで動くはずがない」
侍従は黙っていた。
レオンハルトは、どこか満足げだった。自分の招待を拒んだ人間が、隣国の女王の贈り物も拒んだ。それは、奇妙な安心感をもたらした。自分だけが拒絶されたわけではない。誰に対しても同じなのだ。
ならば。
「……まだ、誰も特別ではない」
レオンハルトは呟いた。
その言葉に、侍従はわずかな違和感を覚えた。誰も特別ではない。それは、誰も選ばれていないということだ。しかし、王子はそれを、まだ自分にも機会があるという意味に受け取っていた。
「殿下」
侍従が慎重に口を開く。
「ヴェルシュタイン公爵閣下は、今後の私的な招待をすべて辞退されるご意向とのことで……」
「知っている」
「でしたら、これ以上は」
「女王に先を越されるわけにはいかない」
侍従は言葉を失った。レオンハルトは立ち上がった。
「外務府に連絡しろ」
「……何と?」
「ヴァレンティス王国からヴェルシュタイン公爵家への私的な接触について、詳細を報告させろ」
「ですが、殿下。それは……」
「外交上の問題だ」
レオンハルトは冷たく言った。
「隣国の女王が、我が国の五大公爵家に直接接触している。調査する理由としては十分だろう」
理屈は通っていた。少なくとも、表面上は。
だが、その根底にあるものが、国家の安全保障などではないことを、侍従は理解していた。
王太子は嫉妬している。しかも、相手は自分にも女王にも、まったく興味を示していないというのに。
「……かしこまりました」
侍従は頭を下げた。レオンハルトは窓の外を見つめた。
「……あいつは、誰のものにもならないつもりか」
誰に問いかけるでもなく、呟く。その声音には、かすかな苛立ちがあった。
「そんなことが、許されると思っているのか」
六 薔薇のない庭園
三日後。
ヴェルシュタイン公爵邸の庭園には、穏やかな午後の光が差し込んでいた。公爵は庭園の一角に置かれた椅子に腰を下ろし、古い歴史書を読んでいた。周囲には、白い花をつけた低木が植えられている。
薔薇はなかった。以前、庭師が華やかな薔薇園を造ることを提案したことがあった。
しかし、公爵は断った。
理由は単純だった。手入れに費用がかかるうえ、来客が増える可能性があったからだ。代わりに植えられたのは、北方の気候に適した丈夫な植物ばかりだった。
花の香りも控えめで、庭園は静かだった。公爵は、その場所を気に入っていた。
「閣下」
アルフレッドが近づいてくる。
「何だ」
「ヴァレンティス王国より、返書が届いております」
公爵はページをめくった。
「内容は」
「贈答品の返却を了承した旨と、今後の外交的な交流については外務府を通す、とのことでございます」
「そうか」
「また、女王陛下より、閣下のご意思を尊重するとのお言葉が……」
「ならば、問題ない」
公爵は本を閉じた。
「これで終わりだな」
「……おそらくは」
アルフレッドは、少しだけ不安そうだった。公爵はその表情に気づいたが、特に何も言わなかった。
「ほかには?」
「はい。もう一通、書簡が届いております」
「誰からだ」
「ヴァレンティス王国の王弟、リオネル殿下でございます」
公爵は、わずかに眉を寄せた。
「……姉弟で何をしているんだ」
アルフレッドは答えなかった。公爵は手を差し出した。
「見せてくれ」
差し出された封筒は、女王のものとは対照的だった。
装飾のない、簡素な白い封筒。香水も使われていない。封蝋には、王家の紋章ではなく、個人の印章が押されていた。公爵は封を切った。
『ヴェルシュタイン公爵閣下。
突然の書簡をお許しください。
先日は姉が過分な贈答品をお送りし、ご迷惑をおかけしました。
公爵閣下が私的な交流を望まれていないことは、十分に理解しております。
そのため、この書簡に対するご返答は不要です。
ただ、姉の行動によってご不快な思いをされたのであれば、王弟としてお詫び申し上げます。
今後、同様のことが起こらぬよう、私からも姉に進言いたします。
どうか、穏やかな日々をお過ごしください。
リオネル・ヴァレンティス』
公爵は読み終えた。そして、封筒に戻した。
「……そうか」
アルフレッドが尋ねる。
「ご返書はいかがなさいますか」
「不要と書いてある」
「……はい」
「ならば、返さなくていい」
「かしこまりました」
公爵は手紙をアルフレッドに渡した。
「保管しておいてくれ」
「承知いたしました」
それだけだった。
公爵は再び本を開いた。リオネルの手紙は、確かに他の者とは異なっていた。
返事を求めない。
面会を要求しない。
贈り物もない。
少なくとも、余計な手間を増やさなかった。だが、それによって公爵の中に特別な感情が生まれたわけではない。単に、処理する必要のない書簡だった。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
七 最初の勘違い
その夜。
ヴァレンティス王国の使節館。リオネルは、報告を受けていた。
「……返書は、ございませんでした」
使者が答える。
「そう」
リオネルは微笑んだ。
「それでいい」
「よろしいのですか?」
「うん」
彼は机の上の書類を閉じた。
「返事を求めていないからね」
使者は一礼した。
「では、今後のご連絡は……」
「しばらく控えるよ」
「承知いたしました」
使者が退室する。
リオネルは窓辺へ歩み寄った。王都の夜景が広がっている。遠くに見えるのは、ヴェルシュタイン公爵邸のある貴族街。彼は、先日の夜会を思い出した。
あのとき、公爵は姉の誘いを即座に断った。王族を相手にしているというのに、何の躊躇もなかった。その姿を見て、リオネルは少しだけ驚いた。
そして、興味を持った。
誰にも媚びない人間。
誰にも期待しない人間。
誰からも何も求めない人間。
姉は、そんな公爵を手に入れようとしている。レオンハルト王太子も、同じらしい。
だが。
「……二人とも、分かっていないんだよね」
リオネルは呟いた。
あの人は、追いかけられることを嫌う。好意を押しつけられることを嫌う。だからこそ、距離を置かなければならない。相手の意思を尊重しなければならない。
「……僕は、違う」
その言葉は、ひどく自然に口から出た。
リオネルは小さく笑った。
「僕なら、ちゃんと分かってあげられる」
彼は気づかなかった。その瞬間、自分もまた、姉や王太子と同じ場所に立っていたことに。相手を理解していると信じること。自分だけは違うと思うこと。
そして。
相手が何も求めていないという事実を、自分が特別になるための条件として利用し始めること。
それが、彼の執着の始まりだった。
八 王宮に咲く噂
王都の社交界では、ある噂が広まり始めていた。
『ヴェルシュタイン公爵が、王太子殿下の求婚を再び拒絶したらしい』
『それだけではありませんわ。ヴァレンティス女王陛下からの贈り物まで返却なさったとか』
『まあ、なんて傲慢な』
『でも、あの方なら不思議ではありませんわね』
『王太子殿下と女王陛下が、同じ方にご執心だなんて……』
噂は、日を追うごとに大きくなった。やがて、そこに新たな名前が加わる。
『聖騎士団長ルシアン卿も、公爵閣下を気にかけていらっしゃるそうよ』
『宮廷魔術師カイ様も、面会を申し込まれたとか』
『いったい、あの方には何があるのかしら』
そして。
その噂を、誰よりも興味深く聞いていた女性がいた。
淡い桃色のドレス。
柔らかな金髪。
宝石のような緑の瞳。
ローゼンベルク侯爵家の令嬢、エレノア。
彼女は、友人たちに囲まれながら、静かに紅茶を口にしていた。
「……ヴェルシュタイン公爵?」
小さく呟く。
「ええ、エレノア様」
隣に座る令嬢が答えた。
「最近、社交界ではその話題ばかりですの」
「そうなの」
エレノアは微笑んだ。
「王太子殿下も、女王陛下も、あの方に夢中だとか」
「まあ……」
エレノアは、ゆっくりとカップを置いた。その笑顔は、完璧だった。誰もが愛する、社交界の花。誰もが褒め称える、美しい侯爵令嬢。
それが、エレノア・ローゼンベルクだった。
幼い頃から、彼女は愛されてきた。
美しいと言われた。
可愛らしいと言われた。
賢いと言われた。
優しいと言われた。
誰もが彼女に微笑み、彼女の言葉に耳を傾けた。
だからこそ。
「……そんなに、素敵な方なのかしら」
その声には、かすかな棘があった。しかし友人たちはそれに気づかなかった。
「もちろんですわ! それはもう、絵画から抜け出したような美しさで……」
「そう」
エレノアは微笑んだ。
「一度、お会いしてみたいわ」
その言葉に、悪意はなかった。少なくとも、まだ。
ただ、少しだけ。自分以外の誰かが、これほど注目されていることが、気になった。
それだけだった。
九 静かな拒絶
ヴェルシュタイン公爵邸。
夜。
公爵は、いつもの書斎で本を読んでいた。窓の外には、月が浮かんでいる。
静かな夜だった。アルフレッドが、控えめに扉を叩く。
「閣下」
「何だ」
「明日のご予定について、ご確認を」
「頼む」
「午前九時より領地管理官との会議。十一時より財務報告。午後二時から、王立図書館への資料返却がございます」
「分かった」
「それから、午後四時に……」
アルフレッドは言葉を止めた。公爵が顔を上げる。
「何だ」
「……ローゼンベルク侯爵家より、お茶会の招待状が届いております」
「断ってくれ」
即答だった。アルフレッドは、もはや驚かなかった。
「承知いたしました」
「ほかには?」
「いえ。以上でございます」
「そうか」
公爵は本へ視線を戻した。アルフレッドが退室する。
静寂が戻る。
公爵はページをめくった。その指先が、ふと止まった。机の上に置かれた燭台。炎が、かすかに青く揺れている。
先日と同じだった。
「……またか」
公爵は燭台を見つめた。
風はない。
窓も閉まっている。
それなのに、炎は青く揺れていた。しばらく観察する。やがて、炎は元の色に戻った。
公爵は小さく息を吐いた。
「……魔晶石の不具合か」
明日、使用人に確認させよう。そう考え、本を閉じ寝室へと向かう。
公爵が居なくなり誰もいなくなった書斎。
その暗闇の中で。青い炎が、再び灯った。今度は、燭台だけではなかった。暖炉の灰の中。窓ガラスの表面。古い歴史書の背表紙。部屋のあちこちに、淡い青い光が浮かび上がる。
やがて、それらは一つの形を描いた。
円。
その内側に刻まれた、古代文字。三百年前に失われた、神の名。ノクティス。忘却と静寂の神。その紋章が、書斎の床に一瞬だけ浮かび上がった。
そして。
誰にも聞こえない声が、静かに囁いた。
『……愛されることを拒む者よ』
『……お前も、同じなのか』
『……ならば』
『……私を、忘れるな』
青い光が消える。書斎には、再び静寂が戻った。その頃、公爵はすでに眠りについていた。神の声など、聞いていない。神の存在など、知る由もない。
そして、もし知ったとしても。おそらく、こう答えただろう。
「……知らない神にまで、関わりたくない」
十 女王の決断
翌朝。
ヴァレンティス王国使節館。
セラフィーナは、エルディア王国の外務府から届いた書簡を読んでいた。そこには、次月開催される両国間の外交協議について記されている。
協議の議題は、北方交易路の整備。そして、その交易路の一部は、ヴェルシュタイン公爵領を通過する。セラフィーナは、ゆっくりと微笑んだ。
「……なるほど」
彼女は書簡を机に置いた。
「使節長を呼んでちょうだい」
数分後。
使節長が入室する。
「お呼びでしょうか、陛下」
「次月の外交協議について、少し変更したいことがあるの」
「変更、でございますか」
「ええ」
セラフィーナは扇を開いた。
「北方交易路の整備について、ヴェルシュタイン公爵家の直接参加を求めたいわ」
使節長は目を見開いた。
「……公爵閣下の、直接参加を?」
「そう」
「ですが、通常であれば領地管理官や代理人が出席することも可能で……」
「今回は、領主本人の承認が必要な議題を加えればいいでしょう」
使節長は言葉を失った。女王は微笑んでいる。美しく、優雅に。
「公務なら、あの人も断れないでしょう?」
「……陛下」
「何?」
「それは、少々……」
「問題があるかしら」
使節長は口を閉じた。
セラフィーナは窓の外を眺めた。遠くに、王都の尖塔が見える。
「贈り物はいらない」
静かに呟く。
「招待もいらない」
扇を閉じる。
「それなら、仕事で会えばいいのよ」
その声には、何の迷いもなかった。彼女は、自分が相手の意思を尊重しているつもりだった。
私的な招待はやめた。
贈り物も送らない。
ただ、公務として会うだけ。それなら、何も問題はない。そう信じていた。だが。相手が望まない接触を実現するために、国家の制度を利用すること。それが、どれほど危険な行為なのか。女王はまだ、理解していなかった。
その日の午後。
ヴェルシュタイン公爵邸に、一通の正式な公文書が届いた。エルディア王国外務府からの通知。
『北方交易路整備に関する両国外交協議への出席要請』
公爵は書類を読み終えた。そして、眉を寄せた。
「……なぜ、私が?」
アルフレッドが答える。
「ヴェルシュタイン領を通過する交易路について、領主ご本人の承認が必要とのことでございます」
「通常なら、代理人で十分だろう」
「はい。しかし今回は、ヴァレンティス王国側から、当主ご本人の出席を求める要請が……」
公爵は沈黙した。書類をもう一度確認する。
議題。
参加者。
協議日程。
そして、ヴァレンティス王国側の代表者。
『セラフィーナ・ヴァレンティス女王陛下』
公爵は、ゆっくりと書類を机に置いた。
「……アルフレッド」
「はい」
「外務府に確認してくれ」
「何をでしょう」
「当主本人の出席が必要とされる法的根拠だ」
アルフレッドは顔を上げた。
「……承知いたしました」
「必要なら出席する。だが、代理人で済むならそうする」
「はい」
「それから」
公爵は、窓の外を見た。
「今後、私的な接触を断った相手から公務上の要請が届いた場合、通常の手続きより慎重に確認してくれ」
「……かしこまりました」
公爵は書類を閉じた。表情には、何の変化もなかった。怒りも、困惑も、恐怖もない。
ただ。
「……本当に、面倒だな」
小さく呟いた。その言葉は、誰にも届かなかった。
そして。
遠く離れた王宮では、第一王子レオンハルトもまた、同じ外交協議の資料を手にしていた。
「……セラフィーナめ」
王子は低く呟く。女王の意図は、すぐに理解できた。公爵に会うためだ。公務を利用して、あの人間に近づこうとしている。
「……そういうことか」
レオンハルトは、ゆっくりと笑った。
「ならば、こちらにも考えがある」
彼は侍従を呼んだ。
「次月の外交協議について、王太子として私も出席する」
「……殿下?」
「何か問題が?」
「いえ、しかし通常は外務大臣が……」
「私が出席すると言っている」
侍従は頭を下げた。
「かしこまりました」
レオンハルトは書類を閉じた。その瞳には、冷たい光が宿っていた。
一方。
ヴァレンティス王国の使節館では、リオネルが姉の計画を知り、静かにため息をついていた。
「……本当に、懲りない人だな」
彼は机の上に置かれた外交協議の資料を見つめた。そして、ふと考えた。姉と王太子が同じ場所に集まる。その中心には、ヴェルシュタイン公爵がいる。おそらく、あの人は嫌がるだろう。
いや。
嫌がるというより、面倒だと思うはずだ。リオネルは微笑んだ。
「……ならば、僕が」
言いかけて、口を閉じる。しばらく沈黙した。それから、ゆっくりと続きを呟いた。
「……僕が、助けてあげればいい」
誰にも頼まれていないのに。誰にも必要とされていないのに。彼は、そう決めた。
そして、王宮の別の場所では。
聖騎士ルシアンが、公爵の魂に関する古い記録を読み続けていた。宮廷魔術師カイは、禁じられた古代魔術の文献を開いていた。
ローゼンベルク侯爵令嬢エレノアは、公爵が出席する可能性のある次の夜会を調べていた。
六人。
それぞれ異なる理由で、一人の人間を見つめていた。しかし、その中心にいる公爵は。今日も、誰のことも考えていなかった。ただ、静かな午後を過ごしたかった。それだけだった。
第三章 了




