第二章 拒絶された王太子
拒絶とは、本来、それ以上の接近を望まないという意思表示である。しかし、世の中には、それを理解しない人間がいる。自分の望みが叶わないことを、相手の気まぐれだと思う者。拒絶を、愛情を確かめるための試練だと思う者。
そして、他人の意思よりも、自分の欲望の方が尊重されるべきだと信じている者。レオンハルト・エルディアは、そのすべてに当てはまる男だった。ただし、本人にその自覚はない。彼は、自分を極めて理性的な人間だと信じていた。
一 七通目の招待状
「……またですか」
ヴェルシュタイン公爵邸の執務室に、アルフレッドの疲れ切った声が響いた。机の上には、深紅の封蝋が施された封筒が置かれている。王家の紋章。金糸で縁取られた上質な羊皮紙。
それは第一王子レオンハルトの直筆による招待状であった。
これで七通目だった。
最初は茶会。
次は昼食会。
その次は王立劇場への招待。
四通目は乗馬。
五通目は王宮図書館の特別閲覧。
六通目に至っては、何の名目もない私的な面会の申し入れだった。
そして今回。
「……王宮北棟に、新たな温室を造営したそうでございます」
公爵は書類をめくった。
「そうか」
「珍しい北方植物を集めたとか」
「そうか」
「ヴェルシュタイン領に自生する銀月草も移植されたとのことで……」
「アルフレッド」
「はい」
「断っておいてくれ」
「……承知いたしました」
執事は封筒を手に取った。だが、すぐには立ち去らなかった。
「閣下」
「何だ」
「恐れながら、殿下は相当にご執心のようです」
「何に」
「……閣下に、でございます」
公爵は筆を止めた。ゆっくりと顔を上げる。
「なぜ?」
あまりにも自然な問いだった。アルフレッドは、一瞬言葉に詰まった。
「それは……閣下にご興味をお持ちだからでは」
「興味を持つ理由が分からない」
「容姿やご身分、才覚など、理由はいくらでも考えられますが」
「それなら、私である必要はないだろう」
アルフレッドは黙った。確かに、そのとおりだった。王国には美しい貴族も、優秀な政治家も、裕福な公爵家も存在する。何度も招待を断る人間に執着する必要はない。
「……人の好意とは、必ずしも合理的なものではございません」
「非合理的であることは構わない」
公爵は淡々と言った。
「だが、それに私を巻き込まないでほしい」
「……はい」
「今後、王太子殿下から私的な招待が届いても、内容を報告する必要はない。正式な王命でない限り、辞退してくれ」
「かしこまりました」
公爵は再び書類に目を落とした。会話は終わりだった。アルフレッドは静かに退室する。廊下に出たところで、深いため息をついた。
七通。
七度の拒絶。
王太子殿下が、これほど明確に拒まれたことなど、おそらく生まれて初めてだろう。そして、アルフレッドは嫌な予感がしていた。あの王子が、このまま引き下がるとは思えなかった。
二 王太子の屈辱
「……七度目も断っただと?」
王宮東棟。王太子の私室に、低い声が響いた。
レオンハルトは机の前に立つ侍従を見下ろしていた。
「は、はい。ヴェルシュタイン公爵家より、丁重なお断りの返書が届いております」
「理由は」
「私的な招待には応じられない、とのことで……」
「それだけか」
「はい」
レオンハルトは沈黙した。侍従の額に汗が滲む。
「……ほかには」
「今後も同様の招待については辞退する、と」
ぱきり。
乾いた音がした。レオンハルトの手の中で、羽根ペンが折れていた。
「……そうか」
侍従は身を強張らせた。しかし、王子は怒鳴らなかった。むしろ、静かに笑った。
「随分と徹底しているな」
「殿下……」
「私の招待を七度も断る人間が、この国にいるとは」
レオンハルトは腰深く椅子に座る。机の上には、ヴェルシュタイン公爵家に関する調査資料が積まれている。
公爵の幼少期。
公爵位の継承。
領地経営。
過去の婚約の打診。
社交界での評判。
交友関係。
そのすべてに目を通した。だが、どこにも答えはなかった。何を好むのか。誰を信頼しているのか。どのような人間に心を許すのか。それらを示す記録が、ないのである。まるで元々、そのような感情が欠如していたかのように。
「……誰とも関わらずに生きてきたようだな」
レオンハルトは呟いた。侍従は慎重に口を開いた。
「公爵閣下は、以前より社交を好まれないことで知られております」
「知っている」
「でしたら、あまり無理にお誘いなさらない方が……」
「何だ?」
侍従は口を閉じた。レオンハルトはゆっくりと顔を上げる。
「私が諦めるべきだと言いたいのか」
「い、いえ。そのようなことは」
「ならば余計なことを言うな」
「申し訳ございません」
沈黙が落ちた。
レオンハルトは窓の外へ視線を向けた。三年前、あの公爵に婚約を申し込んだとき、レオンハルトは断られる可能性など考えていなかった。
王家の第一王子。
将来の国王。
容姿にも、能力にも、血統にも恵まれた自分。
誰もが羨む地位を持つ男からの求婚だ。受け入れられて当然だった。それなのに。
『不要です』
たった一言。あの返書を読んだ瞬間の感覚を、今でも覚えている。
怒り。
困惑。
屈辱。
そして、奇妙な高揚。
初めてだった。自分の望みが、これほど簡単に退けられたのは。
「……会えば分かる」
レオンハルトは呟いた。
「直接話せば、あいつも理解するはずだ」
何を理解するのか。なぜ、理解しなければならないのか。その問いを、彼は自分自身に向けなかった。
「馬車を用意しろ」
侍従が顔を上げる。
「どちらへ?」
「ヴェルシュタイン公爵邸だ」
「……殿下、事前のご連絡は」
「必要ない」
レオンハルトは立ち上がった。
「私が直接出向く」
三 招かれざる客
午後三時。
ヴェルシュタイン公爵邸。公爵は執務室で、北方領の税収報告書を確認していた。
「閣下」
扉の向こうから、アルフレッドの声がした。
「何だ」
「……王太子殿下がお見えです」
筆が止まった。公爵は顔を上げた。
「誰が?」
「レオンハルト殿下でございます」
「なぜ」
「突然のご訪問で……」
「約束はしていない」
「はい」
「ならば、帰っていただけ」
「それが……」
アルフレッドの声が、わずかに震えた。
「すでに応接室へお通しすることになっておりまして」
公爵は数秒、沈黙した。
「誰の判断で?」
「……殿下が、直接お入りになられました」
「そうか」
公爵は筆を置いた。そして、静かに立ち上がった。
「分かった」
アルフレッドは安堵した。しかし、次の言葉でその安堵は消えた。
「帰っていただこう」
応接室の扉が開く。
レオンハルトは、窓際の椅子に腰を下ろしていた。テーブルには、まだ手をつけていない紅茶が置かれている。公爵が入室すると、王子は満足げに微笑んだ。
「ようやく会えたな」
「殿下」
公爵は扉の前で立ち止まった。
「本日は、どのようなご用件でしょうか」
「随分と他人行儀だな」
「ご用件をお伺いしています」
レオンハルトは小さく笑った。
「少し話がしたかっただけだ」
「書簡で済む内容でしょうか」
「直接話したいと言っている」
「私は望んでいません」
沈黙。
レオンハルトの笑みが、わずかに薄れた。
「……お前は、いつもそうだな」
「何がでしょう」
「人の好意を、まるで厄介事のように扱う」
「実際、厄介ですので」
レオンハルトは目を細めた。
「……私が、厄介だと?」
「事前の約束なく訪問され、私の執務時間を妨げておられます」
「私は王太子だぞ」
「存じております」
「私が自ら足を運んだのだ」
「それは殿下のご判断です」
公爵の声には、怒りも恐怖もなかった。ただ、事実を述べているだけだった。レオンハルトは立ち上がった。長身の王子が近づく。公爵は動かなかった。
「……お前は、私が怖くないのか」
「特に」
「私の一言で、お前の立場がどうなるか分かっているのか」
「分かっています」
「ならば」
「殿下」
公爵は静かに遮った。
「私を脅迫するためにいらしたのですか」
レオンハルトの表情が凍りついた。
「……何?」
「王太子としての権限を利用し、私に私的な面会を強要されるのであれば、その旨を正式に記録いたします」
「お前……」
「王家と公爵家の関係に関わる問題ですので、陛下への報告も必要でしょう」
レオンハルトは言葉を失った。脅しが通じない。それどころか、こちらの発言を政治的な問題として処理しようとしている。
公爵は続けた。
「私的なご用件でしたら、お帰りください」
「……本気で言っているのか」
「はい」
「私が、ここまでしているのに?」
公爵は一瞬、眉を寄せた。
「何を、ですか」
レオンハルトは口を開いた。しかし、言葉が出なかった。
何を。
自分は、何をした?
招待状を送った。
何度も誘った。
直接会いに来た。
それだけだ。
だが、彼にとっては、それらすべてが特別な行為だった。王太子である自分が、これほど一人の人間に時間を割いている。それだけで、相手は感激すべきではないのか。
「……私は、お前に会いたかった」
ようやく出た言葉は、思いのほか静かだった。
公爵は答えた。
「私は、殿下にお会いしたくありませんでした」
あまりにも、明確な拒絶だった。レオンハルトの胸の奥で、何かが軋んだ。
「……そこまで言うか」
「誤解を招かないように申し上げています」
「私の気持ちは、どうでもいいのか」
「はい」
即答だった。
レオンハルトは息を呑んだ。公爵は淡々と続ける。
「殿下が私をどう思われるかは、殿下の自由です。しかし、それによって私の行動を制限することはできません」
「……」
「私は、殿下との私的な関係を望んでいません」
王子の顔から、完全に笑みが消えた。
「今後も、同様です」
沈黙。
時計の針が進む音だけが、部屋に響いた。やがて、レオンハルトは低く呟いた。
「……後悔するぞ」
公爵は表情を変えなかった。
「そうですか」
その反応が、王子の神経を逆撫でした。
「お前は、本当に……!」
「アルフレッド」
公爵は扉の方へ声をかけた。
「殿下をお見送りしてくれ」
扉の外で待機していた執事が、青ざめた顔で入室する。
「か、かしこまりました」
レオンハルトは公爵を睨んだ。しかし、公爵はすでに視線を外していた。その無関心が、何よりも腹立たしかった。
「……いいだろう」
レオンハルトは低く笑った。
「今日のところは帰ってやる」
公爵は一礼した。
「ご理解いただき、ありがとうございます」
その丁寧な言葉が、まるで皮肉のように響いた。
四 神の祝福を持たぬ魂
同じ日の夕刻。
王都中央にそびえる白き大聖堂。聖騎士団長ルシアン・アストレアは、薄暗い書庫で古い記録を調べていた。机の上には、数十冊の洗礼記録が積まれている。
その中の一冊。
二十四年前の、貴族子弟の洗礼記録。ルシアンは、ある名前に指を止めた。
『ヴェルシュタイン公爵家、嫡子』
その下に、神官の筆跡で記された文章がある。
『祝福、確認されず』
『神聖魔力への反応、なし』
『魂の波長、測定不能』
ルシアンは眉を寄せた。
「……測定不能?」
通常、神々の祝福を受けない平民であっても、魂の波長そのものは観測できる。しかし、この記録では、魂の存在を示す反応さえ確認されていない。
「おかしい……」
ルシアンは別の資料を開いた。
十二歳時の再検査。
十六歳時の特別検査。
十八歳、公爵位継承時の確認記録。
すべて同じ結果だった。
『測定不能』
ルシアンは、先日の夜会を思い出した。
冷たい灰銀色の瞳。
感情の乏しい表情。
誰にも頼ろうとしない態度。
あの人は、神々の祝福を受けていない。だから、あれほど孤独なのだろうか。神の愛を知らずに育ったから、人の愛も受け入れられないのではないか。そんな考えが、胸をよぎった。
「……なんと、おいたわしい」
ルシアンは記録を閉じた。彼は気づいていなかった。自分が今、何の根拠もなく、公爵の人格を神の祝福の有無に結びつけたことに。そして、本人が一度も救いを求めていないという事実を。
「私が、何とかしなければ」
その声は、祈りにも似ていた。
「何とかする?」
背後から、軽い声がした。
ルシアンが振り返る。
書庫の入口に、一人の青年が立っていた。
灰色の無造作な髪。
紫水晶のような瞳。
黒と濃紺の魔術師礼装。
宮廷魔術師、カイ・アルヴェイン。
「……カイ殿」
「こんなところで何をしているのかと思えば」
カイは机の上の記録を覗き込んだ。
「ヴェルシュタイン公爵?」
ルシアンは慌てて本を閉じた。
「これは、聖教会の内部資料です」
「見れば分かるよ」
カイは笑った。
「それより、面白いものを調べているね」
「面白い、とは?」
「神の祝福を受けない公爵」
カイの紫の瞳が、愉快そうに細められる。
「僕も、前から気になっていたんだ」
「……公爵閣下を研究対象のように扱うのは、お控えください」
「君は何のために調べているの?」
ルシアンは口を閉じた。カイは微笑んだ。
「救ってあげたい?」
「……そうです」
「本人は?」
「え?」
「本人は、救ってほしいって言ったの?」
ルシアンは答えられなかった。カイは小さく笑った。
「言ってないんだ」
「ですが、あの方は……」
「孤独そうだった?」
「……」
「寂しそうだった?」
「……」
「可哀想だった?」
ルシアンの表情が険しくなる。
「何が言いたいのですか」
カイは肩をすくめた。
「別に。ただ、君の方がよっぽど面白いなと思って」
「……どういう意味です」
「相手が望んでいない救済を、どうしてそこまで与えたがるのかなって」
ルシアンは黙った。カイは机の上の記録に視線を落とした。
「まあ、僕も人のことは言えないけどね」
「……?」
「その公爵、僕にも調べさせてよ」
「お断りします」
「どうして?」
「あなたは危険な魔術に手を出すことがありますから」
「失礼だな。僕は必要な研究をしているだけだよ」
カイは笑った。
「それに、これは本当に興味深い」
彼は懐から、小さな黒い魔晶石を取り出した。
「普通、魂には何らかの神性が残っている。祝福を受けていなくてもね」
「……ええ」
「でも、その公爵には何もない」
「それは記録にも」
「違うんだよ」
カイは言葉を遮った。その表情から、笑みが消えた。
「何もないんじゃない」
ルシアンは眉を寄せた。
「……どういうことですか」
カイは魔晶石を指先で転がした。
「僕、一度だけ公爵を遠くから観測したことがあるんだ」
「無断で?」
「まあ、そうなるね」
「カイ殿!」
「怒らないでよ。すぐにやめたから」
カイは笑った。だが、その瞳には、奇妙な緊張が宿っていた。
「……観測魔術が、消えたんだ」
「消えた?」
「うん。弾かれたんじゃない。無効化されたわけでもない」
カイはゆっくりと言った。
「最初から、存在しなかったことになった」
書庫に沈黙が落ちた。ルシアンは、息を呑んだ。
「……そのようなことが」
「普通はあり得ない」
カイは魔晶石を握りしめた。
「神聖魔術も、古代魔術も、すべては神々が残した法則の上に成り立っている」
「……」
「でも、あの人には、その法則が適用されない」
カイの唇が、ゆっくりと弧を描いた。
「ねえ、ルシアン」
「何ですか」
「神々の法則に従わない魂って、何だと思う?」
ルシアンは答えなかった。カイは、楽しそうに笑った。
「僕はね」
紫の瞳が、怪しく輝く。
「どうしても、知りたくなっちゃった」
五 王子の知らない感情
夜。
王宮の私室で、レオンハルトは酒杯を傾けていた。公爵邸での出来事が、頭から離れない。
『私は、殿下との私的な関係を望んでいません』
その声。
その表情。
何の迷いもない拒絶。
思い出すたびに、胸の奥が熱くなる。怒りだ。そう思った。自分を拒んだことへの怒り。王太子としての権威を軽んじられた屈辱。それ以外に、理由などあるはずがない。
「……ふざけるな」
レオンハルトは酒杯を置いた。何が気に入らないのだ。自分の何が不足している。
王位。
富。
権力。
容姿。
どれを取っても、あの公爵に相応しいはずだ。いや。相応しいどころか、これ以上の相手など存在しない。それなのに。なぜ、あの人間は自分を見ない。
「……誰か、いるのか?」
ふと、そんな考えが浮かんだ。自分以外に、特別な人間がいるのではないか。誰かを愛しているから、自分を拒絶するのではないか。その可能性を考えた瞬間。胸の奥に、冷たいものが落ちた。
「……いや」
調査資料には、何も記されていなかった。
親密な交際相手はいない。
婚約者もいない。
恋人もいない。
それでも。自分の知らない誰かが、あの公爵の心を占めているとしたら。レオンハルトは立ち上がった。
「誰か!」
扉が開く。侍従が慌てて入室した。
「お呼びでしょうか、殿下」
「ヴェルシュタイン公爵の交友関係を、もう一度調べろ」
「……交友関係、でございますか」
「誰と会っている。誰と手紙を交わしている。誰を屋敷に招いている」
「ですが、すでに調査は」
「足りない」
低い声だった。
侍従は口を閉じた。レオンハルトは窓の外を見つめた。
「……私が知らないだけかもしれない」
「殿下?」
「誰かが、あいつに近づいているのかもしれない」
その言葉に、侍従は背筋を冷やした。王太子は、何を恐れているのだろう。誰かに奪われることか。
それとも。
自分が、最初から何も持っていなかったと知ることか。
六 静寂を望む者
その頃。
ヴェルシュタイン公爵邸では、いつもどおりの夜が流れていた。暖炉の火が、静かに揺れている。机の上には、読みかけの歴史書。窓の外では、細かな雨が降り始めていた。公爵は椅子に腰を下ろし、ページをめくった。今日の出来事を思い返す。
王太子が突然訪問してきた。
私欲を埋めるように現れた彼に帰るように伝えた。感情的になった王太子は何かを呟き帰った。
それだけだ。
怒りはなかった。恐怖もなかった。ただ、予定していた仕事が三十分ほど遅れたことが、不愉快だった。
「……面倒だな」
小さく呟く。それから、また本を読んだ。不愉快なこの気持ちを紛らわせるために。
数分後。
(コンコン)
ドアのノック音と共にアルフレッドの声がした。
「閣下」
「何だ」
「聖教会より、書簡が届いております」
公爵は顔を上げた。
「内容は」
「聖騎士団長ルシアン・アストレア卿より、面会の申し入れでございます」
「断ってくれ」
「……承知いたしました」
「ほかには?」
「宮廷魔術師カイ・アルヴェイン殿からも、書簡が届いております」
公爵は数秒、沈黙した。
「……何の用件だ」
「魔力検査へのご協力をお願いしたい、と」
「断る」
「かしこまりました」
「それから」
「はい」
「今後、私的な面会の申し入れは、すべてアルフレッドの判断で断って構わない」
「……すべて、でございますか」
「必要な公務以外は」
「承知いたしました」
アルフレッドが退室する。
再び静寂が戻った。公爵は本を開いた。しかし、すぐに手を止めた。窓の外を見つめる。雨が、少し強くなっていた。
「……なぜ、放っておいてくれないんだ」
その声には、悲しみも怒りもなかった。ただ、純粋な疑問だけがあった。自分は誰にも何も求めていない。誰かに愛されたいとも、理解されたいとも思わない。誰かの人生に関わりたいとも思わない。
それなのに。
なぜ、他人は勝手に近づいてくるのだろう。なぜ、拒絶しても離れていかないのだろう。なぜ、自分の感情を他人に受け取らせようとするのだろう。
公爵は小さく息を吐いた。
考えても仕方がない。理解する必要もない。ただ、関わらなければいい。そう結論づけて、再び本を開いた。
そのとき。
机の上に置かれた銀の燭台が、かすかに揺れた。
炎が、一瞬だけ青く染まる。
公爵は視線を向けた。
「……?」
すぐに、炎は元の色に戻った。
風だろうか。窓は閉まっている。だが、気にするほどのことでもなかった。
公爵は本へ視線を戻した。
その背後。
暖炉の火が落とす影の中で。誰にも聞こえない声が、ひどく静かに囁いた。
『……ようやく、見つけた』
それは、人間の声ではなかった。三百年前に殺されたはずの神。忘却と静寂を司るノクティス。その名を知る者は、今やほとんど存在しない。しかし、神は確かに目覚め始めていた。
人間の愛を拒み。
神々の祝福を受けず。
何一つ望まない魂。
神が長い眠りの果てに見つけたのは、そんな人間だった。
そして皮肉なことに。
誰からも愛されたくないと望むその人間に、今度は神までもが関心を抱こうとしていた。公爵は何も知らない。ただ、静かな夜を過ごしていた。その平穏が、少しずつ侵食され始めていることにも気づかずに。
第二章 了




