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誰のものにもならない王冠  作者: 泉
第一部 美しい鳥籠

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2/11

第二章 拒絶された王太子


拒絶とは、本来、それ以上の接近を望まないという意思表示である。しかし、世の中には、それを理解しない人間がいる。自分の望みが叶わないことを、相手の気まぐれだと思う者。拒絶を、愛情を確かめるための試練だと思う者。

そして、他人の意思よりも、自分の欲望の方が尊重されるべきだと信じている者。レオンハルト・エルディアは、そのすべてに当てはまる男だった。ただし、本人にその自覚はない。彼は、自分を極めて理性的な人間だと信じていた。


一 七通目の招待状


「……またですか」

ヴェルシュタイン公爵邸の執務室に、アルフレッドの疲れ切った声が響いた。机の上には、深紅の封蝋が施された封筒が置かれている。王家の紋章。金糸で縁取られた上質な羊皮紙。

それは第一王子レオンハルトの直筆による招待状であった。

これで七通目だった。

最初は茶会。

次は昼食会。

その次は王立劇場への招待。

四通目は乗馬。

五通目は王宮図書館の特別閲覧。

六通目に至っては、何の名目もない私的な面会の申し入れだった。

そして今回。

「……王宮北棟に、新たな温室を造営したそうでございます」

公爵は書類をめくった。

「そうか」

「珍しい北方植物を集めたとか」

「そうか」

「ヴェルシュタイン領に自生する銀月草も移植されたとのことで……」

「アルフレッド」

「はい」

「断っておいてくれ」

「……承知いたしました」

執事は封筒を手に取った。だが、すぐには立ち去らなかった。

「閣下」

「何だ」

「恐れながら、殿下は相当にご執心のようです」

「何に」

「……閣下に、でございます」

公爵は筆を止めた。ゆっくりと顔を上げる。

「なぜ?」

あまりにも自然な問いだった。アルフレッドは、一瞬言葉に詰まった。

「それは……閣下にご興味をお持ちだからでは」

「興味を持つ理由が分からない」

「容姿やご身分、才覚など、理由はいくらでも考えられますが」

「それなら、私である必要はないだろう」

アルフレッドは黙った。確かに、そのとおりだった。王国には美しい貴族も、優秀な政治家も、裕福な公爵家も存在する。何度も招待を断る人間に執着する必要はない。

「……人の好意とは、必ずしも合理的なものではございません」

「非合理的であることは構わない」

公爵は淡々と言った。

「だが、それに私を巻き込まないでほしい」

「……はい」

「今後、王太子殿下から私的な招待が届いても、内容を報告する必要はない。正式な王命でない限り、辞退してくれ」

「かしこまりました」

公爵は再び書類に目を落とした。会話は終わりだった。アルフレッドは静かに退室する。廊下に出たところで、深いため息をついた。

七通。

七度の拒絶。

王太子殿下が、これほど明確に拒まれたことなど、おそらく生まれて初めてだろう。そして、アルフレッドは嫌な予感がしていた。あの王子が、このまま引き下がるとは思えなかった。


二 王太子の屈辱


「……七度目も断っただと?」

王宮東棟。王太子の私室に、低い声が響いた。

レオンハルトは机の前に立つ侍従を見下ろしていた。

「は、はい。ヴェルシュタイン公爵家より、丁重なお断りの返書が届いております」

「理由は」

「私的な招待には応じられない、とのことで……」

「それだけか」

「はい」

レオンハルトは沈黙した。侍従の額に汗が滲む。

「……ほかには」

「今後も同様の招待については辞退する、と」

ぱきり。

乾いた音がした。レオンハルトの手の中で、羽根ペンが折れていた。

「……そうか」

侍従は身を強張らせた。しかし、王子は怒鳴らなかった。むしろ、静かに笑った。

「随分と徹底しているな」

「殿下……」

「私の招待を七度も断る人間が、この国にいるとは」

レオンハルトは腰深く椅子に座る。机の上には、ヴェルシュタイン公爵家に関する調査資料が積まれている。

公爵の幼少期。

公爵位の継承。

領地経営。

過去の婚約の打診。

社交界での評判。

交友関係。

そのすべてに目を通した。だが、どこにも答えはなかった。何を好むのか。誰を信頼しているのか。どのような人間に心を許すのか。それらを示す記録が、ないのである。まるで元々、そのような感情が欠如していたかのように。

「……誰とも関わらずに生きてきたようだな」

レオンハルトは呟いた。侍従は慎重に口を開いた。

「公爵閣下は、以前より社交を好まれないことで知られております」

「知っている」

「でしたら、あまり無理にお誘いなさらない方が……」

「何だ?」

侍従は口を閉じた。レオンハルトはゆっくりと顔を上げる。

「私が諦めるべきだと言いたいのか」

「い、いえ。そのようなことは」

「ならば余計なことを言うな」

「申し訳ございません」

沈黙が落ちた。

レオンハルトは窓の外へ視線を向けた。三年前、あの公爵に婚約を申し込んだとき、レオンハルトは断られる可能性など考えていなかった。

王家の第一王子。

将来の国王。

容姿にも、能力にも、血統にも恵まれた自分。

誰もが羨む地位を持つ男からの求婚だ。受け入れられて当然だった。それなのに。

『不要です』

たった一言。あの返書を読んだ瞬間の感覚を、今でも覚えている。

怒り。

困惑。

屈辱。

そして、奇妙な高揚。

初めてだった。自分の望みが、これほど簡単に退けられたのは。

「……会えば分かる」

レオンハルトは呟いた。

「直接話せば、あいつも理解するはずだ」

何を理解するのか。なぜ、理解しなければならないのか。その問いを、彼は自分自身に向けなかった。

「馬車を用意しろ」

侍従が顔を上げる。

「どちらへ?」

「ヴェルシュタイン公爵邸だ」

「……殿下、事前のご連絡は」

「必要ない」

レオンハルトは立ち上がった。

「私が直接出向く」


三 招かれざる客


午後三時。

ヴェルシュタイン公爵邸。公爵は執務室で、北方領の税収報告書を確認していた。

「閣下」

扉の向こうから、アルフレッドの声がした。

「何だ」

「……王太子殿下がお見えです」

筆が止まった。公爵は顔を上げた。

「誰が?」

「レオンハルト殿下でございます」

「なぜ」

「突然のご訪問で……」

「約束はしていない」

「はい」

「ならば、帰っていただけ」

「それが……」

アルフレッドの声が、わずかに震えた。

「すでに応接室へお通しすることになっておりまして」

公爵は数秒、沈黙した。

「誰の判断で?」

「……殿下が、直接お入りになられました」

「そうか」

公爵は筆を置いた。そして、静かに立ち上がった。

「分かった」

アルフレッドは安堵した。しかし、次の言葉でその安堵は消えた。

「帰っていただこう」


応接室の扉が開く。

レオンハルトは、窓際の椅子に腰を下ろしていた。テーブルには、まだ手をつけていない紅茶が置かれている。公爵が入室すると、王子は満足げに微笑んだ。

「ようやく会えたな」

「殿下」

公爵は扉の前で立ち止まった。

「本日は、どのようなご用件でしょうか」

「随分と他人行儀だな」

「ご用件をお伺いしています」

レオンハルトは小さく笑った。

「少し話がしたかっただけだ」

「書簡で済む内容でしょうか」

「直接話したいと言っている」

「私は望んでいません」

沈黙。

レオンハルトの笑みが、わずかに薄れた。

「……お前は、いつもそうだな」

「何がでしょう」

「人の好意を、まるで厄介事のように扱う」

「実際、厄介ですので」

レオンハルトは目を細めた。

「……私が、厄介だと?」

「事前の約束なく訪問され、私の執務時間を妨げておられます」

「私は王太子だぞ」

「存じております」

「私が自ら足を運んだのだ」

「それは殿下のご判断です」

公爵の声には、怒りも恐怖もなかった。ただ、事実を述べているだけだった。レオンハルトは立ち上がった。長身の王子が近づく。公爵は動かなかった。

「……お前は、私が怖くないのか」

「特に」

「私の一言で、お前の立場がどうなるか分かっているのか」

「分かっています」

「ならば」

「殿下」

公爵は静かに遮った。

「私を脅迫するためにいらしたのですか」

レオンハルトの表情が凍りついた。

「……何?」

「王太子としての権限を利用し、私に私的な面会を強要されるのであれば、その旨を正式に記録いたします」

「お前……」

「王家と公爵家の関係に関わる問題ですので、陛下への報告も必要でしょう」

レオンハルトは言葉を失った。脅しが通じない。それどころか、こちらの発言を政治的な問題として処理しようとしている。

公爵は続けた。

「私的なご用件でしたら、お帰りください」

「……本気で言っているのか」

「はい」

「私が、ここまでしているのに?」

公爵は一瞬、眉を寄せた。

「何を、ですか」

レオンハルトは口を開いた。しかし、言葉が出なかった。

何を。

自分は、何をした?

招待状を送った。

何度も誘った。

直接会いに来た。

それだけだ。

だが、彼にとっては、それらすべてが特別な行為だった。王太子である自分が、これほど一人の人間に時間を割いている。それだけで、相手は感激すべきではないのか。

「……私は、お前に会いたかった」

ようやく出た言葉は、思いのほか静かだった。

公爵は答えた。

「私は、殿下にお会いしたくありませんでした」

あまりにも、明確な拒絶だった。レオンハルトの胸の奥で、何かが軋んだ。

「……そこまで言うか」

「誤解を招かないように申し上げています」

「私の気持ちは、どうでもいいのか」

「はい」

即答だった。

レオンハルトは息を呑んだ。公爵は淡々と続ける。

「殿下が私をどう思われるかは、殿下の自由です。しかし、それによって私の行動を制限することはできません」

「……」

「私は、殿下との私的な関係を望んでいません」

王子の顔から、完全に笑みが消えた。

「今後も、同様です」

沈黙。

時計の針が進む音だけが、部屋に響いた。やがて、レオンハルトは低く呟いた。

「……後悔するぞ」

公爵は表情を変えなかった。

「そうですか」

その反応が、王子の神経を逆撫でした。

「お前は、本当に……!」

「アルフレッド」

公爵は扉の方へ声をかけた。

「殿下をお見送りしてくれ」

扉の外で待機していた執事が、青ざめた顔で入室する。

「か、かしこまりました」

レオンハルトは公爵を睨んだ。しかし、公爵はすでに視線を外していた。その無関心が、何よりも腹立たしかった。

「……いいだろう」

レオンハルトは低く笑った。

「今日のところは帰ってやる」

公爵は一礼した。

「ご理解いただき、ありがとうございます」

その丁寧な言葉が、まるで皮肉のように響いた。


四 神の祝福を持たぬ魂


同じ日の夕刻。

王都中央にそびえる白き大聖堂。聖騎士団長ルシアン・アストレアは、薄暗い書庫で古い記録を調べていた。机の上には、数十冊の洗礼記録が積まれている。

その中の一冊。

二十四年前の、貴族子弟の洗礼記録。ルシアンは、ある名前に指を止めた。

『ヴェルシュタイン公爵家、嫡子』

その下に、神官の筆跡で記された文章がある。

『祝福、確認されず』

『神聖魔力への反応、なし』

『魂の波長、測定不能』

ルシアンは眉を寄せた。

「……測定不能?」

通常、神々の祝福を受けない平民であっても、魂の波長そのものは観測できる。しかし、この記録では、魂の存在を示す反応さえ確認されていない。

「おかしい……」

ルシアンは別の資料を開いた。

十二歳時の再検査。

十六歳時の特別検査。

十八歳、公爵位継承時の確認記録。

すべて同じ結果だった。

『測定不能』

ルシアンは、先日の夜会を思い出した。

冷たい灰銀色の瞳。

感情の乏しい表情。

誰にも頼ろうとしない態度。

あの人は、神々の祝福を受けていない。だから、あれほど孤独なのだろうか。神の愛を知らずに育ったから、人の愛も受け入れられないのではないか。そんな考えが、胸をよぎった。

「……なんと、おいたわしい」

ルシアンは記録を閉じた。彼は気づいていなかった。自分が今、何の根拠もなく、公爵の人格を神の祝福の有無に結びつけたことに。そして、本人が一度も救いを求めていないという事実を。

「私が、何とかしなければ」

その声は、祈りにも似ていた。


「何とかする?」

背後から、軽い声がした。

ルシアンが振り返る。

書庫の入口に、一人の青年が立っていた。

灰色の無造作な髪。

紫水晶のような瞳。

黒と濃紺の魔術師礼装。

宮廷魔術師、カイ・アルヴェイン。

「……カイ殿」

「こんなところで何をしているのかと思えば」

カイは机の上の記録を覗き込んだ。

「ヴェルシュタイン公爵?」

ルシアンは慌てて本を閉じた。

「これは、聖教会の内部資料です」

「見れば分かるよ」

カイは笑った。

「それより、面白いものを調べているね」

「面白い、とは?」

「神の祝福を受けない公爵」

カイの紫の瞳が、愉快そうに細められる。

「僕も、前から気になっていたんだ」

「……公爵閣下を研究対象のように扱うのは、お控えください」

「君は何のために調べているの?」

ルシアンは口を閉じた。カイは微笑んだ。

「救ってあげたい?」

「……そうです」

「本人は?」

「え?」

「本人は、救ってほしいって言ったの?」

ルシアンは答えられなかった。カイは小さく笑った。

「言ってないんだ」

「ですが、あの方は……」

「孤独そうだった?」

「……」

「寂しそうだった?」

「……」

「可哀想だった?」

ルシアンの表情が険しくなる。

「何が言いたいのですか」

カイは肩をすくめた。

「別に。ただ、君の方がよっぽど面白いなと思って」

「……どういう意味です」

「相手が望んでいない救済を、どうしてそこまで与えたがるのかなって」

ルシアンは黙った。カイは机の上の記録に視線を落とした。

「まあ、僕も人のことは言えないけどね」

「……?」

「その公爵、僕にも調べさせてよ」

「お断りします」

「どうして?」

「あなたは危険な魔術に手を出すことがありますから」

「失礼だな。僕は必要な研究をしているだけだよ」

カイは笑った。

「それに、これは本当に興味深い」

彼は懐から、小さな黒い魔晶石を取り出した。

「普通、魂には何らかの神性が残っている。祝福を受けていなくてもね」

「……ええ」

「でも、その公爵には何もない」

「それは記録にも」

「違うんだよ」

カイは言葉を遮った。その表情から、笑みが消えた。

「何もないんじゃない」

ルシアンは眉を寄せた。

「……どういうことですか」

カイは魔晶石を指先で転がした。

「僕、一度だけ公爵を遠くから観測したことがあるんだ」

「無断で?」

「まあ、そうなるね」

「カイ殿!」

「怒らないでよ。すぐにやめたから」

カイは笑った。だが、その瞳には、奇妙な緊張が宿っていた。

「……観測魔術が、消えたんだ」

「消えた?」

「うん。弾かれたんじゃない。無効化されたわけでもない」

カイはゆっくりと言った。

「最初から、存在しなかったことになった」

書庫に沈黙が落ちた。ルシアンは、息を呑んだ。

「……そのようなことが」

「普通はあり得ない」

カイは魔晶石を握りしめた。

「神聖魔術も、古代魔術も、すべては神々が残した法則の上に成り立っている」

「……」

「でも、あの人には、その法則が適用されない」

カイの唇が、ゆっくりと弧を描いた。

「ねえ、ルシアン」

「何ですか」

「神々の法則に従わない魂って、何だと思う?」

ルシアンは答えなかった。カイは、楽しそうに笑った。

「僕はね」

紫の瞳が、怪しく輝く。

「どうしても、知りたくなっちゃった」


五 王子の知らない感情


夜。

王宮の私室で、レオンハルトは酒杯を傾けていた。公爵邸での出来事が、頭から離れない。

『私は、殿下との私的な関係を望んでいません』

その声。

その表情。

何の迷いもない拒絶。

思い出すたびに、胸の奥が熱くなる。怒りだ。そう思った。自分を拒んだことへの怒り。王太子としての権威を軽んじられた屈辱。それ以外に、理由などあるはずがない。

「……ふざけるな」

レオンハルトは酒杯を置いた。何が気に入らないのだ。自分の何が不足している。

王位。

富。

権力。

容姿。

どれを取っても、あの公爵に相応しいはずだ。いや。相応しいどころか、これ以上の相手など存在しない。それなのに。なぜ、あの人間は自分を見ない。

「……誰か、いるのか?」

ふと、そんな考えが浮かんだ。自分以外に、特別な人間がいるのではないか。誰かを愛しているから、自分を拒絶するのではないか。その可能性を考えた瞬間。胸の奥に、冷たいものが落ちた。

「……いや」

調査資料には、何も記されていなかった。

親密な交際相手はいない。

婚約者もいない。

恋人もいない。

それでも。自分の知らない誰かが、あの公爵の心を占めているとしたら。レオンハルトは立ち上がった。

「誰か!」

扉が開く。侍従が慌てて入室した。

「お呼びでしょうか、殿下」

「ヴェルシュタイン公爵の交友関係を、もう一度調べろ」

「……交友関係、でございますか」

「誰と会っている。誰と手紙を交わしている。誰を屋敷に招いている」

「ですが、すでに調査は」

「足りない」

低い声だった。

侍従は口を閉じた。レオンハルトは窓の外を見つめた。

「……私が知らないだけかもしれない」

「殿下?」

「誰かが、あいつに近づいているのかもしれない」

その言葉に、侍従は背筋を冷やした。王太子は、何を恐れているのだろう。誰かに奪われることか。

それとも。

自分が、最初から何も持っていなかったと知ることか。


六 静寂を望む者


その頃。

ヴェルシュタイン公爵邸では、いつもどおりの夜が流れていた。暖炉の火が、静かに揺れている。机の上には、読みかけの歴史書。窓の外では、細かな雨が降り始めていた。公爵は椅子に腰を下ろし、ページをめくった。今日の出来事を思い返す。

王太子が突然訪問してきた。

私欲を埋めるように現れた彼に帰るように伝えた。感情的になった王太子は何かを呟き帰った。

それだけだ。

怒りはなかった。恐怖もなかった。ただ、予定していた仕事が三十分ほど遅れたことが、不愉快だった。

「……面倒だな」

小さく呟く。それから、また本を読んだ。不愉快なこの気持ちを紛らわせるために。


数分後。

(コンコン)

ドアのノック音と共にアルフレッドの声がした。

「閣下」

「何だ」

「聖教会より、書簡が届いております」

公爵は顔を上げた。

「内容は」

「聖騎士団長ルシアン・アストレア卿より、面会の申し入れでございます」

「断ってくれ」

「……承知いたしました」

「ほかには?」

「宮廷魔術師カイ・アルヴェイン殿からも、書簡が届いております」

公爵は数秒、沈黙した。

「……何の用件だ」

「魔力検査へのご協力をお願いしたい、と」

「断る」

「かしこまりました」

「それから」

「はい」

「今後、私的な面会の申し入れは、すべてアルフレッドの判断で断って構わない」

「……すべて、でございますか」

「必要な公務以外は」

「承知いたしました」

アルフレッドが退室する。

再び静寂が戻った。公爵は本を開いた。しかし、すぐに手を止めた。窓の外を見つめる。雨が、少し強くなっていた。

「……なぜ、放っておいてくれないんだ」

その声には、悲しみも怒りもなかった。ただ、純粋な疑問だけがあった。自分は誰にも何も求めていない。誰かに愛されたいとも、理解されたいとも思わない。誰かの人生に関わりたいとも思わない。

それなのに。

なぜ、他人は勝手に近づいてくるのだろう。なぜ、拒絶しても離れていかないのだろう。なぜ、自分の感情を他人に受け取らせようとするのだろう。

公爵は小さく息を吐いた。

考えても仕方がない。理解する必要もない。ただ、関わらなければいい。そう結論づけて、再び本を開いた。

そのとき。

机の上に置かれた銀の燭台が、かすかに揺れた。

炎が、一瞬だけ青く染まる。

公爵は視線を向けた。

「……?」

すぐに、炎は元の色に戻った。

風だろうか。窓は閉まっている。だが、気にするほどのことでもなかった。

公爵は本へ視線を戻した。

その背後。

暖炉の火が落とす影の中で。誰にも聞こえない声が、ひどく静かに囁いた。

『……ようやく、見つけた』

それは、人間の声ではなかった。三百年前に殺されたはずの神。忘却と静寂を司るノクティス。その名を知る者は、今やほとんど存在しない。しかし、神は確かに目覚め始めていた。

人間の愛を拒み。

神々の祝福を受けず。

何一つ望まない魂。

神が長い眠りの果てに見つけたのは、そんな人間だった。

そして皮肉なことに。

誰からも愛されたくないと望むその人間に、今度は神までもが関心を抱こうとしていた。公爵は何も知らない。ただ、静かな夜を過ごしていた。その平穏が、少しずつ侵食され始めていることにも気づかずに。


第二章 了

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