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誰のものにもならない王冠  作者: 泉
第一部 美しい鳥籠

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1/11

第一章 神なき公爵


王都アステリアには、三つのものを拒んではならないという不文律があった。

王の命令。

神の祝福。

そして、身分の高い者から向けられる好意。

そのいずれをも拒絶する人間がいるとすれば、よほどの愚か者か、あるいは狂人だろう。

ヴェルシュタイン公爵は、そのどちらでもなかった。

ただ、興味がなかった。


「……ですから、閣下。これは陛下からの正式な招待状でございます」

執事のアルフレッドが、三度目の説明を終えた。

銀の盆に載せられた封筒には、王家の紋章が刻まれた深紅の封蝋が施されている。書斎の窓から差し込む午後の光が、その金箔を照らしていた。

「見れば分かる」

公爵は書類から顔を上げずに答えた。

「では、ご出席ということでよろしいでしょうか」

「断る」

「……閣下」

「何だ」

「今回は、王太子殿下のご帰還を祝う夜会でございます」

「そうか」

「五大公爵家の当主は、全員出席を求められております」

「それで?」

アルフレッドは口を閉じた。この主人に仕えて十七年になる。感情を表に出さないことにも、王族を相手に一切の遠慮を見せないことにも、すでに慣れていた。しかし、慣れることと、胃が痛まなくなることは別問題だった。

「……欠席なされば、王家との関係に支障が生じます」

「具体的には」

「陛下のご不興を買う可能性がございます」

「それによって?」

「領地への干渉や、宮廷での発言権の低下が懸念されます」

公爵はようやく筆を置いた。

「最初からそう言えばいい」

アルフレッドは小さく息を吐いた。

「では」

「出席する。滞在は一時間だ」

「承知いたしました」

「それ以上は付き合わない」

「……善処いたします」

「お前が善処する必要はない。帰ると決めたら帰る」

アルフレッドは返事をしなかった。この主人が一度決めたことを覆すのは、神に祈って雨を止ませるより難しい。それを知っていたからだ。


ヴェルシュタイン公爵家は、エルディア王国の北方に広大な領地を持つ名門である。王国建国以前から存在するとされる五大公爵家の一つであり、王家に次ぐ権威を有していた。しかし、現在の当主について、宮廷の評価は芳しくなかった。

曰く、傲慢。

曰く、冷酷。

曰く、神をも恐れぬ不信心者。

そして何より。

『神なき公爵』。

それが、二十四歳の若き当主に与えられた異名だった。エルディアの貴族は、生まれながらに神々の恩寵を受ける。洗礼の際、神官が魂に宿る魔力を測定し、その性質によって守護神が定められる。だが、ヴェルシュタイン公爵には、いかなる神の祝福も認められなかった。神官たちは困惑し、聖教会は再検査を命じた。それでも結果は変わらなかった。神々の声を聞かず、神聖魔術にも反応しない。まるで、そこに魂そのものが存在しないかのように。

人々は恐れた。

神に愛されぬ者は、いずれ災厄を招くのではないかと。しかし、公爵自身はその噂に何の関心も示さなかった。

神に愛されていない。それがどうしたというのだろう。神とやらに、愛された覚えもなければ、愛されたいと思ったこともない。むしろ、祈る必要がないのなら、その方が都合がよかった。


夜会当日。

王宮の大広間には、無数の燭台と魔晶石の光が輝いていた。天井には巨大なシャンデリアが吊るされ、磨き上げられた大理石の床には、貴族たちの姿が映り込んでいる。

音楽。

笑い声。

香水の匂い。

絹の衣擦れ。

そのすべてが、公爵には煩わしかった。

「ヴェルシュタイン公爵閣下のご入場です!」

侍従の声が響く。ざわめきが、わずかに静まった。銀白色の髪。冷ややかな灰銀色の瞳。黒を基調とした礼装には、銀糸による精緻な刺繍が施されている。公爵は周囲の視線を気にすることなく、ゆっくりと広間へ足を踏み入れた。

「……あれが」

「ええ、ヴェルシュタイン公爵ですわ」

「噂どおり、お美しい方ね」

「けれど、あの方には感情がないとか」

「王家からの婚約の打診を断ったそうよ」

「なんだって?」

「ええ。しかも、すべて一行の返書で」

ひそひそと交わされる声。公爵は聞こえていないふりをした。実際、どうでもよかった。今夜の目的は一つ。国王に挨拶を済ませ、必要な人物と最低限の会話を交わし、速やかに帰宅すること。それだけだった。

「ヴェルシュタイン公爵」

背後から声がした。振り返ると、そこに立っていたのは、輝く黄金の髪に深紅の瞳を持つ長身の青年だった。深緑の軍服には黄金の肩章が輝き、胸元には王家の紋章が刻まれている。第一王子、レオンハルト・エルディア。次期国王として、誰もが頭を垂れる人物。公爵は形式どおり一礼した。

「殿下。ご帰還、おめでとうございます」

「……それだけか?」

「ほかに何か」

レオンハルトの眉がわずかに動いた。

「三年ぶりの再会だぞ」

「存じております」

「久しぶりだとは思わないのか」

「三年経過したことは承知しています」

一瞬、周囲の空気が止まった。レオンハルトは公爵を見つめた。やがて、口元に薄い笑みを浮かべる。

「相変わらずだな」

「恐れ入ります」

「褒めていない」

「では、返答を訂正する必要がありますか」

「……いや」

レオンハルトは笑った。その笑みには、どこか獲物を見つけたような愉悦が滲んでいた。

「お前は、本当に面白い」

公爵は何も答えなかった。

面白い。

そう思うのは勝手だ。こちらに同意を求められなければ、それでいい。

「今夜は私の隣にいろ」

レオンハルトが言った。

「お断りいたします」

即答だった。王子の笑みが止まる。

「……何?」

「陛下へのご挨拶を済ませましたら、帰宅する予定です」

「まだ夜会は始まったばかりだ」

「承知しております」

「ならば、なぜ帰る」

「用事が済んでいるからです」

「私が残れと言っている」

公爵は静かに王子を見下ろした。

「殿下」

「何だ」

「それは王命でしょうか」

レオンハルトの表情が変わった。

「……違う」

「では、従う必要はございませんね」

公爵は再び一礼した。

「失礼いたします」

そして、王子の返答を待つことなく、その場を離れた。背後に残されたレオンハルトは、しばらく動かなかった。周囲の貴族たちも、息を潜めている。やがて、王子は低く笑った。

「……なるほど」

その瞳には、これまでになかった熱が宿っていた。

「本当に、何も変わっていない」

三年前。

レオンハルトがまだ王太子ではなく、ただの第一王子だった頃。彼は一度、公爵に婚約を申し込んでいた。政治的にも、血統的にも、申し分のない縁談だった。王家とヴェルシュタイン家が結びつけば、国内の権力基盤は盤石となる。それに、レオンハルト自身も、公爵の容姿と才覚を気に入っていた。当然、受け入れられると思っていた。しかし、返ってきた答えはたった一言。

『不要です』

それだけだった。理由もなければ、謝罪もない。王族に対する敬意すら感じられない、簡潔な拒絶。当時は腹立たしかった。三年の遠征を終えた今もなお、その一言が頭から離れない。

なぜだ。

なぜ、あの人間は自分を拒む。地位も、権力も、富も。この国の誰もが欲しがるものを、すべて与えられるというのに。

「……いいだろう」

レオンハルトは、遠ざかっていく銀白色の髪を見つめた。

「今度こそ、手に入れてやる」

それが恋情なのか、征服欲なのか。このときの彼には、まだ区別がついていなかった。


「……お疲れではありませんか?」

次に声をかけてきたのは、白銀の鎧を身にまとった青年だった。柔らかな白金色の髪。澄んだ青い瞳。聖騎士団長、ルシアン・アストレア。公爵は立ち止まった。

「何かご用でしょうか」

「いえ。ただ、少し顔色が優れないように見えましたので」

「通常どおりです」

「そうですか」

ルシアンは穏やかに微笑んだ。

「先ほど、殿下とお話しされていましたね」

「ええ」

「……少々、困っておられたのでは?」

「いいえ」

「ですが、殿下は少し強引なところがおありですから」

公爵は黙っていた。ルシアンはその沈黙を、肯定と受け取った。

「ご安心ください。何かございましたら、私が必ずお守りいたします」

「必要ありません」

「……え?」

「護衛は足りています」

「そういう意味ではなく」

「では、どういう意味でしょう」

ルシアンは言葉に詰まった。公爵の瞳には、困惑も、警戒も、感謝もない。ただ、答えを待っているだけだった。

「私は……あなたの力になりたいのです」

「理由は?」

「理由、ですか?」

「ええ」

「困っている方を助けるのは、聖騎士として当然の務めです」

「私は困っていません」

「ですが」

「困っていない人間を助ける必要があるのですか」

ルシアンは口を閉じた。公爵は淡々と続ける。

「お気遣いは不要です。失礼いたします」

そして、その場を離れた。ルシアンは、遠ざかる背中を見つめていた。胸の奥に、奇妙な痛みがあった。あの人は、何も求めない。誰にも頼らず、誰にも期待せず、誰の好意も受け取らない。なんと孤独なことだろう。そう思った。彼はまだ知らなかった。公爵は孤独を苦痛だと感じていないことを。

むしろ、孤独であることを望んでいる。その事実を理解できないまま、ルシアンは小さく呟いた。

「……どうすれば、あの方を救えるのでしょう」

救いを求められてもいないのに。


王宮の時計が、九時を告げる。公爵は懐中時計を確認した。予定より十三分遅れている。国王への挨拶は済ませた。宮廷財務官との協議も終わった。これ以上、ここに留まる理由はない。

「アルフレッド」

控えていた執事が、すぐに歩み寄る。

「はい、閣下」

「帰るぞ」

「馬車を手配いたします」

「頼む」

ようやく終わった。そう思った、そのときだった。

「まあ。もうお帰りになるの?」

甘く、艶やかな声。振り返ると、深紅のドレスをまとった女性が立っていた。燃えるような赤銅色の髪。鮮やかな翡翠色の瞳。首元には大粒のルビーが輝いている。

ヴァレンティス王国女王、セラフィーナ。

その隣には、柔らかな微笑みを浮かべた青年が控えていた。

王弟リオネル。

「お久しぶりね、ヴェルシュタイン公爵」

セラフィーナが微笑む。

「相変わらず、お美しいこと」

「ありがとうございます」

「少し、お話しできないかしら」

「申し訳ございません。帰宅するところです」

「まあ」

女王は楽しそうに笑った。

「私がお願いしても?」

「はい」

即答だった。リオネルが小さく吹き出した。

「姉上。だから言ったでしょう」

「何を?」

「この方には、普通の社交辞令は通じませんよ」

「そうみたいね」

セラフィーナは公爵を見つめた。その瞳が、興味深そうに細められる。

「ねえ、公爵」

「何でしょう」

「あなた、私が誰だか分かっている?」

「ヴァレンティス王国の女王陛下です」

「そう。私は女王よ」

「存じております」

「私が望めば、大抵のものは手に入るの」

公爵は無言だった。

「土地も、宝石も、人の忠誠も」

「それは結構なことです」

「……あなたは?」

「私が何でしょう」

「何か欲しいものはないの?」

公爵は少し考えた。そして、答えた。

「あります」

セラフィーナの瞳が輝いた。

「まあ。何かしら?」

「帰宅する時間です」

沈黙。

リオネルが口元を押さえた。セラフィーナは一瞬だけ目を見開き、それから声を上げて笑った。

「……ふふっ、あはは!」

周囲の貴族たちが振り返る。女王は笑いながら、扇で口元を隠した。

「あなた、本当に面白い人ね」

「そうでしょうか」

「ええ。とても」

セラフィーナは一歩近づいた。

「気に入ったわ」

公爵は、わずかに眉を寄せた。その言葉を、今日だけで何度聞いただろう。

「光栄です」

「今度、私の宮殿に招待してもよくて?」

「お断りいたします」

「まだ日程も伝えていないのに?」

「日程の問題ではありません」

セラフィーナの笑みが深まった。

「……ますます気に入ったわ」

公爵は心の中で、小さく息を吐いた。面倒な人間が増えた。それだけだった。


馬車に乗り込んだ頃には、夜も深まっていた。公爵は座席に身を預け、窓の外を眺めた。王都の街灯が、ゆっくりと後方へ流れていく。ようやく静かになった。

「閣下」

向かいに座ったアルフレッドが口を開く。

「本日は、少々……」

「何だ」

「いえ。王太子殿下に加え、聖騎士団長、ヴァレンティス女王陛下にまで、あのような対応をなさるとは」

「何か問題が?」

「……問題しかございません」

公爵は窓の外に視線を戻した。

「私は何も要求していない」

「それは、そうですが」

「相手が勝手に話しかけてきた」

「はい」

「質問されたから答えた」

「……はい」

「それの何が問題なんだ」

アルフレッドは黙った。理屈だけなら、主人の言うとおりだった。だが、宮廷という場所は、理屈だけでは成り立たない。

好意には好意を。

敬意には敬意を。

そして、権力には服従を。

それが、この国の常識だった。しかし、目の前の主人は、そのすべてに興味がない。

「閣下」

「今度は何だ」

「どうか、少しだけお気をつけください」

「何に」

「……人の感情というものは、時に理屈では収まらないものです」

公爵は目を閉じた。

「それは本人が処理すべき問題だろう」

アルフレッドは、それ以上何も言えなかった。


同じ頃。

王宮の奥にある私室で、レオンハルトは一通の書簡を読んでいた。ヴェルシュタイン公爵家に関する調査報告書。領地の収支。政治的な影響力。婚姻歴。交友関係。すべてが詳細に記されている。

そして、最後の項目。

『特定の親密な交際相手、確認されず』

レオンハルトは、そこに視線を止めた。

「……誰もいないのか」

不思議な安堵が胸を満たした。その感情に、彼自身が少し驚いた。誰もいない。ならば、まだ間に合う。

いや。

何に間に合うというのだろう。レオンハルトは報告書を閉じた。

「ヴェルシュタイン公爵を、明日の茶会に招待しろ」

控えていた侍従が一礼する。

「かしこまりました」

「断られたら、もう一度送れ」

「……殿下?」

「返事が来るまでだ」

侍従は、困惑しながらも頭を下げた。レオンハルトは窓の外を見た。王都の夜景が広がっている。そのどこかを、公爵を乗せた馬車が走っているはずだった。

「……次は、そう簡単に帰さない」

その言葉に、まだ狂気はなかった。ただ、ほんの少しの執着があった。そして、それこそが。

すべての始まりだった。


翌朝。

ヴェルシュタイン公爵邸には、王宮から一通の招待状が届いた。公爵は封筒を開き、内容を一読した。

『明日、王宮東庭園にて私的な茶会を催す。貴殿の出席を望む。レオンハルト・エルディア』

公爵は紙を机に置いた。

「アルフレッド」

「はい」

「断っておいてくれ」

「……承知いたしました」

「今後、同様の招待もすべて断っていい」

「かしこまりました」

公爵は再び書類に目を落とした。その顔には、何の感情も浮かんでいなかった。王太子からの招待。それが、どれほど特別な意味を持つのか。世間がどう受け取るのか。そんなことは、どうでもよかった。

ただ一つ。

静かな朝を邪魔されたことだけが、少し不愉快だった。


第一章 了

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