第一章 神なき公爵
王都アステリアには、三つのものを拒んではならないという不文律があった。
王の命令。
神の祝福。
そして、身分の高い者から向けられる好意。
そのいずれをも拒絶する人間がいるとすれば、よほどの愚か者か、あるいは狂人だろう。
ヴェルシュタイン公爵は、そのどちらでもなかった。
ただ、興味がなかった。
「……ですから、閣下。これは陛下からの正式な招待状でございます」
執事のアルフレッドが、三度目の説明を終えた。
銀の盆に載せられた封筒には、王家の紋章が刻まれた深紅の封蝋が施されている。書斎の窓から差し込む午後の光が、その金箔を照らしていた。
「見れば分かる」
公爵は書類から顔を上げずに答えた。
「では、ご出席ということでよろしいでしょうか」
「断る」
「……閣下」
「何だ」
「今回は、王太子殿下のご帰還を祝う夜会でございます」
「そうか」
「五大公爵家の当主は、全員出席を求められております」
「それで?」
アルフレッドは口を閉じた。この主人に仕えて十七年になる。感情を表に出さないことにも、王族を相手に一切の遠慮を見せないことにも、すでに慣れていた。しかし、慣れることと、胃が痛まなくなることは別問題だった。
「……欠席なされば、王家との関係に支障が生じます」
「具体的には」
「陛下のご不興を買う可能性がございます」
「それによって?」
「領地への干渉や、宮廷での発言権の低下が懸念されます」
公爵はようやく筆を置いた。
「最初からそう言えばいい」
アルフレッドは小さく息を吐いた。
「では」
「出席する。滞在は一時間だ」
「承知いたしました」
「それ以上は付き合わない」
「……善処いたします」
「お前が善処する必要はない。帰ると決めたら帰る」
アルフレッドは返事をしなかった。この主人が一度決めたことを覆すのは、神に祈って雨を止ませるより難しい。それを知っていたからだ。
ヴェルシュタイン公爵家は、エルディア王国の北方に広大な領地を持つ名門である。王国建国以前から存在するとされる五大公爵家の一つであり、王家に次ぐ権威を有していた。しかし、現在の当主について、宮廷の評価は芳しくなかった。
曰く、傲慢。
曰く、冷酷。
曰く、神をも恐れぬ不信心者。
そして何より。
『神なき公爵』。
それが、二十四歳の若き当主に与えられた異名だった。エルディアの貴族は、生まれながらに神々の恩寵を受ける。洗礼の際、神官が魂に宿る魔力を測定し、その性質によって守護神が定められる。だが、ヴェルシュタイン公爵には、いかなる神の祝福も認められなかった。神官たちは困惑し、聖教会は再検査を命じた。それでも結果は変わらなかった。神々の声を聞かず、神聖魔術にも反応しない。まるで、そこに魂そのものが存在しないかのように。
人々は恐れた。
神に愛されぬ者は、いずれ災厄を招くのではないかと。しかし、公爵自身はその噂に何の関心も示さなかった。
神に愛されていない。それがどうしたというのだろう。神とやらに、愛された覚えもなければ、愛されたいと思ったこともない。むしろ、祈る必要がないのなら、その方が都合がよかった。
夜会当日。
王宮の大広間には、無数の燭台と魔晶石の光が輝いていた。天井には巨大なシャンデリアが吊るされ、磨き上げられた大理石の床には、貴族たちの姿が映り込んでいる。
音楽。
笑い声。
香水の匂い。
絹の衣擦れ。
そのすべてが、公爵には煩わしかった。
「ヴェルシュタイン公爵閣下のご入場です!」
侍従の声が響く。ざわめきが、わずかに静まった。銀白色の髪。冷ややかな灰銀色の瞳。黒を基調とした礼装には、銀糸による精緻な刺繍が施されている。公爵は周囲の視線を気にすることなく、ゆっくりと広間へ足を踏み入れた。
「……あれが」
「ええ、ヴェルシュタイン公爵ですわ」
「噂どおり、お美しい方ね」
「けれど、あの方には感情がないとか」
「王家からの婚約の打診を断ったそうよ」
「なんだって?」
「ええ。しかも、すべて一行の返書で」
ひそひそと交わされる声。公爵は聞こえていないふりをした。実際、どうでもよかった。今夜の目的は一つ。国王に挨拶を済ませ、必要な人物と最低限の会話を交わし、速やかに帰宅すること。それだけだった。
「ヴェルシュタイン公爵」
背後から声がした。振り返ると、そこに立っていたのは、輝く黄金の髪に深紅の瞳を持つ長身の青年だった。深緑の軍服には黄金の肩章が輝き、胸元には王家の紋章が刻まれている。第一王子、レオンハルト・エルディア。次期国王として、誰もが頭を垂れる人物。公爵は形式どおり一礼した。
「殿下。ご帰還、おめでとうございます」
「……それだけか?」
「ほかに何か」
レオンハルトの眉がわずかに動いた。
「三年ぶりの再会だぞ」
「存じております」
「久しぶりだとは思わないのか」
「三年経過したことは承知しています」
一瞬、周囲の空気が止まった。レオンハルトは公爵を見つめた。やがて、口元に薄い笑みを浮かべる。
「相変わらずだな」
「恐れ入ります」
「褒めていない」
「では、返答を訂正する必要がありますか」
「……いや」
レオンハルトは笑った。その笑みには、どこか獲物を見つけたような愉悦が滲んでいた。
「お前は、本当に面白い」
公爵は何も答えなかった。
面白い。
そう思うのは勝手だ。こちらに同意を求められなければ、それでいい。
「今夜は私の隣にいろ」
レオンハルトが言った。
「お断りいたします」
即答だった。王子の笑みが止まる。
「……何?」
「陛下へのご挨拶を済ませましたら、帰宅する予定です」
「まだ夜会は始まったばかりだ」
「承知しております」
「ならば、なぜ帰る」
「用事が済んでいるからです」
「私が残れと言っている」
公爵は静かに王子を見下ろした。
「殿下」
「何だ」
「それは王命でしょうか」
レオンハルトの表情が変わった。
「……違う」
「では、従う必要はございませんね」
公爵は再び一礼した。
「失礼いたします」
そして、王子の返答を待つことなく、その場を離れた。背後に残されたレオンハルトは、しばらく動かなかった。周囲の貴族たちも、息を潜めている。やがて、王子は低く笑った。
「……なるほど」
その瞳には、これまでになかった熱が宿っていた。
「本当に、何も変わっていない」
三年前。
レオンハルトがまだ王太子ではなく、ただの第一王子だった頃。彼は一度、公爵に婚約を申し込んでいた。政治的にも、血統的にも、申し分のない縁談だった。王家とヴェルシュタイン家が結びつけば、国内の権力基盤は盤石となる。それに、レオンハルト自身も、公爵の容姿と才覚を気に入っていた。当然、受け入れられると思っていた。しかし、返ってきた答えはたった一言。
『不要です』
それだけだった。理由もなければ、謝罪もない。王族に対する敬意すら感じられない、簡潔な拒絶。当時は腹立たしかった。三年の遠征を終えた今もなお、その一言が頭から離れない。
なぜだ。
なぜ、あの人間は自分を拒む。地位も、権力も、富も。この国の誰もが欲しがるものを、すべて与えられるというのに。
「……いいだろう」
レオンハルトは、遠ざかっていく銀白色の髪を見つめた。
「今度こそ、手に入れてやる」
それが恋情なのか、征服欲なのか。このときの彼には、まだ区別がついていなかった。
「……お疲れではありませんか?」
次に声をかけてきたのは、白銀の鎧を身にまとった青年だった。柔らかな白金色の髪。澄んだ青い瞳。聖騎士団長、ルシアン・アストレア。公爵は立ち止まった。
「何かご用でしょうか」
「いえ。ただ、少し顔色が優れないように見えましたので」
「通常どおりです」
「そうですか」
ルシアンは穏やかに微笑んだ。
「先ほど、殿下とお話しされていましたね」
「ええ」
「……少々、困っておられたのでは?」
「いいえ」
「ですが、殿下は少し強引なところがおありですから」
公爵は黙っていた。ルシアンはその沈黙を、肯定と受け取った。
「ご安心ください。何かございましたら、私が必ずお守りいたします」
「必要ありません」
「……え?」
「護衛は足りています」
「そういう意味ではなく」
「では、どういう意味でしょう」
ルシアンは言葉に詰まった。公爵の瞳には、困惑も、警戒も、感謝もない。ただ、答えを待っているだけだった。
「私は……あなたの力になりたいのです」
「理由は?」
「理由、ですか?」
「ええ」
「困っている方を助けるのは、聖騎士として当然の務めです」
「私は困っていません」
「ですが」
「困っていない人間を助ける必要があるのですか」
ルシアンは口を閉じた。公爵は淡々と続ける。
「お気遣いは不要です。失礼いたします」
そして、その場を離れた。ルシアンは、遠ざかる背中を見つめていた。胸の奥に、奇妙な痛みがあった。あの人は、何も求めない。誰にも頼らず、誰にも期待せず、誰の好意も受け取らない。なんと孤独なことだろう。そう思った。彼はまだ知らなかった。公爵は孤独を苦痛だと感じていないことを。
むしろ、孤独であることを望んでいる。その事実を理解できないまま、ルシアンは小さく呟いた。
「……どうすれば、あの方を救えるのでしょう」
救いを求められてもいないのに。
王宮の時計が、九時を告げる。公爵は懐中時計を確認した。予定より十三分遅れている。国王への挨拶は済ませた。宮廷財務官との協議も終わった。これ以上、ここに留まる理由はない。
「アルフレッド」
控えていた執事が、すぐに歩み寄る。
「はい、閣下」
「帰るぞ」
「馬車を手配いたします」
「頼む」
ようやく終わった。そう思った、そのときだった。
「まあ。もうお帰りになるの?」
甘く、艶やかな声。振り返ると、深紅のドレスをまとった女性が立っていた。燃えるような赤銅色の髪。鮮やかな翡翠色の瞳。首元には大粒のルビーが輝いている。
ヴァレンティス王国女王、セラフィーナ。
その隣には、柔らかな微笑みを浮かべた青年が控えていた。
王弟リオネル。
「お久しぶりね、ヴェルシュタイン公爵」
セラフィーナが微笑む。
「相変わらず、お美しいこと」
「ありがとうございます」
「少し、お話しできないかしら」
「申し訳ございません。帰宅するところです」
「まあ」
女王は楽しそうに笑った。
「私がお願いしても?」
「はい」
即答だった。リオネルが小さく吹き出した。
「姉上。だから言ったでしょう」
「何を?」
「この方には、普通の社交辞令は通じませんよ」
「そうみたいね」
セラフィーナは公爵を見つめた。その瞳が、興味深そうに細められる。
「ねえ、公爵」
「何でしょう」
「あなた、私が誰だか分かっている?」
「ヴァレンティス王国の女王陛下です」
「そう。私は女王よ」
「存じております」
「私が望めば、大抵のものは手に入るの」
公爵は無言だった。
「土地も、宝石も、人の忠誠も」
「それは結構なことです」
「……あなたは?」
「私が何でしょう」
「何か欲しいものはないの?」
公爵は少し考えた。そして、答えた。
「あります」
セラフィーナの瞳が輝いた。
「まあ。何かしら?」
「帰宅する時間です」
沈黙。
リオネルが口元を押さえた。セラフィーナは一瞬だけ目を見開き、それから声を上げて笑った。
「……ふふっ、あはは!」
周囲の貴族たちが振り返る。女王は笑いながら、扇で口元を隠した。
「あなた、本当に面白い人ね」
「そうでしょうか」
「ええ。とても」
セラフィーナは一歩近づいた。
「気に入ったわ」
公爵は、わずかに眉を寄せた。その言葉を、今日だけで何度聞いただろう。
「光栄です」
「今度、私の宮殿に招待してもよくて?」
「お断りいたします」
「まだ日程も伝えていないのに?」
「日程の問題ではありません」
セラフィーナの笑みが深まった。
「……ますます気に入ったわ」
公爵は心の中で、小さく息を吐いた。面倒な人間が増えた。それだけだった。
馬車に乗り込んだ頃には、夜も深まっていた。公爵は座席に身を預け、窓の外を眺めた。王都の街灯が、ゆっくりと後方へ流れていく。ようやく静かになった。
「閣下」
向かいに座ったアルフレッドが口を開く。
「本日は、少々……」
「何だ」
「いえ。王太子殿下に加え、聖騎士団長、ヴァレンティス女王陛下にまで、あのような対応をなさるとは」
「何か問題が?」
「……問題しかございません」
公爵は窓の外に視線を戻した。
「私は何も要求していない」
「それは、そうですが」
「相手が勝手に話しかけてきた」
「はい」
「質問されたから答えた」
「……はい」
「それの何が問題なんだ」
アルフレッドは黙った。理屈だけなら、主人の言うとおりだった。だが、宮廷という場所は、理屈だけでは成り立たない。
好意には好意を。
敬意には敬意を。
そして、権力には服従を。
それが、この国の常識だった。しかし、目の前の主人は、そのすべてに興味がない。
「閣下」
「今度は何だ」
「どうか、少しだけお気をつけください」
「何に」
「……人の感情というものは、時に理屈では収まらないものです」
公爵は目を閉じた。
「それは本人が処理すべき問題だろう」
アルフレッドは、それ以上何も言えなかった。
同じ頃。
王宮の奥にある私室で、レオンハルトは一通の書簡を読んでいた。ヴェルシュタイン公爵家に関する調査報告書。領地の収支。政治的な影響力。婚姻歴。交友関係。すべてが詳細に記されている。
そして、最後の項目。
『特定の親密な交際相手、確認されず』
レオンハルトは、そこに視線を止めた。
「……誰もいないのか」
不思議な安堵が胸を満たした。その感情に、彼自身が少し驚いた。誰もいない。ならば、まだ間に合う。
いや。
何に間に合うというのだろう。レオンハルトは報告書を閉じた。
「ヴェルシュタイン公爵を、明日の茶会に招待しろ」
控えていた侍従が一礼する。
「かしこまりました」
「断られたら、もう一度送れ」
「……殿下?」
「返事が来るまでだ」
侍従は、困惑しながらも頭を下げた。レオンハルトは窓の外を見た。王都の夜景が広がっている。そのどこかを、公爵を乗せた馬車が走っているはずだった。
「……次は、そう簡単に帰さない」
その言葉に、まだ狂気はなかった。ただ、ほんの少しの執着があった。そして、それこそが。
すべての始まりだった。
翌朝。
ヴェルシュタイン公爵邸には、王宮から一通の招待状が届いた。公爵は封筒を開き、内容を一読した。
『明日、王宮東庭園にて私的な茶会を催す。貴殿の出席を望む。レオンハルト・エルディア』
公爵は紙を机に置いた。
「アルフレッド」
「はい」
「断っておいてくれ」
「……承知いたしました」
「今後、同様の招待もすべて断っていい」
「かしこまりました」
公爵は再び書類に目を落とした。その顔には、何の感情も浮かんでいなかった。王太子からの招待。それが、どれほど特別な意味を持つのか。世間がどう受け取るのか。そんなことは、どうでもよかった。
ただ一つ。
静かな朝を邪魔されたことだけが、少し不愉快だった。
第一章 了




