第7話:神事の篝火でアールグレイを淹れるような朝
老婆村長が胃を押さえて逃げ去り、見張りの男たちも蜘蛛の子を散らすように引き揚げた後。
土蔵の前には、しんと澄み切った朝の冷気だけが残されていた。
白石は地面に突っ伏したまま、ピクリとも動かない。
生贄の白装束はすっかり泥と藁まみれになり、一晩中ペンを握りしめていた右手は痙攣したように固まっている。
「……死ぬ……」
乾いた唇から漏れ出たのは、魂の抜けたような呻き声だった。
「深夜に神様にプレゼンして……そのあと朝まで議事録の清書……。新卒一年目でもこんな仕打ち受けたことない……。もう一歩も動けない……ここに埋めて……」
「お疲れ様でした、白石。素晴らしいドキュメンテーション能力です。あなたの議事録のおかげで、村執行部に対する交渉材料が完全に整いました」
爽やかな朝の陽光を浴びながら、黒井がスーツの袖口を正して歩み寄ってきた。
その手には――なぜか、湯気を立てるチタン製のスノーピークのマグカップが二つ握られていた。
「……え?」
白石が泥だらけの顔を上げると、ふわりと上品で華やかなベルガモットの香りが鼻腔をくすぐった。
「ど、どこから湧いたんですか、そのお湯……?」
「土蔵の前に、儀式用の篝火がちょうどいい熾火になって燻っていたでしょう。スーツケースに常備している携帯用ケトルでお湯を沸かしました。神事の熱源を有効活用した、カーボンニュートラルな湯沸かしです」
「邪教の炎でお湯を沸かすなし……!」
「カフェインの過剰摂取は副腎疲労を招きますからね。ルイボスベースのアールグレイです。それと、こちらをどうぞ」
黒井が内ポケットから取り出したのは、高級感あふれる金色のアルミパッケージ。
パリの老舗、エシレのフィナンシェだった。
「……エシレ……! 先輩、これ一個五百円以上するやつじゃないですか!?」
「昨晩、ヤタガミ様に霜降りの香気成分をプレゼンする際に使ったアロマサンプルの残りです。焦がしバターの良質な脂質と糖分は、酷使した前頭葉のグリコーゲンを急速補給してくれます。はい、どうぞ」
「……うぅ……っ」
白石は抗えなかった。
差し出された焼き菓子を受け取り、かじりつく。
じゅわりと広がる芳醇なバターの風味と、アーモンドの香ばしさ。温かいアールグレイが、冷え切って強張っていた胃腑に染み渡っていく。
「……おいしい……。悔しいけど、五臓六腑に染み渡る……」
「でしょう。リフレッシュが完了したら、次のタスクです」
「まだタスクあんの!?」
「村長宅へステータス確認に乗り込む約束の午前十時まで、残り時間は限られています。白石、まずは二十六分間の仮眠をとってください」
黒井は正確にスマートウォッチのタイマーをセットした。
「二十六分……? なんでそんな中途半端なんですか。三時間くらい寝かせてくださいよ!」
「NASAの研究によれば、二十六分間の集中的なパワーナップはパイロットの注意力とパフォーマンスを三十四パーセント、覚醒度を五十四パーセント向上させることが実証されています。三十分を超えると深いノンレム睡眠に入ってしまい、起床時に睡眠慣性による激しい倦怠感を引き起こすため逆効果です。私は二十六分後に起きて作業に入りますが、白石は――」
「私は普通に十時前まで寝ますからね!! NASAとか知るかぁぁぁっ!!」
白石はすすんで土蔵のなかに引っ込むと泥のように藁の上へと倒れ込み、アイマスクをひったくって顔に被せるやいなや、秒速で高い寝息を立て始めた。
「……即入眠ですか。素晴らしい睡眠効率ですね」
◇
「――白石、時間です。起床してください」
「……んあ? ……ふぎゃっ!?」
肩を揺すぶられ、白石は跳ね起きた。
隙間から差し込む日差しはすっかり高くなり、藁の隙間から埃の粒子がキラキラと舞っている。
「……あれ……? いま、何時……?」
「午前九時四十分です。あなたの希望通り、たっぷり深い睡眠を確保させました。そろそろ出発の時間です」
「うわ……めっちゃ寝た……! 身体が軽っ……て、えっ!?」
白石は目を擦り、周囲を見回して絶句した。
埃まみれでゴミ溜めのようだった土蔵の床が、見事に掃き清められていたのだ。散乱していた藁は端に整然とまとめられ、壁際にうずたかく積まれていた古文書や巻物が、年代順らしきインデックスを貼られて几帳面に分類されている。
何より――目の前に立つ黒井が、髪一本乱さず、ピッカピカのスーツ姿で立っていた。
「な、なんですかこれ……!? 先輩、まさか……」
「ええ。私は予告通り二十六分で覚醒し、残りの時間で土蔵の内部環境の最適化(5S活動)と、村の歴史資料のデューデリジェンスを行なっていました」
「二十六分で起きて二時間ずっと掃除と書類査定してたの!? バケモノかよ!!」
「整理・整頓・清掃・清潔・躾。5Sはすべての業務改善の基本です。そして、この土蔵に保管されていた過去三百年分の神事記録および古い村役場の帳簿もあわせて監査した結果――極めて興味深い事実が判明しました」
黒井は手帳のページをトントンと指先で叩いた。
その瞳の奥に、獲物を見定めた経営コンサルタントのような鋭い光が宿っている。
「八咫神様ですが……元々は生贄など求めていない、『極めて優秀なフルスタック・インフラ神』でした」
「ふ、ふるすたっく……?」
「ええ。記録によれば、江戸時代中期の八咫神様は、山の治水、用水路の保全、さらには冷害の防止までを一手に担う、地域最高峰の土木インフラ管理システムとして機能していました。村人たちが定期的に奉納していたのは、丹精込めて育てた『牛一頭』です」
「牛……あ! だから昨晩、サーロインステーキの提案にあんなに嬉しそうに食いついたんだ!」
「その通りです。牛を丸ごと一頭奉納することで、神様は膨大な演算リソースを村の環境維持にフルコミットしていた。……しかし、百五十年前の凶作の際、当時の村執行部が信じがたいコストカットを断行しました」
黒井の声が、すっと冷たさを帯びる。
「『高価な牛を差し出すのは勿体ない。村の口減らしを兼ねて、余所から嫁いできた身寄りのない娘を生贄にリプレイスしよう』と」
「……っ!」
白石の背筋に、冷たいものが走った。
「牛から人間への、最悪のダウングレードです。神様からすれば、本来欲しかった上質なタンパク質と脂質を一方的にカットされ、頼んでもいない人肉を押し付けられたわけです。当然、神様はブチギレました。祟りという名の『サービス品質の大幅低下(SLA違反)』が発生し、村は現在のような陰惨な因習集落へと零落していったのです」
「……最低。村の先祖、ケチった上に神様に責任を押し付けたんだ……」
白石の拳が、怒りでぎゅっと握りしめられる。
「ええ。つまり八咫神様の祟りとは、理不尽な天災などではありません。『不当なコストカットに対する、現場インフラエンジニアの正当なストライキ』だったのです」
黒井はMacBookをパチンと閉じ、立ち上がってビシッとスーツを整えた。
「課題のボトルネックは完全に特定できました。神様側の要求仕様も、こちらで握っています。残るタスクはただ一つ――この歪んだ神事コストを是正し、村を運営する執行部に正常なガバナンスを取り戻させることです」
「先輩……」
白石は立ち上がり、ジャストサイズの白装束の裾をパンパンと払った。
睡眠をたっぷり取って体力も全快した。恐怖は、すでに完全に消え去っていた。胸にあるのは、自分を生贄として処分しようとした親族と、この村の身勝手な支配層に対する、底知れない怒りだけだ。
「行きましょう、先輩。あのババアのツラに、この議事録と提案書を叩きつけてやりましょう!」
「素晴らしいモチベーションです。現在時刻は午前九時四十分すぎ。移動時間を考慮すると、ジャスト十時に村長宅へのオンサイト突撃が可能です。白石、名刺の予備は持ちましたか?」
「持ってませんし配りません!!」
爽やかな秋晴れの下、二人は土蔵を後にし、老婆村長宅――八咫村の仮設役場へと続く一本道を堂々と歩き出した。
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