第6話:逃げる?ここからが合意形成のゴールデンタイムですよ
「……ヤタァ……」
土蔵の換気口から、巨大な影が音もなく夜空へと飛び去っていった。
立ち込めていた獣臭と赤黒い霧が、すうっと引いていく。
「……か、帰った……?」
白装束の胸元をぎゅっと握りしめ、白石は板間にへたり込んだ。
心臓が口から飛び出しそうなほど激しく打っている。全身の毛穴から冷や汗が噴き出していた。
助かった。
本当に、あの化け物に頭から美味しくいただかれずにすんだのだ。
「A5ランク霜降りサーロインの定期便」という俗物極まりない提案で神様を釣ったおかげで。
(今だ……! 神様がいなくなった今なら、逃げられる……!!)
白石は藁を払って立ち上がり、カタカタとMacBookを叩き続ける黒井の肩を揺さぶった。
「せ、先輩! 今のうちです! 格子をなんとか外して、山を降りて逃げましょう!!」
だが、黒井はキーボードから指を離さず、首だけをゆっくりと白石へ向けた。
暗闇に光るその瞳には、安堵の色など微塵もなく、深夜シフト特有の冷徹な光が宿っていた。
「逃げる? 何を言っているんですか、白石」
「は?」
「クライアントとの合意形成が終わった直後の二時間こそが、プロジェクトの成否を分ける最も重要なゴールデンタイムです」
「く、くらいあんと……?」
「鉄は熱いうちに打て、です。八咫神様が提示された要求仕様、合意に至った論点、および次期アクションプラン。記憶が鮮明なうちに議事録へ落とし込み、関係各所への共有ドキュメントを作成しなければ、言った言わないの水掛け論に発展しかねません」
「はぁ!? 相手は神様ですよ!? 言った言わないで揉める前に殺されるんですよ!!」
「だからこそエビデンスを残すんです」
黒井はスーツの内ポケットから、新品の大学ノートとジェットストリームのボールペンを取り出すと、白石の手のひらに押し付けた。
「でも先輩! さっきババアが言ってましたよね!? 『忌み名の子は別として、よそ者には無理じゃ』って! 私の母の実家はこの村の生贄の家系です。私なら、あの『ゲホウ返し』とやらに首をねじ切られずに脱出できるかもしれないんですよ!?」
白石の必死の訴えに、黒井はため息混じりに眼鏡のブリッジを押し上げた。
「白石、冷静にリスクアセスメント(危険度評価)を行なってください」
「は、はい……?」
「第一に、土蔵の外には見張りの男たちが隙間なく張り付いています。小窓から見たところ、全員が泥水に突っ伏したまま微動だにしていません。あの極度の緊張状態にある武装集団の前に飛び出せば、パニックを起こした彼らに竹槍で串刺しにされるリスクが極めて高い」
「う……」
「第二に、現在の時刻は午前三時十二分。ここは電波も届かない漆黒の山奥です。街灯もない夜道を生贄の白装束で彷徨えば、遭難死するか、野生の熊に遭遇するのが関の山です。たとえあなたが『ゲホウ返し』のアクセス制限をパスできたとしても、物理的な山道の危険性は一切低減されはしません」
「うぐっ……」
「そして第三に――仮にあなたが単独エスケープに成功したとして、残された私はよそ者判定が濃厚となり、村境に至る前にゲホウ返しに首をねじ切られて終わりです」
(なんだよぉ……! こいつ、怪異は怪異でちゃんと危険だって分かってはいるのかよぉ……!!)
「たしかにっ……! そうなったら……見捨てるみたいで後味悪すぎるけど……!」
「感情論ではなく確率論です。現時点における生存戦略として、引き続きこの土蔵に籠城し、夜明けを待つのが最もローリスクです」
ぐうの音も出ない正論だった。
外は狂信者と漆黒の山、そしてよそ者の首をねじる防衛怪異。一方、この土蔵には、あの凶暴な祟り神をパワポ一枚で黙らせた男がいる。
悔しいが、今の八咫村において、このイカれた元先輩の隣が世界で一番安全なシェルターなのだ。
「……わ、わかりましたよ。夜明けまで待つのは納得しました。でも、なんで私が議事録を書かなきゃいけないんですか!?」
「朝一番で村長がこの扉を開けた瞬間が勝負だからです。生贄の無力化と、神事の業務改善提案を一気に畳み掛ける。それには他ならぬ白石、あなた自身が長老に書類を突きつけることがなによりです。さあ白石、メモをとってください。アジェンダ順に口述筆記していきます」
「ぎゃあああ、筋が通ってるんだか通ってないんだかもう分からないけど反論もできないぃぃぃぃッ!!」
猛烈に叫びながらも――悲しいかな、白石の身体は動いてしまった。
大学時代、サークルの模擬店で黒井に徹底的に叩き込まれた「迅速なメモ取り」と「ToDoのタスク分解」の筋肉記憶が、五年の歳月を越えて勝手に目を覚ましてしまったのだ。
『決定事項:生贄モデルから和牛サブスクへの移行』
『神様の要望:脂の乗った肉。高齢者は不可』
『ToDo:村長への三六協定違反の是正勧告』
(なんで……? なんで私、生贄の白装束着て、暗闇で正座して、先輩の口述筆記を完璧なフォーマットで取れちゃってるの……!?)
サラサラと小気味いい音を立ててノートを埋めていく自分の右手に、白石は絶望した。
逃げたい。逃げ出したい。
だけど、目の前で「八咫神様のエンゲージメント向上施策」を大真面目に語る先輩のペースに呑まれ、気づけば東の空が白み始めていた。
そして、朝一番。
ギギギ……と土蔵の鉄扉が開き、老婆村長が「ヒヒ……見る影もない血溜まりが――」と覗き込んできた瞬間。
白石は、完全に徹夜明けの目で、出来上がったばかりの議事録を差し出していたのだ。
――こうして私は、逃げ出すタイミングを完全に失った。
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