第5話:休憩なしの夜間絶対伏臥は、明白な安全配慮義務違反です
東の空が白み始め、杉林の奥から朝を告げる山鳥の甲高い鳴き声が響いた。
白装束をまとった長老は、杖を突きながら湿った砂利道を踏みしめてやってくる。その口元には、嗜虐的な笑みが張り付いていた。
「ヒヒ……哀れな生贄の娘よ。骨の一片、髪の毛の一筋すら残さず、ヤタガミ様の胎内へと消え去った頃合いじゃ。さて、余計な口を利いたあの男の無残な肉片でも片付けるとするかのう」
だが、土蔵の前にたどり着いた長老は、怪訝そうに眉をひそめて足を止めた。
「……なんじゃ? お前たち、なぜまだこんなところにおる?」
本来の儀式であれば、ヤタガミ様が生贄を喰らい尽くした後、山を揺るがす『御満足の咆哮』を轟かせて山奥へと去っていく。その合図を聞いて見張りの任は解かれ、一同は引き揚げるのが代々のしきたりだった。
だが、見張りの男たちは誰一人として持ち場を離れておらず、それどころか泥水の中に額を擦り付けたままピクリとも動かない。両手で固く耳を塞ぎ、白目を剥いてガタガタと全身を痙攣させている。
「おい、朝じゃぞ! 鳥も鳴いたわ! なぜ平伏したままなんじゃ!」
長老が杖の先で足元を突くと、泥まみれの男の一人が、ガチガチと歯の根を鳴らしながら必死に顔を上げた。
「ち、長老……! ご、御満足の咆哮が……聞こえてねえんだ……!」
「なんじゃと?」
「夜中によぉ、屋根に神様がドスンと降りてこられたのは確かだ……! だから俺たちゃしきたり通りに目をつむってよ、耳もぴたぁ~~ってふさいでひれ伏したんだ。だけどよ、だけど……」
「なんじゃ、言いよどんで。なにがあったんじゃ?」
「なにもなかったんだ」
「なにも、なかった……?」
「そのあと生贄の悲鳴も、骨を噛み砕く音も、お帰りになる御満足の咆哮も一切しねえんだ……! まだ屋根の上にいらっしゃるのかと思って、怖くて誰も頭を上げられなかったんだよ……ッ!」
合図なき沈黙。
男たちは丸々六時間、沈黙する怪異のプレッシャーに縛られ、泥水の中で完全に硬直していたのだ。
「バカをもうすな……! ヤタガミ様がお声も上げずに去られるはずが……まさか、中で何か異変が起きたというのか!?」
長老は血相を変え、自ら土蔵の重い閂へと手を伸ばした。
鎖を乱暴に解き、鉄扉をギギギと押し開ける。
立ち込める土と埃の匂い。
長老は陰惨な暗闇の中を覗き込んだ。
「おい、生きて――」
「おはようございます、長老。朝早くからご苦労様です」
「……は?」
差し込む朝の光が照らし出したのは、無残な肉片などではなかった。
スーツの上着をきちんと羽織り、ネクタイを締め直した黒井が、爽やかなビジネススマイルを浮かべて軽く会釈していた。
その背後では、ジャストサイズの生贄装束を着た白石が、藁の上に置いたノートにサラサラとペンを走らせている。
「な……な……っ!?」
長老は腰を抜かしそうになりながら、杖を取り落とした。
「な、なぜ生きておる!? ヤタガミ様はどうされたのじゃ!? 昨晩、確かに神がお降りになられた地響きをわしらも聞いたのじゃぞ!!」
「ええ、昨晩のヤタガミ様との1on1ミーティングですが、極めて建設的かつ友好的にクローズいたしました」
黒井は手帳を開き、流暢に報告を読み上げる。
「今年度の生贄調達案件につきましては、八咫神様より『若年層の人口減少に伴う供給破綻リスク』にご同意いただき、従来の生贄モデルから『A5ランク国産和牛定期便、ならびに体験型観光モデルへのピボット』にて正式にアグリーをいただきました」
「あ、あぐり……?」
「要するに、合意です。白石、議事録のドラフトを長老へ」
「はい……」
白石が死んだような魚の目で、手書きのメモ用紙を差し出した。
「神様……最初は『血ヲ……寄コセ……』って言ってたんですけど、先輩がスライド見せながら『霜降りサーロインの定期便』を提案したら、最後は『ヤタァ……』って満足そうに山へ帰っていきました……。物音ひとつ立てずに……」
「な、なんじゃとぉぉぉっ!?」
長老の絶叫が土蔵に木霊する。
泥まみれの見張りの男たちも、「ヤタガミ様、もう帰ってたのかよ……」「肉の定期便で……?」「あぐり……?」とざわつき始めた。
だが、黒井の表情がスッと引き締まった。
視線が、夜明けの冷たい風に吹かれ、まだ赤黒く煙をくすぶらせている『神事用の大篝火』と、その足元に倒れ伏している見張りたちへと向けられる。
「それと長老。本題はここからです」
「な、何じゃ……?」
「外の警備スタッフの皆様、素晴らしい勤務態度ですね」
黒井は感嘆したように頷いた。
「夜間の寒空の下、六時間以上にわたる直立ならびに絶対伏臥の姿勢。一切の私語もせず持ち場を死守する強固なコンプライアンス意識。前職の警備会社や深夜警備バイトでもここまでの規律は見たことがありません」
「い、いや、あれは掟で動けなかっただけで……」
「ええ、掟の遵守という点では絶賛に値します。……しかし、長老」
黒井は一歩踏み出し、冷徹な監査役の目で長老を見据えた。
「業務終了のトリガー、つまり終了シグナルが定義不足だったために、現場が待機状態のままデッドロックに陥っています。さらに、交代要員なし、暖房器具なしの極寒環境下における『六時間ノーブレイク絶対伏臥』は、明白な安全配慮義務違反です。そもそも、彼らと三六協定は締結されているのですか? 特別条項付きであっても、この深夜帯の過酷な時間外拘束は労基署に垂れ込まれたら一発で是正勧告ですよ」
「さ、さぶろく……? ぜせいかんこく……?」
「ええ。労働安全衛生法、および使用者責任の観点から完全にアウトです。低体温症による重大な労働災害が発生した場合、村執行部としての法的責任は免れません。即座に彼らへ温かい白湯と毛布を支給し、シフト管理の導入を強く推奨いたします」
「お、掟を……神聖な我が村の掟を、俗世のわけのわからん理屈で引っ掻き回すでないわ……ッ!」
長老は顔を紅潮させて怒鳴り返そうとしたが、黒井の濁りきった、しかし一切のブレがない真面目な眼光に気圧され、言葉を詰まらせた。怒鳴りつけても、脅しても、まるで暖簾に腕押し。通じているのか通じていないのかすら分からない。
「感情論ではリスクヘッジはできません。長老、まずは本日午前中に、全村民を集めたコンプライアンス講習会、ならびに『八咫村神事業務改善説明会』のセッティングをお願いできますでしょうか。場所は公民館か村役場、人ができるだけたくさん集まるところが望ましいです」
「ぐ、ぬぅ……! な、なんじゃコイツは……何を言っておるんじゃ……!」
長老はズキズキと痛み出した胃のあたりを片手でギュッと押さえ、気味の悪いものを見る目で、よろよろと後ずさった。
そして見張りの男たちに「おい、お前ら、引き揚げるぞ……!」と震える声で告げると、逃げるように砂利道を小走りで去っていった。
取り残された土蔵の前。
しんと静まり返った杉林の根本で、白石ががっくりと両膝を突いた。
「ちょ……ちょっと先輩……!」
「何でしょう、白石」
「『セッティングをお願いできますでしょうか』じゃないですよ! あのババア、絶対人を集める気なんてないですよ!? 完全に『ヤバい奴に関わってしまった』って顔で逃げていきましたよ!!」
「問題ありません。アサイン(依頼)のボールは投げました。相手がボールを持ったまま帰っていった以上、午前十時の定刻になったら、こちらから直接ステータス確認に向かえばいいだけですから」
「いいだけですからぁぁぁっ!!???」
白石の絶望的な叫びが、朝露に濡れる杉林へと吸い込まれていった。
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