第1話 これで、何度目でしょうか
刺繍枠の中の布地は、まだ半分しか埋まっていなかった。
「エルシー、こちらへ」
継母グレースの声が、扉の外から聞こえてくる。
呼ばれて向かうと、グレースは長椅子に腰かけたまま、いつもと変わらない調子で切り出した。
「ノラの分、今回も仕上げておいてちょうだい。王室主催ですもの、いつもより丁寧にね」
朝の光が差し込む居間には、ノラが仕立てた縁飾りの下描きが広げられていた。
窓辺の花瓶には、庭で摘んだらしい白い花が生けてある。
長椅子の脇の卓に置かれたそれを、エルシーはしばらく黙って眺めていた。
家紋の百合を囲む蔦の意匠は、去年のものより一回り大きい。
図案そのものは悪くない。
けれど針目の間隔がわずかに揺れ、糸の張りが場所によって違う。
蔦の先端に向かうにつれて、縫い目が浅くなっているのが見て取れた。
仕上がる前の生地を見れば、最後に誰の手が通るかは分かりきったことだった。
「今回は、期限までにどのくらい時間をいただけますか」
「あなたなら、いつも通りで大丈夫でしょう。審査には殿下の後見人の方もいらっしゃるそうだけれど」
「後見人の方は、意匠よりも針目そのものをご覧になると伺いましたが」
「そうなの。だからこそ、あなたに任せているのだけれど」
グレースは布を丸めて、エルシーの手に押しつける。
そのまま、もう次の話を始めていた。
仕立て屋への支払い、当日の招待客の並び、ノラの髪飾りに合わせる石の色。
エルシーの返事を待つ様子はなかった。
「畏まりました」
短くそう答えて、部屋を辞した。
三年前の刺繍会も、去年の慈善バザーも、始まりはいつもこうだった。
布を渡され、期限だけが告げられる。
仕上がりの評判は、いつもノラの名前で回っていく。
いちばん最初がいつだったかは、もう正確には思い出せない。
十四の年、社交界に出る前のノラのために、母に代わって刺繍を手直ししたのが始まりだったと思う。
そのときは、まだ手伝いのつもりだった。
年を追うごとに、頼まれる量は増え、断るという発想そのものを、誰も口にしなくなった。
長椅子の間を出て、庭に面した回廊を歩いていると、ノラと行き合う。
「お姉様、今度のお披露目、見てくださった?」
ノラは布を抱えたエルシーの腕を見て、はしゃいだ声を出した。
「王室主催だなんて、去年までとは全然違うわ。きっとお母様も鼻が高いでしょうし、わたしも」
「ええ。楽しみにしていてちょうだい」
「蔦の先の方、少し詰まって見えるかしらと思ったのだけれど」
ノラは布の端を指でつまみ、小首をかしげてみせた。
「気になるところがあれば、いつも通りにお願いできる?お姉様が直してくださると、なぜだか急にきれいに見えるのよね」
「ええ、預かっておくわ」
「お姉様がいてくださるから、わたし針目のことなんて、もうあまり気にしなくてよくなったもの」
「今回は、いつもより早く預けてもらえると助かるのだけれど」
「大丈夫、急かさなくても。お姉様ならいつも通りにしてくださるでしょう」
そう言うと、ノラは軽やかな足取りで去っていく。
悪気があるようには聞こえなかった。
それが、かえってエルシーの手の中の布を重くした。
父の姿は、今日も屋敷にない。
領地の視察に出ていると聞いている。
娘たちの針仕事に、父が口を挟んだことは一度もない。
見ていないのではなく、見なくてよいものだと思っている。
それだけの違いだった。
自室に戻り、扉を閉めてから、エルシーは布を机に置いた。
窓の外では、庭師が来月の披露会に向けて生垣を整えている。
王室主催という言葉の重みを、この家の誰も、まだ量りきれていないようだった。
これまでの、内輪の集まりとは規模が違う。
技法を見る目を持った人間が、大勢その場に集まる。
エルシーは椅子に座り、布の上に指を這わせた。
針目の乱れを直すだけなら、半日もかからない。
いつもそうしてきたように。
けれど、今回ばかりは、その半日を差し出す前に、確かめておきたいことがあった。
引き出しの奥から、古い箱を取り出す。
中には、これまで誰にも見せたことのない下絵と試し縫いの束が入っていた。
どれも、ノラの名前で世に出た意匠の、本当の出所だった。
一枚ずつ、指でなぞる。
十四の年に描いた最初の下絵は、線が拙く、消した跡がいくつも重なっている。
三年前の刺繍会に出た小花文様。試し縫いの糸はまだ硬く、何度も解いた跡が残っている。
去年の慈善バザーに出た葉脈の意匠。こちらはもう迷いがなく、一針ごとに無駄がない。
半年前の生誕祭の分は、急な期限に追われて、夜通し針を動かした覚えがある。
花の縁取り、葉脈の運び、糸の継ぎ目の隠し方。
すべて、自分の手が覚えているものだった。
積み重ねてきた年数だけ、束は厚くなっていた。
指先に残る糸の感触だけが、その年数の証だった。
そのあいだ、褒め言葉はいつもノラに渡り、疲れた手はいつも自分のものだ。
不満だと思ったことは、あまりなかった。
家族のためだと言われれば、そういうものかと思ってきた。
けれど、その言葉を口にする側が、代わりに何かを差し出したことは一度もない。
グレースが数えているのは、招待客の並びと当日の段取りだけだ。
ノラが数えているのは、これから受け取るはずの賞賛だけだ。
エルシーがここに何を積み上げてきたかは、この家では、これまで一度も数に入っていない。
期限までにどのくらい時間をいただけますかという問いに、まともな答えは返ってこなかった。
それだけのことが、今日ははっきりと分かった。
殿下の後見人が審査に加わるという一言だけは、やけにはっきりと耳に残っていた。
これまでの披露会とは、見る目の数も、噂の広がり方も違う。
見る目の数が変われば、見過ごされ方も変わるはずだった。
これまでは、内輪の褒め言葉で済んでいた。
多少の乱れがあっても、招待客の誰も気づかなかったし、気づいても口にはしなかった。
今回は、技を測れる人間の前に、ノラ自身の手だけが差し出される。
その先に何が起きるかを、エルシーはまだ誰にも話していない。
グレースにも、ノラにも。
話したところで、聞き入れられるとは思えなかった。
いつも通りで大丈夫、という言葉が、まだ耳の奥に残っている。
いつも通り。
その言葉を、これまで何度受け取ってきただろうか。
長く息を吐き、束を閉じる。
答えはまだ、誰にも告げていない。
エルシーは、まだ誰にも見せていない下絵の束を、そっと引き出しの奥へしまった。




