足跡の少女 サラティーの街視点
小さな執務室。
デスクに腰掛け、一人の男が優雅にコーヒーを口へ運んでいた。
男の名はオーズ。
サラティー駐留軍を統括する中佐である。
戦争時代には数々の軍功を上げ、その立派な黒い髭から「黒髭のオーズ」と呼ばれた歴戦の軍人だった。
しかし戦争が終わった今、サラティーは平穏そのものだった。
緊急通信が鳴ることもほとんどなく、オーズは毎朝デスクに座り、窓の外を眺めながらコーヒーを飲むのが日課になっていた。
今日も雲一つない青空が広がっている。
「今日も気持ちのいい一日になりそうだな……」
そう呟き、コーヒーを一口飲んだ、その時だった。
コンコン。
扉がノックされる。
「入れ」
「失礼します」
入ってきたのは、秘書的な立場で補佐を務める軍曹、マービンだった。
「オーズさん、報告書をお持ちしました」
そう言って数枚の報告書を机へ置く。
オーズは紙の束を見て、小さくため息をついた。
「少ないな……最近は大きな事件も起きてない」
マービンは苦笑する。
「平和でいいことじゃないですか」
そう言いながら別の書類を手に取った。
「そういえば、グランドルではクイーンが二体同時に出現したそうですよ。」
「あっちは最近、立て続けに色々起きて忙しいみたいです。向こうの同僚も嘆いていました」
「こっちは暇すぎて、ギルドの人間までグランドルへ流れているからな」
オーズは苦笑しながら報告書へ目を通していく。
一枚。
また一枚。
そして――
ある一枚で手が止まった。
「……マービン」
「はい?」
オーズは報告書を差し出す。
「この内容は確かなのか?」
マービンは受け取り、目を通した。
「これは……」
報告書にはこう書かれていた。
**サラティー近郊にて偵察型オートマタ一体を確認。討伐済み。機体も回収済み。**
「回収した機体もありますし、内容は間違いないかと……」
オーズは腕を組む。
「偵察型は武装を持たない」
「文字どおり偵察だけを行う機体だ」
「つまり――」
オーズはゆっくりと言葉を続けた。
「この街の位置を、どこかへ送信したということになる」
その言葉にマービンの表情が変わる。
慌てて端末を操作し、過去の軍記録を検索する。
そして、一件の報告書を見つけた。
「ありました!」
画面をオーズへ見せる。
そこには、
**ある街で偵察型オートマタを撃破。**
**その三日後、大規模なオートマタ部隊による襲撃を受ける。**
**街は辛うじて防衛に成功したものの、街は半壊、多数の死傷者を出した。**
と記録されていた。
「警戒レベルを引き上げるべきだな」
オーズは低く呟く。
「念のため、グランドルにも一報入れておくか……」
そう考えながら、もう一度報告書へ目を落とす。
そして。
「……!」
オーズの目が大きく見開かれた。
「おい、マービン」
「この報告書……討伐した日付は三日前じゃないか!」
「え?」
マービンも日付を確認する。
確かに。
討伐日は三日前。
しかし報告書が作成されたのは今日だった。
通常ならその日のうちに作成され、遅くとも翌日には提出される。
つまり。
平和が続いたことで、報告業務そのものが後回しにされていたのだ。
「まずい……」
マービンは慌てて報告書を書いた隊員へ通信を入れる。
しかし。
「あれ……?」
「どうした」
「通信が……繋がりません」
オーズの表情が一変した。
「何だと?」
彼はゆっくりと立ち上がり、窓の外へ視線を向ける。
街では何人もの人々が端末を手に持ち、慌ただしく操作している。
だが。
誰一人として通信が繋がっていないようだった。
その光景を見た瞬間。
オーズは最悪の事態を悟る。
「……ジャミングか」
低く呟いたその声には、歴戦の軍人だけが持つ確信が込められていた。
「マービン」
「敵は、もう来ているぞ」
その言葉にマービンの顔が青ざめていく。
「これがジャミングなら、ケーブルで繋がっている街区放送スピーカーを使え」
「町中に緊急放送だ」
「オートマタによる急襲の恐れあり」
「全住民は直ちに避難用シェルターへ」
「軍属の者は戦闘装備を着用後、ロビーへ集合」
「ギルド所属の者にも同様に招集を掛けろ」
オーズは矢継ぎ早にマービンへ指示を飛ばす。
事態が極めて緊迫していることを理解したマービンは力強く頷くと、急いで部屋を飛び出していった。
オーズもすぐに部屋の隅にあるロッカーへ向かい、軍服から戦闘服へと着替える。
装備を整え終えると、自身の机へ歩み寄った。
そこに置かれていた写真立てをそっと手に取る。
写っていたのは、小さな赤子を優しく抱く自分の姿。
赤子は彼の一歳になる孫娘だった。
オーズは穏やかな笑みを浮かべ、その小さな頬へ指先を添えるように写真を撫でる。
「……必ず守る」
静かに呟き、写真立てを元の場所へ戻した。
その瞬間、先ほどまでの優しい祖父の表情は消え去る。
そこにいたのは、数多の戦場を潜り抜けてきた歴戦の軍人――黒髭のオーズだった。
踵を返し、迷いなく部屋を後にする。
ロビーでは、通信障害により状況を把握できない兵士たちが慌ただしく駆け回っていた。
その混乱の中、マービンの声が街区放送スピーカーから響き渡る。
緊急避難指示。
軍人への招集命令。
ギルドへの出動要請。
放送は街全体へ流れ、人々は一斉に動き始めた。
約一時間後。
軍人、ギルド所属の冒険者たちが続々と基地へ集結する。
しかし、通信障害は依然として続き、誰もが不安を抱えていた。
そんな彼らの前へ、オーズが姿を現す。
「静粛に!」
腹の底から響くような大声。
その一声だけで、騒がしかったロビーは静まり返った。
全員の視線がオーズへ集まる。
「放送を聞いての通り、この街は現在、敵の攻撃を受けている」
「通信が繋がらないのは、おそらくジャミング機能を持つオートマタが近くにいるためだ」
「外部への救援要請はできない」
「つまり、この街は――俺たちだけで守らなければならない」
誰も口を開かない。
張り詰めた空気だけが広がる。
「幸い、電波通信は使えないが、ケーブルによる有線通信は生きている」
「各員、有線通信を活用し、情報共有を徹底しろ」
さらに指示を続けようとした、その時だった。
有線通信機から激しいノイズ混じりの声が飛び込んでくる。
「こちら北東防壁、索敵班!」
「北東よりオートマタの群れ確認!」
「繰り返す! 北東よりオートマタの群れ!」
「数は……くっ、土煙で確認できません!」
焦りを隠せない報告だった。
オーズは目を閉じ、小さく息を吐く。
「……来たか」
次の瞬間、鋭く号令を飛ばした。
「全員、戦闘配置!」
「防壁シールドを展開しろ!」
その命令と同時に、兵士もギルドも一斉に走り出す。
防壁へ。
砲台へ。
それぞれの持ち場へ。
サラティーは他の街とは造りが違う。
元は千年以上前、巨大な岩山をくり抜いて築かれた軍事要塞都市。
その内部を時代と共に拡張し、人々が暮らす街へと変貌した。
天然の岩壁と堅牢な防壁。
防衛戦では他の都市とは比べ物にならないほど有利な地形を誇る。
だからこそ、五十年戦争では幾度となく敵軍を退けてきた。
しかし――
一度、防壁が突破されれば話は別だ。
街の背後には逃げ道がない。
岩山に囲まれたこの都市では、大規模な避難など不可能。
防壁が落ちた瞬間、それは街の終わりを意味する。
だからこそ。
この防壁だけは、絶対に守らなければならない。
防壁へ到着したオーズは、偵察兵が指差す先を見る。
地平線から立ち上る巨大な土煙。
その向こうは何も見えない。
だが、その土煙だけで十分だった。
あの規模。
間違いなく、大軍だ。
防壁では兵士たちが砲台の最終確認を行い、ギルドの者たちも武器を構え始める。
誰もが来るべき戦いへ備えていた。
オーズは近くに設置された有線放送用のマイクを手に取る。
「こちらは連合軍サラティー基地司令官、オーズ中佐」
「諸君、そのまま準備を続けながら聞いてくれ」
放送は防壁全体へ響き渡る。
「現在、我々の置かれている状況は最悪と言っていい」
「電波通信は使用不能。外部へ救援要請もできない」
「さらに現在、サラティーに残る戦闘人員は、戦時中の三分の一程度しかいない」
「キマイラやオートマタの出現が少なくなったことで、ギルドの人間は依頼の多い街へ移住した」
「軍も戦後、多くの部隊が祖国へ帰還している」
「そして、その隙を狙うように敵は現れた」
誰もが黙って耳を傾ける。
「この敵を撃退できなければ、この街に明日はない」
「辛く、苦しい戦いになるだろう」
その言葉に、多くの者が俯いた。
オーズはマイクを握る手に力を込める。
「……だが、それでも俺たちは戦わなければならない」
「この街には五万人を超える、戦うことのできない人々が暮らしている」
「この防壁が突破されれば、その全員が危険に晒される」
少しだけ声色が柔らかくなる。
「私事だが、俺には一歳になる孫娘がこの街にいる」
「こんないかつい顔をした爺さんとは違って、本当に可愛い女の子だ」
「最近は抱っこするたびに、この自慢の髭を思いっきり引っ張ってきてな」
「黒髭のオーズなんて呼ばれた俺も、あの子の前じゃ形無しだ」
その言葉に、防壁のあちこちから小さな笑い声が漏れる。
オーズも僅かに笑みを浮かべた。
「……あの子だけじゃない」
「この街に暮らすすべての人々が明日も笑えるように」
「軍人としてではなく、一人の人間として」
「どうか皆の力を貸してほしい」
一拍置く。
そして、力強く叫んだ。
「そして願わくば――全員で勝利の祝杯をあげようじゃないか!」
「おおおおおっ!!」
兵士も。
ギルドも。
誰一人として諦めてはいなかった。
その雄叫びは防壁を震わせ、街中へ響き渡る。
士気は十分。
あとは戦うだけだ。




