英雄の少女 後編
「セレナちゃん……!」
アディの声が響く。
その声に反応し、セレナはゆっくりと振り返った。
そして真っ直ぐアディのもとへ歩み寄る。
傷だらけのアディ。
足を痛めたドルス。
横たわるコール。
三人の姿を静かに見つめると、セレナは腰に下げていた小さなバッグを外した。
「これ、使って」
アディはバッグを受け取り、急いで中を開く。
「……!」
エーテル活性剤。
救援部隊用に持ってきた予備だった。
「コール!」
アディはすぐに駆け寄り、震える手で活性剤を打ち込む。
数秒。
苦しそうだったコールの呼吸が少しだけ落ち着いた。
青白かった顔にも、ほんのわずかに血の気が戻る。
「……よかった」
アディは胸を撫で下ろした。
安堵の息が漏れる。
その様子を、少し離れた場所からセレナは静かに見つめていた。
ドルスも生きている。
コールもまだ生きている。
アディも無事だった。
その姿を見た瞬間。
胸の奥がふっと軽くなる。
張り詰めていた何かが、ゆっくりほどけていく。
(……よかった)
(生きてた)
(本当によかった)
心の底からそう思えた。
けれど、その安堵は長く続かなかった。
胸の奥に、別の熱が生まれる。
じわりと広がる。
熱い。
苦しい。
締め付けられるような感覚。
セレナは小さく目を見開く。
(……これ)
ふと、ウェルトの顔が浮かぶ。
荷物を取りに車から飛び降りたあの日。
大事だから。
家族だから。
傷ついてほしくなかったから。
そう言われた。
その時は、言葉の意味は分かっても。
気持ちは分からなかった。
だけど今なら分かる。
もし。
ここへ来た時。
アディ達がもう動かなくなっていたら。
もし。
もう二度と笑い合えなかったら。
きっと自分も同じ顔をしていた。
胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
苦しい。
悲しい。
怖い。
そして――許せなかった。
(……心配だったんだ)
(ウェルトも)
(こんな気持ちだったんだ)
その時だった。
ズズズズズ……
岩壁を削る音が響く。
クイーンがゆっくりと身体を起こす。
砕けた外殻の隙間から白い蒸気が噴き出す。
複眼が一直線にセレナを見据える。
先ほどまで獲物を見下ろしていた眼ではない。
目の前の存在を。
"脅威"と認識した眼だった。
グォォォォォォォォォッ!!
咆哮が渓谷を震わせる。
岩壁から小石が降り注ぎ、地面が揺れる。
だが。
セレナは動かなかった。
ただ静かにクイーンを見つめる。
その背中を。
アディ達は息を呑んで見上げていた。
助かったという安心よりも先に。
今まで見たことのないセレナの空気に圧倒される。
銀色の瞳がゆっくり細くなる。
「怒ったの?」
静かな問い掛け。
クイーンは咆哮で応える。
空気が震え、大地が揺れる。
それでもセレナは一歩前へ踏み出した。
剣を握る。
「私も」
ぽつりと呟く。
「怒ってる」
その一言に。
アディは思わず目を見開いた。
セレナが。
感情を言葉にした。
それも怒りを。
セレナは真っ直ぐクイーンを見据える。
「みんなを傷つけた」
握る剣に力が入る。
胸の奥で燃える熱。
大切な人を失いたくないという願い。
傷つけられたことへの怒り。
ウェルトが自分に向けてくれていた想い。
今なら、その意味が分かる。
だから。
セレナは静かに剣を構えた。
銀色の髪が風に揺れる。
アーティファクトが低く唸り始める。
渓谷の空気が震えた。
「許さない」
その一言が落ちた瞬間。
ドゴォォォォンッ!!
セレナの足元の岩盤が砕け散った。
銀色の軌跡が、渓谷の中を駆け巡る。
斬撃。
斬撃。
斬撃。
剣閃が走るたび、クイーンの外殻が切り裂かれていく。
「ギィィィィィッ!!」
怒りと苦痛の咆哮が渓谷を震わせる。
だが――当たらない。
巨大な顎も。
無数の脚も。
尾による薙ぎ払いも。
その全てが虚しく空を切る。
速すぎる。
まるで銀色の雷。
壁を蹴り。
岩を駆け。
空中を舞い。
誰の目にも止まらぬ速度で、セレナはクイーンの死角へ潜り込んでいく。
削る。
確実に。
少しずつ。
逃がさず。
追い詰める。
クイーンの全身には、いつしか無数の傷が刻まれていた。
鋼鉄のような外殻は裂け。
隙間から体液が噴き出し。
岩肌を赤黒く染めていく。
それでもクイーンは抵抗する。
怒りに任せ、暴れるように攻撃を繰り返す。
だが――届かない。
セレナの姿を捉えることすらできない。
完全に翻弄されていた。
クイーンの意識は、もはやセレナ一人へと向けられている。
目の前を駆け回る銀色の脅威。
それに対処するだけで精一杯だった。
その光景を見つめながら、アディは思わず息を呑む。
(強い……)
知っていた。
セレナが強いことは。
だが。
今の彼女は違う。
怒っている。
感情をほとんど表に出さなかった少女が。
大切な仲間を傷つけられたことに、本気で怒っている。
「ギィィィィィッ!!」
再びクイーンが咆哮する。
巨大な顎が振るわれる。
脚が突き出される。
尾が岩壁を砕く。
しかし、その全てをセレナは紙一重でかわしていく。
壁から壁へ。
岩から岩へ。
銀色の残像だけを残しながら駆け抜ける。
そして、そのたびに。
クイーンの体には新たな傷が刻まれていく。
一太刀。
また一太刀。
確実に。
容赦なく。
クイーンは苦痛に叫ぶ。
だが、どうにもならない。
追いつけない。
捕まえられない。
ただ、一方的に削られていく。
セレナは壁を蹴り、高く宙へ舞う。
クイーンの頭上を飛び越え、その背後へ静かに着地した。
ゆっくりと振り返る。
銀色の瞳が、真っ直ぐクイーンを見据える。
「痛い?」
小さな声だった。
クイーンは低く唸る。
「でも」
セレナは剣を握る手に、静かに力を込めた。
「アディ達を傷つけた。」
「私の怒りは――」
「こんなものじゃない。」
その言葉を聞いた瞬間。
クイーンの本能が警鐘を鳴らした。
恐怖。
生まれて初めて味わう感情だった。
「ギィィィィィィィィィッ!!」
焦るような咆哮が響く。
それは怒りではない。
命令だった。
――あれを止めろ。
周囲で待機していたキマイラ達が一斉に動き出す。
蟻型。
蜘蛛型。
蟷螂型。
数十体もの群れが、セレナ目掛けて雪崩れ込んだ。
だが。
「邪魔」
その一言。
銀色の軌跡が横一文字に走る。
一体。
二体。
五体。
十体。
何が起きたのか理解する間もなく。
キマイラ達の身体が、一斉に滑り落ちた。
外殻ごと両断され。
鮮血だけが遅れて宙を舞う。
それでも群れは止まらない。
次々と押し寄せる。
だが、そのたびに銀光が閃く。
斬る。
跳ぶ。
壁を蹴る。
着地した頃には、背後で何体ものキマイラが崩れ落ちている。
まるで道を切り開くように。
いや――違う。
群れそのものが消えていく。
クイーン配下のキマイラ達は。
近付くことすら許されなかった。
目の前で。
自らの軍勢が、何の抵抗もできず斬り伏せられていく。
その光景に。
クイーンは初めて理解する。
自分は狩る側ではない。
――狩られる側なのだと。
銀色の英雄は、一切の容赦なく。
絶対的な力で。
クイーンを追い詰めていった。
セレナは止まらない。
銀色の閃光が渓谷を縦横無尽に駆け巡る。
斬る。
避ける。
斬る。
その度にクイーンの外殻は裂け、体液が飛び散る。
圧倒的だった。
つい先ほどまで。
王として。
この渓谷の支配者として。
アディ達へ絶望を与えていた存在。
その自分が。
今では、たった一人の少女に翻弄されている。
認めたくない。
認めるわけにはいかない。
だが。
本能は理解していた。
――このままでは負ける。
ならば。
ただでは終われない。
命を燃やしてでも。
あの少女だけは道連れにする。
グォォォォォォォォォッ!!
クイーンが渾身の咆哮を放つ。
その瞬間。
全身に刻まれた無数の傷口から白い蒸気が噴き出した。
ジュウゥゥゥ……
蒸気は瞬く間に熱を帯びる。
セレナはすぐに異変を察知し、大きく後方へ飛び退いた。
次の瞬間。
ボォォォォォッ!!
クイーンの全身から紅蓮の炎が噴き上がる。
燃え上がる外殻。
暴走するエーテル。
クイーンが命を削って放つ最後の切り札。
灼熱の炎は周囲を飲み込みながら激しく燃え広がる。
岩が赤く焼け。
地面が溶ける。
この炎の中へ人間は踏み込めない。
そう確信したクイーンは、燃え盛る炎の向こうを見る。
その先には。
アディ。
ドルス。
コール。
三人の姿。
あの少女は。
あの三人を守るために戦っている。
ならば。
自分が三人へ近付けばいい。
少女は必ず止めに来る。
炎へ飛び込み。
勝手に焼け死ぬ。
勝利。
クイーンはそう確信した。
だが。
セレナは静かに剣を持ち上げる。
表情はそのままに。
「ありがとう」
ぽつりと呟く。
「全部倒す手間が省けた」
その言葉に。
クイーンは違和感を覚えた。
そして気付く。
炎は。
周囲にいたキマイラ達まで飲み込んでいた。
焼け焦げた死体。
倒れ伏す群れ。
もう。
動く者はいない。
残っているのは。
自分だけだった。
セレナは静かに前へ出る。
「これで」
「おしまい」
その瞬間。
彼女の剣が姿を変え始める。
ガシャッ……
金属音。
刀身が折り畳まれ。
内部機構が展開される。
銃身が伸びる。
砲口はさらに大きく変形し、巨大な砲へと姿を変えた。
クイーンは悟る。
――今まで本気ではなかった。
なぜ使わなかったのか。
理由は簡単だった。
周囲にキマイラがいたから。
ここで全力を使えば。
エーテルを大きく消耗する。
もし撃ち漏らしたキマイラが残れば。
アディ達を守れなくなる。
だから。
あえて使わなかった。
だが今は違う。
敵は。
目の前の一体だけ。
セレナは砲を静かに構える。
「――解放」
その一言と共に。
砲口の奥で眩い光が灯る。
一点へ。
一点へ。
膨大なエーテルが圧縮されていく。
光はさらに強く。
さらに濃く。
まるで小さな太陽だった。
クイーンの本能が絶叫する。
止めろ。
あれだけは。
絶対に撃たせるな。
炎を纏った巨体が地面を砕きながら突進する。
全てを賭けた最後の一撃。
だが。
間に合わない。
セレナは静かに引き金を引いた。
世界が白く染まる。
極光の奔流。
圧縮されたエーテルが一直線に解き放たれる。
光は炎すら飲み込み。
クイーンの巨体を完全に包み込んだ。
轟音。
衝撃。
渓谷全体が激しく震える。
そして。
光が消える。
そこに立っていたクイーンは。
半身が跡形もなく消失していた。
ゆっくりと。
巨体が揺れる。
そして。
ズゥゥゥン……
大地を震わせながら崩れ落ちた。
完全なる勝利だった。
渓谷に静寂が戻る。
アディはその光景をただ見つめていた。
風になびく銀色の髪。
堂々と立つ、小さな英雄。
思わず笑みがこぼれる。
目には涙が滲んでいた。
「ほんとにもう……」
小さく呟く。
そして優しく笑った。
「かっこよすぎでしょ」




