ままならぬ体 ①
夢のなかで西の海へと行軍していく兵士達の足音を聞いていた気がする。
目を開けるとあたりはすでに明るく朝も遅い時間のようだ。常磐は飛び起きた。
「式部」と呼ぼうとして、ここは八雲ではない、暁津島だったと思い出す。
昨夜、西の海へ向かうための用意を整え、夜のうちに早くも行軍が始まった。八雲の山城に残っていた兵達と、暁津島の国軍、それに民兵の有志達だ。
門脇が暁津島の将として率いていった。老年の門脇にそんな体力があるのかと驚くが、「常磐様とは鍛え方が違いますよ」と笑っていた。
常磐もついて行こうとしたが、門脇と谷尾の二人に止められた。
休養をゆっくりとったあとでも十分追いつけるから、今夜はしっかり休めというのだ。
「私達の単独の移動と違って、行軍は時間がかかります。そんな疲れた体で焦っても無駄です」
でも常磐は、兵達を前に「私と一緒に西の海に行ってほしい」と頼んだのだ。行軍が始まっているのに、のんびりとなどしていられなかった。
それに常磐は単独でも早く西の海に戻りたい。
「常磐様、私が一緒に残ります。私だって常磐様と同じく、一刻も早く高延王のところに戻りたい。気持ちは同じです」
谷尾がそう言うので、なんとかはやる気持ちをおさえた。
「谷尾さん、絶対に私を置いて行かないでくださいね」
それでも谷尾に裏切られないかと心配で、寝所に入る前に何度も念を押した。
高延が常磐に「戻ってくるな」と言ったからだ。あの時高延は耳元に囁いたから、さすがに谷尾には聞こえていないと思うが、それでも置いていかれないか不安は拭えない。
しかし谷尾は、「安心してください」と言う。
「常磐様は私との約束を果たしてくれました。私も常磐様との約束を守ります」
そこまで言ってくれたので、やっと常磐は納得して、今夜は眠ることにした。すでに体力は限界だ。
最初にここに来た日、咲耶が使っていた部屋を借りた。
そこの居館には、咲耶に付き添うはずだった二人の女官がいて、常磐が戻るとうれしそうに世話をしてくれようとする。でももう常磐には着替えなどする気力もなく、倒れるようにして眠り込んだ。
そして一夜明けた朝。
常磐はぼろぼろの状態で目が覚めた。四日前から着たままの服は汗にまみれ、髪の毛もぐちゃぐちゃだ。
それでもゆっくり眠ったあとで気分はよかった。
「お目覚めですか?」
部屋の外から控えめな声がした。あの年若い女官、アサだ。
「起きているわ」
返事をするとアサは控えめに入ってきた。
「もうお目覚めの頃かと思って、お湯をわかしました」
となりの部屋に行くとたらいに湯が張ってある。年嵩の女官、ミワもいる。
「うれしいわ。ありがとう」
この数日、何度も身の竦むような思いをして、いやな汗をかいた。でも感動に震えて体が熱くなる瞬間もあった。
体を拭うごとにそれらがお湯のなかに溶けていく。
「谷尾さんはいる?」
昨日、谷尾もこの居館に泊まったはずだ。
「いらっしゃいます。今は朝食を召し上がっています」
谷尾が常磐を置いていくことはないと思いつつも、そう聞いて安心する。
体を拭いたあと、髪に香を焚いてもらい、きれいに梳いて結び直した。
さて着替えを、という段になりミワが出してきたのは指揮官の着る服だった。
「門脇様がこれを、と」
常磐はしばしその服を眺めた。
ずっと一兵卒の服を着て兵達を励ましてきた。でももう、常磐の役割は雑兵の格好で皆を励ますことではないかもしれない。門脇はそれを常磐に伝えたいのだろう。
常磐は素直に用意された服に手を通す。
高延の服は余分な衣をたくし込んでありもったりしていたが、この服は常磐の身丈にあっていて身軽だ。
新しく生まれ変わった気分だった。
実際、正式な譲位はまだだが、常磐はもう王女ではなく女王だ。
身支度を調えて部屋の外に出るとそれが実感できた。兵士達の態度が、王女に対するものから王に対するものに変わっている。
この里に残る兵は少なかった。大半が門脇とともに西の海に向かっているからだ。
玄関まで行って足元を整えていると、咲耶と広沢が見送りに出てきた。二人は常磐を見送ったあと王都に帰るという。
咲耶とは昨日のうちに約束していた。常磐の代わりに二人が父王のそばにいて、父を守る。それならば常磐も二人のことを応援する、と。
これまで常磐は、咲耶と広沢、二人の恋を軽薄なものに感じていた。
王女と衛士の間柄で恋など許されないことだし、お互いに自分の立場への自覚が足りないと思っていた。
正直、今でもその思いは変わらないが、だめだとわかっていても譲れない気持ちがあることも知った。
今の常磐は、高延を諦めることができない。だから広沢を諦められなかった咲耶の気持ちもわかる。
二人の気持ちが揺らぐことのない強さなのかは、これから試されるのだろう。常磐と高延もそうだ。
「咲耶、気をつけて帰ってね。伯父上達に流されないで」
「姉様も気をつけて。必ず帰ってきて」
咲耶はまた涙ぐんでいる。広沢が一歩進み出る。
「陛下、ありがとうございます。どうかお気をつけて」
「ありがとう、広沢殿。咲耶をよろしくお願いします」
二人と別れて谷尾のところへ行く。谷尾は待ちくたびれたという顔だ。
「行きましょう。だいぶゆっくりしてしまいました」
「目の下の隈がとれましたね、谷尾さん」
「お陰様で」
谷尾のそっけない対応は変わらない。
馬に乗って二人で川まで出る。橋の入口に設けられた門は開け放たれたままだ。
橋の半ばまで来た時、向こう岸でこちらをうかがう式部の姿が見えた。暁津島へ行こうかどうしようか、迷っているという感じだ。
馬の速度をあげて近づいていくと式部はこちらに気づいて安心した顔になる。
橋を渡りきってから馬を降りた。
「よかった、式部。会いたかったの」
望月からの言葉を伝えたかった。
「私もお会いできてよかったです。これからまた西の海に向かうのですか」
「はい、また行ってきます」
常磐は望月からの言葉と様子を伝えた。式部は神妙な顔で聞き、「ありがとうございます」と言う。
「暁津島が援軍を出してくれたことに、みんな感謝しています。常磐様のお陰です」
改まって式部から礼を言われるのは居心地が悪い。
考えてみると、式部は最初からムクリのことを知っていたわけだ。その対応に夫が出向いているなかで、常磐の世話をしてくれていた。
式部からすれば、常磐に対して早く高延の手をとって同盟を結び、援軍を西の海に送ってほしいと思ったことだろう。
それなのに、そんな気配は毛ほどにも見せず、常磐の心情を慮ってくれた。これまでの式部とのやり取りを思い出すと、感謝に堪えない。
礼を言うべきは常磐のほうだ。それに今やっていることは常磐にとって果たすべきことで、なにも特別なことではない。
「私は私の役割を果たしただけです。それに国を守ってくれるのは、一人ひとりの兵達ですから」
兵達だけではない。大切な人を戦地に送り出して不安に耐えている人もいる。式部のように。常磐には待つだけでなく自分でやれることがある。それは幸いなことだ。
「信じて待っていてください」
必ず守るとか助けるとか、口先だけの約束はできない。でも信じて待っていてほしかった。常磐も、高延や望月が無事だと信じる。
ずっと自分の感情を出さずにいた式部が涙を浮かべた。
「常磐様、もう行きましょう」
谷尾に声をかけられる。
「そうですね。式部、行ってきます」
常磐は式部を励ますように笑顔を見せてから、また馬に乗り込んだ。
ご無事で、という式部の声を後ろに、馬を進める。谷尾は馬を軽く駆けさせ、早く式部と遠ざかりたがっているようだ。
式部の姿が完全に見えなくなる頃、やっと馬を常歩に戻した谷尾は、「すみません」と言う。
「別れの場は苦手です」
谷尾が早く離れたがっている気がしたのは気のせいではなかったようだ。
「私もお礼を言われるのは苦手です」
と返すと谷尾は笑みを浮かべる。
「谷尾さんは変わりませんね。みんな私への対応が畏まっているのに、いつものとおり」
「不敬だということですか?」
「違いますよ。ただ変わらないなあと思うだけで」
「私から見る常磐様はなにも変わっていませんよ。あなたが王女であろうと女王であろうと変わらない。私が常磐様に最敬礼をするのは、あなたが高延王の妃になられた時だ」
高延がすべての中心になる谷尾からすると、高延の王妃でない限り、常磐はなにも変わらない、ということのようだ。
「そうですね」
常磐は新しく生まれ変わった新鮮な気分だったが、一方でなにも変わらないと言ってくれる人がいるのも悪くない。
谷尾が前を向いて促す。
「急ぎましょう。夕方までには追いつきたい」




