波紋 ①
明るい光が目の前に満ちていて、常磐は穏やかな気持ちで目が覚めた。
昨日の夜の甘い余韻が残っていて、起きてしばらくはまだ夢のなかにいるみたいに茫然としていた。
あたりは静かだった。
どうしてこんなに明るいんだろうと考えてから、やっと意識がはっきりした。
体を起こして部屋を見回す。常磐は一人だった。ずいぶんゆっくりと眠ってしまったみたいで、すでに朝も遅い時間のようだ。
高延がいつ行ってしまったのかわからないほど、常磐は深く眠っていた。
ここは自分の国ではなく、まだ和平が成立していない八雲の城だというのに、警戒の糸が切れてしまっていた。
なぜ高延は常磐を起こさず一人で行ってしまったのだろう。昨夜眠ったのが遅かったから、気を遣ったのだろうかと思いながら、服を探した。
集めた服を身につけていたら、常磐が起きたのを察したらしく、
「お目覚めですか?」
式部が声をかけてきた。
立っていって戸を開けると、式部は常磐が身支度するための用意を整えて待っていた。
「寝過ごしてしまいました。起こしてくれればよかったのに」
「高延様から、常磐様を起こさないようにと言われていたのです」
高延が指示していったということは、二人が朝まで一緒に過ごしたと式部も知っているのだ。そう思うと急に恥ずかしくなった。
でも式部は余計なことは言わない。昨日と同じように洗面の水を用意してくれ、支度を調える。
「着替えの前にお食事をどうぞ」
促されて先に朝食をとった。
食事を終えて昨日の服を着ようと思ったら、「常磐様、これを」と出されたのは自分の兵装一式だった。刀も揃っている。高延が戻してくれたのだ。
よかったと思いながら服を着る。それから式部に髪を結ってもらった。
なんとなく式部がいつもより静かだ。
「なんだか元気がありませんね。なにかあったのですか?」
聞いてみても「そんなことありませんよ」とにこやかに返されるだけだ。
常磐はこの城に来た時のように兵装をして、腰に刀を差した。いつものように髪も一つに結い上げる。
「どうですか?」
式部に見せると、やわらかく微笑んでくる。
「最初の日の常磐様ですね」
これこそが自分の姿だと思う。でもほんの少し違和感がある。同じ格好をしても今までの自分とは違っている。
服や見かけが変わったのではない。常磐自身が変わったのだ。
「高延様が広間でお待ちです。支度が整ったらお越しいただくようにと」
「わかりました」
途中まで一緒に来てくれるのかと思っていたが、部屋を出るといつ呼んだのか谷尾が待っていた。
「常磐様、どうぞ」
と促してくる。今日も谷尾がついてくれるようだ。
「では行ってきます」
常磐が言うと、式部は「行ってらっしゃいませ」と頭を下げる。
谷尾が歩き出したのでついていって、角を曲がる時ふと振り返ると、式部は部屋の前に立ったまま、まだ深く頭を下げている。なにかいつもと違う。
「谷尾さん、なにかあったのですか?」
「余計なことは言うなと言われています」
谷尾は昨日と同じくそっけない。でも聞くまでもなく、なんとなく予感がする。
黙ったまま広間に行く。入り口の手前で谷尾は止まり、この先は常磐一人で行くようにと促す。
広間に入ると正面に高延がいた。その姿を見て安心する自分がいる。高延はいつもの静かな顔だ。常磐に気づき笑顔を見せた。
そして高延の手前に見慣れた大きな背中。門脇の背だ。
門脇も常磐が来たことに気づき、振り返る。常磐を見てほっとした顔をして、座を脇によけて常磐のための場所を空けた。
高延の前なので門脇は気持ちを抑えているようだ。でも目の前に常磐が座るまで視線を外さない。まるで目を離すと常磐が消えてしまうかのように。
常磐も門脇が懐かしい。門脇と別れたのがたった三日前とは思えないほどはるか昔に感じる。
「ご無事ですか」
常磐が座につくと門脇はすぐさま聞いた。
「なにかお怪我などは?」
「大丈夫です。丁重に扱っていただきました」
常磐は門脇を安心させようと微笑んで見せた。
「それで、父からの返事を持ってきてくれたのでしょう? ずいぶんと早かったのですね」
ここから王都までは往復三日の道のりだが、高延の書状を送ったのは三日前の夕方だから、実質、二日で往復したことになる。
「返事はここにありますよ」
高延が父王からの書状を差し出してくる。朗らかな表情だった。
父からの返事は高延にとって期待するものだったのだろうか。高延にとってのいい返事、つまり、このまま常磐を嫁がせると書いてある?
常磐は急に胸の鼓動が早まってくるのを感じた。
自分が父からの返事にどんな内容を期待しているのか、はっきりしない。昨夜、高延が好きだと自覚してしまったが、まだ二人で歩む未来が思い描けない。
でももしも、父王からの許しがあるならば。
緊張しながら常磐は父の書状を開いた。そこには、
『咲耶の無礼はお詫びする。平にご容赦願いたい。しかし、代わりに常磐を差し出すことはできない。なにとぞ常磐は一度お帰し願いたい』
といった内容が、切々とした文面で書かれていた。
それは常磐が意外に思うほどの低姿勢だった。そして高延が予想していたとおりの内容でもあった。
高延はどう出るつもりだろうかと顔を上げると、やさしく微笑している。
「常磐姫、お引止めをして申し訳なかった。どうぞ、門脇殿とお帰りください」
あまりにもあっさりとした対応だった。
「いいのですか」
父王がこんなにも低姿勢な書状をよこすのは、最初に咲耶の無礼があるからだ。八雲側がこのまま常磐を妻にする、帰さないと言っても、道理は通る。
しかし高延はなんの異も唱えずに常磐を帰すつもりのようだ。
昨日まではあんなに同盟の必要性と両国をつなぐこの婚姻に対して意義を説いたのに。あんなにも常磐がほしいと口説いたのに。
なんだか突き放された気持ちだ。
常磐の戸惑いを別の意味に捉えたらしく、門脇が耳打ちしてくる。
「姫様。心配ご無用。外に姫様を慕う多くの兵達がつめかけています。姫様が八雲に囚われていると知って、皆勝手に集まってきたのです。あれだけの人数、いくら高延王でもここでむやみに手出しはしないはずです」
国境を守っている兵士達がこの城のそばまで集結しているというのだ。
こっそり耳打ちしてきたはずの門脇の言葉は、しかし声が大きいせいで高延にも大半聞こえていたようだ。
「常磐姫の人望の賜物ですね」
高延はのんきな口調だ。
「では、長居は無用。参りましょう」
門脇が立ち上がる。
高延も立ち上がり、常磐を促してくる。
なにか言ってはくれないのだろうかと思いながら、常磐は高延を見た。高延も視線を返してくる。
「外までお送りしましょう」
しかしそう言うだけだ。先に立って歩いていく。
常磐は後ろについていきながら、茫然とした気持ちだ。
これで終わり? 私はこれを望んでいたの? そんな思いが頭のなかをぐるぐる回る。
三日前も一昨日も、とにかくこの山城を出て暁津島に帰ることを望んでいた。
今は違う。高延が語った未来に心惹かれている。八雲との停戦と和平は必要不可欠だし、同盟を結ぶことの必要性も感じている。
だけど同盟を結ぶかどうか、ムクリに対抗するため戦列に加わるかどうか、判断するのは常磐ではない。王である父の仕事だ。
だからこのまま暁津島に帰って、父王の指示を仰ぐ? それでいいのだろうか?
もしも父王が同盟は結ばないと決断したら、常磐はそれをよしとして受け入れられるだろうか。
これまでは、軍事力に劣る暁津島にとって八雲との停戦と和平は必須だった。今は状況が変わっている。ムクリの脅威が加わった今、八雲にとっても暁津島との停戦と和平が重要になった、背後から襲われないために。
暁津島の臣下のなかには、八雲と和平は成しても、自分達を危険にさらす同盟を早々組むことはないと思う者もいるかもしれない。
実際、一月前からムクリの侵攻は始まっているのに、暁津島ではそれに対する議論がない。情報が公にもなっていない。
このまま常磐が八雲を出れば、同盟は成らないかもしれない。
暁津島に帰って自分で同盟の必要性を説くことはできる。でも父はともかく、芳原一族が常磐の意見に耳を傾けるとは思えない。
高延は暁津島の内情をよく知っているはずなのに、なんの約束もないまま常磐を帰そうとしている。あんなにもムクリの侵攻を憂い同盟の必要性を説いた高延が。
本当にこのままここを去っていいのだろうか?
自分がどうするべきか、どうしたいのか、気持ちが決められない。高延と言葉を交わしたい、高延の意見を聞きたかった。
でもその機会はないまま主郭の門まで来た。
この山城のなかで一番重厚な門だ。かたく閉ざされている。脇に小さなくぐり戸があって、高延の指示で開けられる。
「狭くて申し訳ないが、こちらからどうぞ」
くぐり戸の横に立って高延が促す。近付いていって、今日初めて高延と向かい合う。
「常磐姫、色々とすまなかった。私はここを出るわけにはいきませんが、谷尾が国境の橋まで送ります」
高延のそばに付いていた谷尾が会釈して、先にくぐり戸を抜けていく。
「高延様」
本当にこれで終わりだと思うと、常磐の胸に焦燥が迫ってきた。
この時になってやっと、常磐は自分が求めているものに気づく。高延に引き止めてほしいのだ。行くなと言ってほしいのだ。
しかし高延は平然とした顔だ。それどころか口の端に笑みを浮かべた。
「今こそ、あなたは自分の価値を知るはずだ」
身をかがめて常磐の耳元に囁いた。
常磐はなんと返したものか、言葉が出てこない。高延を見上げても、静かににうなずくだけだ。
苦しさに耐えられず、常磐は小さく会釈するとためらわずにくぐり戸を抜けた。




