満ちる⑤
高延は一枚の書状を見せてきた。受け取って、内容を読んだ。
それは暁津島の里と水源をめぐる争いをした、八雲の村の長が書いたものだった。内容はおおよそこんな意味だ。
『今日、暁津島から、別の水源から水を引くための工事が終わり、無事に田に水を満たすことができた。もう水をめぐって争いが起きることはないだろう、と連絡をもらいました。この工事は暁津島の第一王女の主導によって為されたものだそうですが、その王女は高延王の正妃になられると聞きました。そうあるならば、ぜひとも一度お目にかかり、ごあいさつをさせていただきたい。まずはご報告まで』
書状を読んで、常磐は思わず安堵のため息が出た。
「水が引けたのですね。よかった」
「あなたが停戦後もずっと国境あたりにいたのは、この為なのですね」
高延に聞かれて、常磐はうなずいた。
争いが起きた後、水の奪い合いになった川からではなく別の水源から水を引けないものかと水路づくりを続けていた。本当はこの山城に入った日、常磐は里で水がうまく流れるか、水路の最終確認をするはずだった。
水路の出来を確かめないままだったので、あの後どうなったのか、気になっていたのだ。ちゃんと水が流れた上、里の者はそれを八雲側にも通知してくれことを知り、常磐はほっとする。
「この書状を持ってきたのは村の若い者でしたが、あなた方、暁津島の里がしてくれたことにいたく感動していましたよ。あなたが広間に来た時、ちょうど入れ替わりで出て行った者だ。多分、すれ違ったのではないですか?」
あ、と常磐は声を上げそうになる。
「会ったと思います」
あの時、広間から出てきた農民らしき若い男に、妙に深々と礼をされると不思議に思った。あれは高延の衣のせいだと思っていたが、そうではなく、きっと常磐が誰かわかってのことだったのだ。
「これで争いの火種の一つは消えましたね。あなたのお陰だ」
そこには素直な称賛の響きがあって、常磐は恥ずかしくなる。
「やめてください。私一人でしたことではありません。みんなが作業をしてくれたからこそ、できたことです。春に間に合ってよかったです」
「春に間に合ってよかった。感想はそれだけですか」
高延は困ったような笑顔になる。
「必要だと思うからやる。あなたにとってはそれだけのことなのでしょうね。だからおれは、あなたを手に入れたくなる」
そう言って、ゆっくりした動作で近づいてきたかと思うと、高延は常磐を押し倒した。
「待って。なにもしないと言ったではないですか」
押し返そうとして、高延と目が合う。途端に常磐はぎくりとする。
さっきまで軽い調子だったのに、高延は真剣な顔だ。昼間見せたのと同じ、後悔をにじませた顔。
「なにもしません。あなたの許しがなければ、なにも。おれができるのはお願いだけだ」
常磐の上にのしかかりながら、体は触れすぎないように離している。だけど吐息がかかりそうなほど近い。
「常磐」
昼間は触れなかった高延の手が頬にかかる。
「おれは最初の日の自分を悔いています。あなたを駒として扱ったことを」
悔恨を見せる高延に、なぜだか常磐の胸はうずく。自分の胸を波立たせるこの感情の名前がわからない。
「これは同盟のためではありません。王としての言葉でもない。一人の男として言います」
真っ直ぐに見つめられて、常磐は目をそらすことができない。
「どうかもう一度、おれに機会を与えてほしい。あの夜をやり直したい。あなたとこのままで終わりたくないんだ」
すぐそばに高延の端正な顔、強い意志をたたえた瞳が常磐をとらえて離さない。吸い込まれてしまいそうだ。
「……口づけてもいいですか?」
常磐は固まってしまってなにも言えない。
「いやならば言ってください。いやだと言われれば、大人しくこの部屋を出ていくと約束します」
一瞬、いやだと言ってみたくなる。高延を試してみたい。常磐が拒めば、本当に部屋を出ていくのか。
でも実際の常磐は、いやだとは言えなかった。むしろ反対で、拒むことが怖かった。
試すまでもなく、常磐が拒めば高延はここを出ていくとわかっていた。高延が出て行ってしまうことこそ怖かった。
国にその身を捧げるべき王女の立場で、父王の許可なく自分で夫を選んではならないと思う。だけど本心では常磐もすでに高延に惹かれている。
受け入れたい気持ちと、拒絶しなければいけないという気持ちがせめぎ合って、身動きできない。
常磐がなにも言わないから、高延は困っているようだ。
「沈黙は肯定と受け取りますよ?」
そう言ったあとも高延はわずかな間ためらって、それから遠慮がちに口づけてきた。
唇が軽く触れて、小鳥のような口づけを何度かした。
次第に口づけは深くなってくる。高延の舌が唇をわってくるけど、その時にはもう常磐は拒絶できない。
気がつくと常磐は自分から高延の首に腕を回していた。高延が強く抱きしめ返してくる。
朝、衣から感じた高延の匂いが常磐を包んで、それはもう嫌悪を引き起こさない。むしろ常磐の意識を奪い、陶然とさせる。
しばらくして、高延は「続けていいですか?」と聞いた。常磐は小さくうなずく。一度受け入れてしまえば、押し止めていた分だけ感情が溢れ出てくる。
高延の熱が常磐の意識を奪っていく。
いつの間にこんなに高延を好きになっていたのだろう。自分でも不思議に思うほど高延を求めてしまう。
それからは、理性をどこかに置き忘れたのかと思うくらい、ただただ甘い一夜になった。




