四日目 法木博士の異常な偏愛
静寂という言葉では生ぬるい。重力すらも死に絶えたような学園キャンパスで、私は手にした書類の束をもう一度見つめた。
黒野工科大学――かつて、変人教授「ぼろほうき」こと法木博士が、あろうことか研究棟を爆破させた場所。あの時、退学処分になった二人は今、どこで何をしているのか。そしてこの、中心部へ向かうほどに時間が巻き戻る「壁」の異常と、彼らが起こした過去の事故には、どのような因果関係があるのか。
心臓がドクンと一つ、大きく鳴る。
私は書類を鞄の奥底へねじ込むと、車のキーを握り直した。今の私にとって、この情報はただの紙切れではない。無職の生活から抜け出し、正規職員として食い扶持を確保するための、最重要の証拠品だ。
対策本部へ戻らなければならない。
あの市長の息子であり、徹夜明けだろうと懸命にサポートしてくれる可愛い後輩――和真くんに、この新事実を共有するために。
停止したキャンパスの門を抜け、再び黒野市の市街地へと車を走らせる。フロントガラス越しに見える景色は、昨日と変わらず凍りついたままの日常だ。しかし、この街の深淵に触れた今、私の視界には確かな「手掛かり」が見えている。
(……待ってなさいよ、ぼろほうき)
車のエンジン音だけが、この世界の静寂を切り裂いて響く。対策本部の灯りが、遠くに見え始めていた。
対策本部に滑り込むと、夜勤中の和真くんが、いくつものモニターに囲まれたデスクで冷めかけた缶コーヒーを片手に資料と格闘していた。私がドアを開ける音に、慌ただしく顔を上げる。
「あ、九戸さん! ……おかえりなさい」
目の下にうっすらとクマを作りながらも、ほっとしたような笑みを浮かべる。私は黙って、大学の資料室から持ち出した古い紙の束を、モニターの影に置いた。
「これを見て。黒野工大で拾ってきたの」
「……これは大学の古い管理書類ですね……うへぇ……なんですか、これは?……学園祭当日に研究棟で爆発事故??」
私は自分の記憶の範囲で、事故のあらましと「ぼろほうき」こと、法木元教授について話して聞かせた。
「なかなか、ぶっ飛んでますね……で、九戸さんはその元教授が怪しいと?」
「そうね、憶測に過ぎないけど」
そう、憶測である。でも……
「……で、和真くん。あなたは行政のデータにアクセスできる立場よね。この『ぼろほうき』が現在どこにいるか、あるいは当時の関係者の足取りがつかめたりしない?」
私は腕を組んで和真くんを見据えた。
和真くんは少し考え込むように顎に手をやり、数枚のモニターに素早くキーボードで文字を叩き込んでいく。カチャカチャという乾いた音が、静まり返った本部に響く。
「九戸さんが持ってきてくれたこの書類や、当時の行政側に残った防災関連の記録を漁れば、法木博士のその後の足取りの痕跡くらいなら引っかかるかもしれません。ただ……」
「ただ?」
「この時間停止が起きる直前、博士がどこに向かっていたかなんて、個人のプライベートな移動記録まで市が把握しているわけないですよね。……でも、博士の『自宅』の場所なら、公的な資料に残ってます」
和真くんはそう言うと、キーボードをもう一度叩いて一つのウインドウを大きく拡大した。モニターに映し出されたのは、住宅街の区画図と、赤くピン留めされた一軒家のデータだ。
「行ってみますか、九戸さん? 博士の足取りを追うための、次のポイントへ」
私はうなずき、鞄のファスナーを勢いよく閉めた。
無職の再就職をかけた私的動機と、街の異常を解決する使命感。理由はどうあれ、足が動く人間が私しかいない以上、やるべきことは一つだ――と気負った矢先。
――キュウ……、と、静まり返った本部に、私の腹から情けない音が響いた。
「にしても……」
私は気まずそうに肩の力を抜き、お腹のあたりを軽く押さえた。
「――お腹空いたわね。いい時間だし何か食べにいこうか?」
「……ふふ、そうですね、九戸さん。腹が減っては調査もできませんし、行きましょうか」
張り詰めていた空気が一気にほどけ、私たちは静止した街での腹ごしらえに頭を切り替えた。
とは言え今の時間は深夜、すでに時計の針は12時を過ぎている。
「コンビニぐらいしか開いてないわよね」
「そうですね……まあ僕は慣れてますけど」
「あら? そうなの?」
「男の一人暮らしだとつい……」
まあ、そんなものよね。大学時代からの元カレもそんな感じだったわね。よく作ってあげたなぁ……
「寿美香さん? どうかしました?」
思わず遠い目をしていた私を見た和真くんに、心配されてしまった。何でもないのよ。ちょっと昔を思い出しただけだから。
いろいろ思い出して目が冴えてしまった私は、和真くんを手伝うことにした。
……どうやら途中で寝落ちてしまったらしい。気が付いた時にはすでに日は昇り、時計の針は12時を過ぎていた……
「……ん?……げっ、寝過ごした。てかここどこだっけ?」
見知らぬ天井、周囲から聞こえる微かな音と声。寝起きの頭を必死に回転させる。すると対策本部の女性職員さんの声が聞こえた。
「九戸さん、お目覚めですか? ずいぶんお疲れのようですね?」
「え?あ~、すいません。身支度整えたら、そちらのお手伝いしますね」
「いいんですか?」
「ええ、情報がどんなふうに纏められているのかも、見ておきたいので」
そうして、4日目は過ぎていったのだった。
……って、まてよ。私いつの間に仮眠室のベッドに?和真くんに運ばれた?どうやって??
私の脳裏に一つのヴィジョンが浮かぶ。和真くんにお姫様抱っこでベッドに運ばれる私の姿を。
……いやいや、そんなはずないよね。うん、きっとそうだ。
後日、和真くんに話を聞いて赤面することになった。
2026/09/20加筆。




