九日目 市長命令と、年下の男の子
明日で決着をつけると言ったわよね。あれは嘘よ。いや、私は嘘をついたつもりはないんだけれど。
「今日は休みにしてください。うちはどこぞのブラック企業ではないからね」
と、市長に言われてしまった。いやぁ、すっかり社畜根性が染みついてしまっていたわ、反省。
どうやら、和真くんも昨日のうちに休みを命じられ、自宅で休んでいるようだ。
とは言え、何をすればいいのやら……。
今のところ、以前ほどの残業はしていないおかげで、溜まっている家事もないし。
「それにしても、今日は暑いわね……そうだ」
例の異変のせいで忘れかけていたが、今は夏真っ盛りである。
ふと、イタズラ心が私の頭をもたげた。
私は、一度自宅へ戻り準備をすると、和真くんの家――と言っても、今回の仕事に合わせて急遽引っ越した仮住まいらしい――へと向かった。
和真くんのアパートのインターホンを押すと、「は~い、どちら様ですか?」と、若干気だるげな声が返ってきた。
「私よ~、和真くん。海行きましょ、海」
「えっ、寿美香さん?!海ですか?……水着要ります?」
何を当たり前なことを……。
夏の海行って泳ぐ以外の選択肢ある?ああ、釣りがあるか。あとBBQ。私はどっちもしないけど。
「もちろん。ほら、早く支度する!」
「は、はい!あの、今水着の持ち合わせがないので、途中で買いに行ってもいいですか?」
ふむ、健全な男子が水着の持ち合わせがないと?そういえば和真くん、インドア派だったわね。
途中で買っていきますか。
行き先は黒野市から少し離れた県外。黒野市民も訪れるそこそこ有名なビーチだ。
ただ、例の異変の影響がここにも出ているらしく、例年よりは客足が少ないようだ。
「いつもはもっと混んでるのにね。私が最後に来たのは6年前だけど」
「ああ~、ブラック企業のせいで来れなかった感じですか?」
「そういう事。ほんと、思い出しただけでも腹が立つわ」
入社1年目に大学時代の友人と行く約束してたのに……直前で有休取り消しにしやがって……
と、いかんいかん。負のオーラを出してしまった。和真くんも「やべっ」って顔するんじゃない。
着替え終わってビーチに出ると、パラソルで日陰を作り、荷物を置いてくれている和真くんの背中が見えた。
彼が選んだのは、落ち着いたカーキ色にボタニカルなリーフ柄がプリントされたサーフパンツだ。日頃はインドア派を自称し、対策本部のモニター前で夜勤ばかりしている彼だが、余計な肉がついていない、しなやかに引き締まった体躯をしている。
「おっ、和真くん。似合ってるじゃない」
後ろから声をかけると、彼は振り返り、私を見るなり顔を真っ赤にした。
「えへへ……ありがとうございます。その……寿美香さんも、すごくお似合いですよ」
視線をどこに置いていいか分からない様子で、照れくさそうに頭を掻く。
私が身に纏っているのは、清潔感のある真っ白なビキニだ。トップとボトムの縁にさりげなくフリルがあしらわれ、背中の後ろと腰の両脇を華奢な紐で結ぶデザイン。
……これ、実は6年前に買って着そこねたやつなのよね。良かった、体型が変わっていなくて。
「ふふ、ありがと。ちょっと派手すぎたかしらって思ったけど、そう言ってもらえると助かるわ」
眩しい太陽の下、少しだけ気恥ずかしさを隠しながら、私はパラソルの陰へと足を踏み入れた。
レジャーシートに腰を下ろし、持参したトートバッグから日焼け止めのボトルを取り出す。27歳、お肌の曲がり角をとうに過ぎた私にとって、夏の紫外線は命取りだ。
腕や脚に手早く塗り拡げたところで、背中に手が届かないことに気づく。
……ふむ
チラリと横を見ると、和真くんはパラソルの柱を無意味にサシサシと触りながら、未だに目のやり場に困った様子で海を眺めていた。耳の先端まで真っ赤だ。
ふふふ、それじゃ早速イタズラしちゃうぞ。
「ねえ、和真くん」
「は、はいっ!? なんでs……うわっ」
声をかけると跳ね上がるように振り向いたので、私は日焼け止めのボトルを手に持たせ、ビニールシートの上にうつ伏せると背中の紐をほどいた。
「背中、届かないから塗ってくれない?」
「えっ、えええええっ!? ぼ、僕がですか……!?」
「何驚いてるのよ。他にお願いできる人いないでしょ? ほら、頼んだわよ」
無防備に晒された私の背中を見た和真くんは、完全にフリーズし、手に握らされたボトルをまるで爆発物か何かのように握りしめている。
「……あの、その、僕の手、砂とかついてないですかね? 洗ってきましょうか?」
「大丈夫よ、綺麗だから。さ、早くしないと、私丸焦げになっちゃう」
私が悪戯っぽく微笑んで見せると、和真くんは腹を括ったように大きく息を吸い込んだ。
「……し、失礼します……」
おずおずと差し出された指先が、私の背中に触れる。
ひんやりとしたクリームの感触と、それに反比例するような和真くんの熱い手のひら。
……って、ちょっと待って。からかうつもりだったのに、緊張が伝わってきてこっちまで心臓が跳ねちゃったじゃない。
「……これくらいで、大丈夫でしょうか……?」
「あ、うん。ありがとう、バッチリよ」
慌てて背中の紐を結び直し、誤魔化すように咳払いを一つ。
振り返ると、和真くんは顔どころか首筋まで真っ赤にして、魂が抜けかけたような顔をしていた。
「さあ、次は私が塗ってあげる。うつ伏せになって」
「え、いや、僕は……」
「遠慮しない。ほら、背中向ける」
「は……はい」
真っ赤な顔のまま、私に背中を向ける和真くん。
おお……こうしてみると、なかなか逞しくて広い背中してる……。
やだ、今更恥ずかしくなってきちゃった。
きっと真っ赤になっているであろう私の顔に気づかれないように、日焼け止めを塗り終えると和真くんに声をかける。
「よし、準備万端! それじゃあ和真くん、海に繰り出しましょ!」
「あっはい」
そこで私はあることに気づいた。
和真くんが腰より深いところに入らないことに。
あれ?もしかして、もしかするの?
「あ……あのさ……もしかして和真くん、泳げない?」
しばしの沈黙。そして、さっき以上に顔を真っ赤にした和真くんが、無言でうなづいた。
「……」
「……ごめん。気づかなくて」
「い、いえ!謝らないで下さい!ちゃんと言わなかった僕が悪いんです!」
和真くんは必死に首と手を振ると、恥ずかしそうにうつむいて蚊の鳴くような声で白状した。
「あの……僕、小中高と水泳の授業がある時期は、なぜか体調を崩して見学してまして……。大学に入ってからも実験室に引きこもっていたので、泳ぎを練習する機会を完全に逃したまま、ここまで来てしまったと言いますか……」
「見事なまでのインドアエリートね……。じゃあ、マジで『泳いだ経験』そのものがないの?」
「はい……。小学校のプールで、バタ足で三メートル進んだのが人生の最高記録です」
「そっかぁ……それじゃあ」
私は彼の前に進み出ると、そっと両手を差し出した。
「せっかく海に来たんだから、三メートルの限界を突破しましょ。私が教えてあげるわ」
「えっ……寿美香さんが、ですか?」
「なに、嫌かしら?」
「い、嫌なわけないです! お願いします!」
おそるおそる伸ばされた和真くんの手を、しっかりと握り返す。
彼の大きな手のひらは、水に濡れているのにやっぱり少し温かかった。
元々頭のいい彼。しかも普段ジム通いしているとの事で、なかなかカンもよかった。道理でいい体してるわけだわ。
そろそろ帰ろうという頃には、ずいぶん形になってきていた。
「寿美香さん、ありがとうございます。僕、自信が付きました!」
「うん、和真くん上手だったよ。練習すればもっと泳げるようになるよ」
「はい、今度ジムのプールでも泳いでみますね」
「うん、それがいいよ」
「そうだ、今度一緒にジム行きませんか?まだまだ教えてもらいたいですし、その代わりと言っては何ですが、体型維持トレーニングお教えしますよ」
「そうね~この異変が終わって、無事就職出来たらね」
とまあ、そんな話をしながら帰路へとついた私たち。あれ……?
え?ジムデート誘われた?やだ、どうしよう……
ちょっとイタズラのつもりが、変なことになっちゃった。




