第9話 あかん、これはあかん
堺小夏は鞍に乗る前に安全帯を確かめた。
5月19日、火曜日。晴れ。積雲がぽかりぽかりと浮かんでいる。組替え課目の1本目だ。俺は演習場の芝に伏せて、背中に計測鞍を載せている。
小夏はしゃがみ込んで安全帯の締めを指で順番に確かめる。最後に鞍の前橋をこつんと叩いた。それから俺の首の付け根に手を当てる。
「乗せてください、やな」
声が笑っている。儀礼の形をわざわざ関西弁で整えた、そんな声だった。
「喜んで」
俺が答えると、小夏は声を上げて笑った。
「ほんまに言うんや、それ。聞いてた通りやわ」
笑いながら、ひらりと背に乗る。鞍に重みが乗って、尾の先が勝手に跳ねそうになる。今日はまだ始まったばかりだ。
小夏は鞍の上でもう一度だけ、安全帯の留め金をひとつひとつ触って確かめた。手つきが速い。迷いがない。やっぱり地上係の目だ。
「鞍よし、竜環よし、手綱よし。騎手、よし」
俺は声だけで短く指差呼称を済ませる。小夏が背中でけらけら笑う。
「おもろいなあ、あんた。ええで、行こか」
地面を蹴る。翼が空を叩いて草の匂いが遠ざかる。一気に高度を取ると、演習場が小さな緑の箱庭になった。富士山が正面で白い頂を見せている。
背中の小夏は、とにかく前へ来る。
重心が前寄りなのだ。せっかちに、前へ前へ。まるで空の向こうに何か落ちてでもいるみたいに。騎座は浅くて軽い。膝で立って座って、羽ばたきの上下を吸い込んでいる。……あ、これだ。これが竜便の座り方だ。上下を身体で受けずに膝で逃がす。竜の背を鞭のように打たない。学院の騎手はみんな鞍に深く腰を沈める。沈めてどっしり構える。それはそれで安定するんだけど、長時間飛ぶと竜の腰に来るんだよな。
前世の整備士が、俺の頭の中で静かに腕を組んだ。
いい騎座だ。実にいい。軽い。羽ばたき一打ちごとに、この子は呼吸を合わせている。吐いて、打って吐いて、打って。手綱はゆるい。でも任せきりじゃない。慣れている。指先に力が入っていない。力が入っていないというのは、つまり信じているということだ。
脚が軽くリズムを取る。とんとん、と俺の胴を叩く。鼻歌でも歌っていそうな調子で、指示のときだけ、ほんの少し脚が強くなる。俺はそれに従って翼を傾ける。
「右旋回、いきます」
「ええで」
短い。返事も短い。風が翼の隙間を裂いていく。旋回の弧を描くと、富士山がゆっくりと視界の端へ滑っていく。俺は背中で、まだ小夏の騎座を確かめていた。今まで乗せた騎手の中で、いちばん軽い騎座だ。間違いない。
「堺さん」
「なん?」
「いまの騎座、すごくいいです」
「当たり前やん。うち、鞍の上で育ったんやで」
けらけらと笑う声が背中で弾けた。その笑い声すら、羽ばたきのリズムを乱さない。この人は、飛ぶことが呼吸になっている。
旋回を一つ、きれいに閉じた。俺は翼を水平に戻して、ゆっくり高度を保つ。
軽い。乗っているのを忘れそうになる。――いや、忘れてたまるか。
小夏の笑い声が空気を震わせた。
そのとき、頭の中に声が響いた。
《忘れてたまるか、て。全部聞こえとるで》
俺の翼が一瞬止まりかけた。いや止まっていない。止まってたまるか。でも心臓は止まりかけた。あの声は小夏の声だ。間違いない。小夏の声が、耳じゃなくて頭の真ん中に直接入ってきた。
「え、いまの聞こえて……」
《ばっちりやで。おもろいこと考えるやん、あんた》
そうか。そういうことか。同調率が90%を超えたんだ。つまり俺の心の声は今、背中の小夏に筒抜けなのだ。恥ずかしいとかではない。そうじゃない。嬉しいのだ。心臓が跳ねている。尾の先が、勝手に大きく揺れる。もう止められない。
《尾、よう振るなあ。かわええやん》
《うるさいです。止まらないんです》
《なんで止めるん。うちはええと思うで》
《堺さんが軽すぎるのがいけないんです》
《軽いの褒め言葉やで。もっと言うて》
笑いが漏れた。喉の奥からくつくつと。空の上で、俺は声を上げて笑っていた。小夏も背中でけらけら笑っている。笑い声が二重になって、風に溶けていく。
小夏の「楽しい」が流れ込んでくる。それは声じゃない。もっと生の感覚だ。風の匂い、雲の白、高度が上がるたびに胃のあたりがふわっとするあの感じ。全部が俺の中に流れ込んでくる。俺の「嬉しい」も同じように小夏へ流れている。隠す気はなかった。それでいい。この空の上で、今だけは。
課目の残りを飛ぶ。急旋回、緩降下、低空飛行。どれも軽い。小夏の指示は短い。脚がとん、と叩く。それだけで俺は次の動きが分かる。まるで昔から組んでいたみたいに。いや、小夏がそうさせている。
演習場が近づいてくる。芝の緑が大きくなる。そろそろ降りる。名残惜しい。もっと飛んでいたい。でも課目は課目だ。
俺は演習場の芝に着地する。4本の足が地面を踏む。土の匂いが戻ってきた。背中の小夏は、着地の衝撃を膝で吸って、それから固まった。
「……堺さん?」
返事がない。小夏は鞍から飛び降りると、俺から数歩離れた。顔が真っ赤だ。耳まで赤い。両手で顔を覆う。
「あかん、これはあかん」
小声で、早口で、繰り返している。鞍から降りた瞬間に、頭の中の回線はぷつりと切れていた。小夏の「楽しい」も、笑い声ももう流れてこない。え、なんで。俺、なんかした?
「堺さん、どうしたんですか。俺、何か変なこと――」
「言わんといて」
指の間から黒い目がこちらを睨んだ。睨んでいるのに、顔はゆでダコみたいに赤い。俺はまばたきした。尾の先が、意味もなくぱたぱたと揺れる。止めろ。今は止めろ。揺れるたびに小夏の視線が尾に刺さる。
「……変態竜」
梶原教官が端末を読み上げた。無表情のまま、数字だけを淡々と。
「天野・堺組。同調率92%。騎乗時間92分、遅れ0.08秒」
騎科の列がどよめいた。ざわというより、ひゃあに近い。92分。あの軽い騎座が、俺の騎乗時間の記録をひとっ飛びで塗り替えていったわけだ。いや、塗り替えたのは俺じゃない。小夏だ。
少し離れて、赤茶の大型が順番を待っている。岩城剛だ。あいつは鼻から細い煙を一筋だけ出した。ふん、とも言わない。煙がそれで全部だった。それを見た小夏の顔が、一瞬だけ曇った。すぐに戻った。理由は聞かない。聞いたら負けな気がした。
「堺さん」
「鞍の締め、乗る前に1回、乗ってから1回、確かめてましたよね。竜便の人の手だ」
小夏はきょとんと俺を見た。それから八重歯の端だけ出して、眉をぎゅっと寄せた。
「……アホちゃう?」
小夏が顔の前で手をばたばたさせながら、ぶつぶつ言う。
「どこ見とんねん。変態やからって何でも見たらええってもんちゃうで」
いや、見ていたのは鞍であって小夏のどこかではない。整備の目で見るべきところを見ただけだ。なのに照れる理由が分からない。
「堺。次の竜へ」
梶原教官が端末を手に短く告げる。無表情のまま、さっさと行けと視線で言っている。小夏は「はい」と返事をして、次の組の竜が待つ場所へ歩き出した。
数歩行ったところで、小夏が一度だけ振り返った。
八重歯は見せず何か言いたそうに口をへの字に曲げている。耳がまだ赤い。視線が一瞬だけ俺の尾の先に落ちて、それからふいと前を向いた。俺はそれ以上声をかけなかった。かけたら余計に怒られそうだし、何より振り返った理由を聞くのは野暮だ。
「……変態竜か」
悪くない。
課目が終わると、俺は人の姿に戻って、演習場の端の芝で休息に入った。変身を解くと背中の重みも消えて、ちょっとだけ肩が軽い。さっきの92分がまだ耳の奥で鳴っている。
そこへ小夏が歩いてきた。もう顔の赤みは引いていて、半分冗談みたいな目をしている。
「なあ、変態竜」
「はい」
「浪速に来ぇへん?」
あまりにも軽い声だった。天気の話でもするみたいに。俺は一瞬、何を言われたのか分からなかった。浪速竜騎大学。関西の叩き上げ。さっき同調率92%を出した騎手が、その場で俺を引き抜こうとしている。
「……考えときます」
笑ってごまかした。他に言いようがなかった。小夏は「ふうん」と八重歯の端だけ出して、それ以上は詰めなかった。
「考えといてや」
ひらりと手を振ってゴウの待つ浪速の列へ戻っていく。赤茶の大型が黙って横に並び、そのまま列に紛れた。
◇
夕方の格納庫で、俺は計測鞍の手入れをしていた。革を乾いた布で拭き、金具を一つずつ指で確かめる。前世の癖だ。道具は使った後に戻す。隣の作業台では千景が飛行日誌を広げ、ペンを走らせている。顔は上げない。
「今日の、浪速の騎手は」
千景がぽつりと言った。ペンは止まらない。俺は布を置いて、金具の音を鳴らさないように気をつけながら答える。
「九十二です」
千景のペン先が紙を破った。小さな、みしりという音だった。彼女は破れた箇所を見もしない。目は紙の上に落ちたままだ。
「九十二。……記録する」




