第8話 合同演習と三人の留学生
水を張った田んぼに、富士山が逆さに映っていた。
5月18日、月曜日。浪速竜騎大学との合同演習の初日だ。
演習場には、見たことのない飛行服が並んでいた。赤と紺のラインが入った袖。背中には浪速の校章。どいつもこいつも日焼けしていて、腕の太さが学院の連中と違う。叩き上げ、という言葉がそのまま歩いているみたいだった。
留学生団もいる。北方連邦の連中は黒い外套を羽織って、竜を数頭従えていた。ヴェルナの留学生の竜は、小柄なのが多い。普段は別課程で飛んでいるから、留学生団が竜を連れてそろうのは初めてだ。
「すげえな。空気が違う」
真田がぼそりと言った。声が心なしか震えている。
梶原教官が前に出た。端末を片手に、いつもの無表情で列を一瞥する。
「本日から5日間、浪速竜騎大学との合同演習を行う。目的は実戦形式の飛行と相互評価。初日は顔合わせ。竜科は竜の姿になって鞍を付け、指定位置に並ぶこと」
短い。本当に短い。でも、これで全部伝わっているのだからたいしたものだ。
俺は人の姿を解いて、灰青の鱗に覆われた四足に沈む。背中に計測鞍が載って、安全帯が胴を締める。芝の上に伏せると、初夏の土の匂いが鼻の奥に届いた。
隣では真田が小型の竜の姿で、そわそわと翼を畳んだり開いたりしている。
「なあカケル、浪速って竜便の家の子が多いんだろ。小さい頃から荷物背負って飛んでるような連中だぞ。鞍の扱いが学院と段違いらしいぞ。俺、18分だぞ」
「落ち着け。まだ何も始まってない」
「落ち着けるか。見ろよあの肩幅。人間のうちから空飛んでますって顔してる」
「顔で分かるのか」
「分かるんだよ。俺には分かる。目が違う。こっち見て笑ってる」
俺は首を動かして、浪速の列を横目で見た。笑っている、というより値踏みしている。どれが飛べる竜か、一瞬で見抜こうとしている目だ。なるほど、あれは確かに場数を踏んだ騎手の目だ。
「まあ、知らない騎手が増えるのは悪くない」
「お前はそう言うと思った。変態だもんな」
「変態は余計だ」
風が吹いて、演習場の吹き流しを緩く揺らした。今日は風が弱い。雲ひとつない空が、富士山の上でまぶしく光っていた。
「うわ、丁寧に付けとるなあ」
声が降ってきた。弾むような関西弁だった。
首を巡らせると小柄な女子が立っていた。日焼けした肌に肩までのボブ、笑うと八重歯が見える。飛行服の袖には小さなワッペン。竜便の会社の紋様らしい。
彼女は遠慮なく俺の横にしゃがみ込むと、背の鞍をぽんと叩いた。それから安全帯の締め具合を指先で順に確かめていく。手つきが迷いない。鞍の前橋を押してぐらつきを見て、安全帯の留め金をひとつひとつ指でなぞる。
「締め、左が一個ゆるいで」
びしりと来た。前世の整備士が顔を出して、背筋が伸びる。そうだよ左の1本だけ、ほんの少し遊びがあったんだ。気づいてはいた。指摘されるとは思わなかった。
「すごいですね。そこまで見る人、初めてです」
俺が素直に感心すると、彼女は八重歯を見せてにかっと笑った。
「うち、地上係やっとったから。鞍はよう見るんよ」
彼女は俺の顔を覗き込むようにして、首をかしげた。琥珀色の俺の目と、黒い彼女の目が合う。悪戯っぽい光が浮かんでいる。
「で、その変態、なんぼ?」
「商品ですか、俺」
即答した。心の底から嬉しかった。値段を付けられるというのは、つまり相場に乗ったということだ。E判定の灰青にも、値踏みする価値があると思われた。それだけで尾の先が勝手に持ち上がりそうになる。やめろ、今は耐えろ。
彼女はけらけらと声を上げて笑った。
「おもろいなあ。うち、堺小夏。浪速の騎科2年や。あんたは学院の変態くんって呼んだるわ」
「天野カケルです。よろしくお願いします」
「よろしゅう」
小夏が立ち上がると、いつの間にかすぐ後ろに大柄な男が立っていた。坊主頭。無表情。岩のような肩幅。腕を組んで黙ってこちらを見下ろしている。
「……おう」
低い声がそれだけ言った。挨拶だろう。たぶん。きっと。
小夏が振り返りもせずに言う。
「こいつ、岩城剛。ゴウ。幼なじみで相棒や。しゃべらんけど気にせんでええで」
気にしない。でも存在感がありすぎて無理である。人の姿であの圧だ。竜になったらどれだけでかいんだ。
そこへ、足音が近づいてきた。
「……最低だ」
低い声が落ちてきた。鷲宮千景だった。俺ではなく、小夏でもなく地面のどこかを見ている。
小夏はひるまない。にこりと笑って千景を見上げた。
「鷲宮のお嬢、怖い顔せんと。せっかく可愛いのに、もったいないで」
千景は答えず、顔を背けた。
金髪の三つ編みが、ふわりと揺れた。
淡い金髪の留学生がにこにこと笑いながら俺の正面に立った。灰緑の目が、まっすぐ俺を見ている。首に赤い刺繍のスカーフ。あの子だ。入学直後の検査で、俺の背に座って笑いながらEを付けた子。ほかの騎手が顔をしかめる中、ひとりだけ笑ったまま済ませていった子である。
「レーカ・ベレーニと申します」
丁寧すぎる。礼の角度まで丁寧すぎる。俺は伏せたまま首を上げた。
「天野カケルです。よろしくお願いします」
「はい。よろしくお願いいたします」
彼女はそう言ってから、小さく首をかしげた。
「カケルさん」
まともに話すのは初めてなのに、名前である。しかも下の名前だ。え、もうそこまで進んでる? 俺の知らないところで何かが。
「わたし、カケルさんの変態、すてきだと思います」
演習場の空気が一瞬だけ止まった。
すてき。すてきと言った。この人は今、変態を褒め言葉として使った。前世を合わせても、俺は初めてその単語を長所として扱う人間を見た。
「ありがとうございます!」
本気で言った。頭の先から尾の先まで――いや尾のことは今はいい――全身で礼をした。声が裏返りかけた。裏返ったっていい。この世にひとりくらい、変態をすてきと言ってくれる人がいても。
「礼を言うな」
真田が横から即座に突っ込んだ。小型の竜の姿で、翼をいらいらと揺らしている。
黒い外套が、風もないのにひるがえった。
演習場の芝を踏む足音がやけに規則正しい。小夏とゴウが半歩ほど横へずれ、レーカが小さく「団長」と言って一歩下がった。真田が隣で翼をすくめる気配がした。
背の高い女子が俺の正面で止まった。白金の髪を低い位置でまとめ、水色の目がまっすぐ俺を見下ろしている。制服の上に黒い外套。背筋が伸びている。というか、伸びているどころか定規かなにかなのか。軍人の姿勢というより、軍人が彼女の姿勢を真似ているのだ。
俺は彼女を知っている。入学直後の検査のとき、隣の班の列から声を投げてきた女子だ。10秒ずつ騎手が入れ替わるあの検査で、俺が「喜んで」を繰り返していたあの検査の終わりに。
「竜としての誇りはないのか」
そう言った。静かな声だった。怒鳴るでもなく、呆れるでもなくただ確認するように。あの声は覚えている。
「北方連邦留学生団、団長のイリーナ・オルロワである」
名乗りが、風に乱れず落ちてきた。
「アマノ。理解できない。お前には竜としての誇りがないのか」
やっぱり静かな声だった。水色の目が、品定めでも値踏みでもなく俺という存在を正面から見ている。真田がちいさく息を呑んだ。小夏は何か言いたそうに口を開きかけて、ゴウが肩に手を置く気配で止めた。
俺は伏せたまま首を上げた。灰青の鱗が、初夏の光を受けて少しだけ白む。誇り、か。竜としての誇り。入学してから何度も問われた。E判定のたびに、尾が揺れるたびに周りが引くたびに。答えは決まっている。
「そう見えますよね」
イリーナは、瞬きをしなかった。水色の目がわずかに細められる。
「答えになっていない」
低くて平坦な声だった。外套の裾が、ようやく芝の上に落ち着く。彼女の後ろには、白銀の鱗が陽を弾いて立っている。特大型の竜だ。無表情で、こちらのやりとりをただ見下ろしている。
「はい。答えになってないですね」
俺もそう思う。思うがこれが今の俺の全部だ。誇りがないように見える。実際、ないのかもしれない。でも俺の背には鞍が載っていて、安全帯が締まっている。知らない騎手が来るたびに、心臓が跳ねる。それだけは誰に何を言われても本当だ。
イリーナは何も言わない。ただ、理解できないとその目が言っている。
千景は黙って立っていた。切れ長の目が俺の背の鞍だけを見て、それきり口を閉じている。
小夏は八重歯を見せたまま腕を組んで、どこか楽しそうに俺と千景を交互に見比べている。
レーカは首の赤い刺繍のスカーフを風に遊ばせながら、にこにこと俺の顔をまっすぐ見ていた。
イリーナは黒い外套の前を留めたまま、水色の目を一度もそらさず姿勢を崩さない。
4人が同じ場所に並ぶと、演習場の空気が勝手に薄くなる。いや、薄く感じるのは俺の気のせいだ。たぶん。
そこへ梶原教官が端末を小脇に、掲示板の前へ歩いていった。貼り出した紙を端でぱん、と叩く。
「明日からの組替え課目は学校をまたいで組む。希望は表に記入のこと」
短い。今日いちばん短い。そして今日いちばん聞きたかった。
掲示板には学院の竜の名前がずらりと並び、いちばん下の一行だけ、騎手の欄が空いている。そこには「貸し出し竜 天野カケル」とあった。俺の名前が、竜の名前みたいな顔で並んでいる。いや竜だけど。
誰もまだ表に書かない。
小夏が最初に動いた。
掲示板の前まで歩いていくと迷いなくペンを取って、「貸し出し竜 天野カケル」の欄に自分の名前を書き込んだ。ペン先が少しも止まらない。書き終えると振り返って、八重歯を見せた。
「うち、この子指名するわ。乗せてや!」
声が演習場の端まで届いた。浪速の列がどっと沸いて、学院の連中の顔が一斉にこちらを向く。指名、という言葉をこんなに堂々と使う騎手を俺は知らない。心臓がひとつ跳ねた。
小夏は満足そうに頷いていたが、ふと横を見た。
梶原教官が立っていた。端末を小脇に挟み、眼鏡の奥の目が黙って小夏を見下ろしている。怒っているわけではない。ただ、規則の位置に立っているだけの目だった。
小夏の背筋がすっと伸びた。
「――乗せてください、やな」




