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第10話 嘲笑ではない




 掲示板の組み合わせ表に、俺の名前が載っていた。


 5月22日、金曜日。晴れ。合同演習の最終日は、学校対抗の演習試合だ。表の真ん中あたりに「学院 天野・鷲宮組 対 浪速 岩城・堺組」とある。俺はその文字をしばらく眺めていた。小夏と、まさかの初戦。


 梶原教官が端末を片手に、いつもの事務的な声で規則を読み上げる。


「鱗標は背・左翼・右翼の3つ。騎杖で割る。3つ割られたら撃墜判定。1試合15分。計測鞍を使用」


 短い。無駄がない。規則の人だ。


 俺は竜の姿で演習場の芝に伏せる。背中に計測鞍が載る。金具の冷たさが鱗越しに伝わってきた。


 千景が俺の首の付け根に手を当てる。指先は少しだけ冷えていた。


「乗せてください」


「喜んで」


 声だけの指差呼称を一度、短く。


「鞍よし、竜環よし、手綱よし。騎手、よし」


 向かいの赤茶の大型の背から、小夏が声を弾ませる。


「鷲宮のお嬢、うちの92、聞いた?」


 八重歯がちらりと覗いた。千景は答えない。ただ静かに手綱を握った。その手に、力が入っているのを背中で感じる。指が白い。いつもの千景の手じゃない。握り方が違う。


 合図が鳴った。俺は地面を蹴る。赤茶の大型も同時に舞い上がった。翼が風を裂き、芝の匂いが遠ざかる。空の上で、千景の手綱がわずかに震えた。


 俺は翼を大きく広げて高度を上げていく。風が鱗の隙間を鳴らし、演習場の芝が豆粒になっていく。赤茶の大型も負けずに上昇してくる。ゴウの翼は俺より一回り大きい。体格差は正直に不利だ。だが上を取れば関係ない。


 背中で千景の騎座が沈んだ。


 一段深い。いつもの深さより指1本ぶん低い。腰が落ちて、膝が締まって胴がぴたりと俺の背に貼りつく。呼吸が羽ばたきに重なった。吸って、打って吐いて、打って。俺の羽ばたきの一打ちごとに、千景の息が動く。まるで最初からそういう生き物だったみたいに。手綱の張りは変わらない。強くも弱くもならない。ちょうどいい。いや、いいどころじゃない。最高だ。


 乗られてる。今この人に乗られてる。


 嬉しい。嬉しくてたまらない。この騎座だ。この呼吸だ。この手綱だ。千景が俺の背にいて、俺と一緒に空を上がっている。この重みが、この体温が俺の背中に乗っている。前世で空に上がれなかった整備士が、今、いちばんいい騎手を乗せて飛んでいる。こんなに嬉しいことがあっていいのか。


 その嬉しさが言葉にならないまま背中へ流れていく。俺にも分かる。手綱から、鞍から、千景の脚から、何かがじわりと染みていくみたいに、俺の気持ちが千景の方へ流れ込んでいく。これは言葉じゃない。説明できない。ただ嬉しいという塊が、俺の背中から千景へそのまま注がれていく。


 背中の千景がびくりと固まった。


 騎座が一瞬だけ浮いた。呼吸が止まった。手綱を握る指が、ぴんと張ってそれから震えた。え、なに。俺なんかまずいことした? いや、していない。していないはずだ。ただ嬉しかっただけだ。ただこの人が乗ってくれて嬉しかっただけなのに。


 千景の声が低く落ちた。


「……笑っているのか。私を」


 背中が固くなった。手綱がぐっと引かれる。俺の反応がひと呼吸遅れた。遅れた、その一拍で空気が変わった。


 違う。そうじゃない。笑ってなんか、いない。


 千景の目が鞍の小窓へ落ちる。数字を見た。それから、小さくつぶやいた。


「……七十四」


 同調率が落ちた。一瞬で。俺の嬉しさが、この人には笑い声に聞こえたのだ。見下す気配に。


 尾の先が、だらりと垂れた。力が抜けた。自分でも分かる。


 嬉しいのが、人を刺す。そんなことがあるのか。俺は空の上で、初めて怖くなった。


 背中の千景が何か言おうとして、やめた気配だけが鞍越しに伝わる。


 それでも、隠すのは嘘になる。嬉しいのを、なかったことにするのはたぶんもっと駄目だ。


 俺は声を低くした。翼は水平のまま、一拍も乱さない。


「笑ってません。嬉しいんです」


 風の音だけが残った。千景は黙っていた。手綱はまだ張っている。俺の背中から、何かを探るみたいにじっと。見下しがどこにもないかどうかを。探して、探して見つからないのを確かめるみたいに。


 俺は何も足さなかった。足せば嘘になる。ただ、羽ばたきを一定に保った。一定の、静かな打ち方で。


 千景の息が、ひとつだけ、長く吐かれた。


「……違う、のか」


 つぶやきは、風に半分溶けた。手綱を握る指の力が、ゆるみかけた。


 ゆるんで、それきり止まった。ゆるみきらない。まだ、握っている。


 小夏とゴウは、まだ俺たちの下にいた。


 赤茶の大型がぐいぐいと登ってくる。翼の一打ちが強い。風を掴む量が違う。小夏の声が大型の背から跳んできた。


「上取らせへんで!」


 俺は翼を返して旋回に入る。大型も同じ方向へ倒れ込む。だが曲がり始めが遅い。一瞬、翼の先が迷う。その一瞬で俺は内側へ滑り込んだ。大型が外へ膨らむ。


 二度、三度と旋回を重ねる。どちらも後ろを取ろうとして、取らせまいとして弧が重なる。ゴウの翼は力強い。まっすぐ飛ぶ分には俺より速い。けれど曲がるたびに一拍ある。手綱の合図が来てから翼が動くまでの、あの一拍だ。


 千景の手綱が小さく引かれる。俺の翼はもう動いている。合図と動きの間に、ずれがほとんどない。背中で千景の呼吸が羽ばたきに重なっている。


 小夏の叫びが下から届く。


「曲がり切れへん!」


 大型がまた外へ流れた。小夏の脚が忙しく叩いている。合図は出ている。出ているのに、翼が応えるまでが遅い。地上係の目は鋭いのに、ゴウの翼は正直だ。大きいということは、それだけ返すのに時間がかかるということだ。


 俺は旋回の弧を小さく描いた。内側へ、内側へ。大型が俺の後ろを追ってくる。そのたびに一拍遅れて、また一拍遅れて。


 千景が低く言った。


「次の旋回で内に入る」


 下で赤茶の大型がぐうんと旋回を始めた。大きい。旋回の弧も大きい。翼を1枚ぶん余計に使って、ゆっくりと向きを変えてくる。


「右だ」


 千景が短く言った。俺はもう翼を傾けていた。大型が旋回を終えるより先に、その内側へ回りこむ。風が唸る。赤茶の鱗が間近で陽を弾いた。


「下りろ」


 その声と同時に俺は翼を畳んで滑りこむ。すれ違いざま、千景の騎杖が閃いた。背の鱗標が乾いた音で割れる。続けて左翼。右翼。3つ、間を置かずに。


 笛が鳴った。短く、高く。撃墜判定だ。


 俺は翼を広げて体勢を立て直す。赤茶の大型はまだ旋回の途中で、ぐらりと傾いでからゆっくりと高度を落としていく。その背で小夏が騎杖を下ろしていた。悔しそうな顔はしていない。八重歯の端を出して、空を見ている。


 2騎、並んで演習場の芝へ降りた。土の匂いが戻る。俺は4本の足で着地して、背中の千景の重みを感じた。


 赤茶の大型も着地した。翼をたたむ音が重い。小夏が鞍から降りて、その背をぽんぽんと叩いた。


「よう飛んだで、ゴウ。次は全国や」


 赤茶の大型は首を小さく動かした。


「……おう」


 それだけだった。


 俺はまだ竜の姿のまま、首を低くして千景が鞍から降りるのを待っていた。安全帯を外す指がわずかに震えている。


「おつかれさまです」


 俺が声をかけると、千景は小さくうなずいた。それきり黙って、手の甲で額をぬぐう。


 梶原教官が端末を手に歩いてくる。騎科の列が静まり返った。


「天野・鷲宮組。同調率82%。騎乗時間82分、遅れ0.18秒」


 どよめきが起きた。今度は「ざわ」のほうだ。火曜の92には届かないが、試合で82。千景の指先がまだ震えている。


「岩城・堺組。同調率54%。騎乗時間82分、遅れ0.46秒」


 赤茶の大型が鼻から煙を吐く。


 騎科の列から、学院の騎科の女子が小声で言った。


「82って、あの鷲宮さんが?」


 ざわ、と列が揺れた。声にはしない。でも空気が動く。千景は背筋を伸ばしたまま、顔だけは上げない。


 小夏が鞍を外したゴウの横から歩いてきた。ひらりと手を振って、千景の前に立つ。顔をのぞき込むようにして、軽い調子で言った。


「鷲宮のお嬢、82かあ。うちの92にはまだ届かへんな」


 千景は小夏を見ない。視線を正面に置いたまま、短く答えた。


「……次は越える」


 小夏は八重歯を見せず、目だけで笑った。それから楽しそうに肩をすくめる。


「待っとるで」


 それだけ言って赤茶の大型の横へ戻っていく。悔しさは見せない。見せないのが、この人の流儀なのだろう。


 千景は動かない。拳を握った左手が、右手の指を隠すように重なっていた。


 変身してから25分か。残りは57分。まだ飛べる。いや、飛ぶ理由はもうない。だが体は正直で、翼に力が残っていた。


 首を千景のほうへ向ける。千景は顔を上げない。俺は声を低く整えて言った。


「鷲宮さん。右の拳、旋回のとき指1本ぶん上がります。俺は合わせられるけど、他の竜なら遅れます」


 千景は少し黙った。目だけが動いて、自分の右手の指へ落ちる。指はまだ白い。


「……記録する」


 その声は、空の上で手綱を握っていた声より、いくぶん小さい。


 そのとき、演習場の端がにわかに騒がしくなった。見ると、監視塔の上から笑っていたあの4年の騎手が、梶原教官に近づいていく。袖をまくった飛行服。日焼けした腕。彼女はまっすぐ俺を指さした。


「あの子、4年の実習に貸して」


 声が風に乗って届く。俺は尾の先がぱたりと揺れるのを感じた。今、このタイミングで言うか。それも、こんなに明るい声で。


 梶原教官が端末から顔を上げる。


「霧島」


 俺はその名前を、このとき初めて知った。


◇


 その夜、消灯前の格納庫。俺は人の姿で、入り口の横に貼られた来週の予約表を眺めていた。


「……すごいな」


 枠のほとんどが鷲宮の名前で埋まっている。月曜の朝から金曜の夕方まで、びっしりと。几帳面な字が同じ間隔で並んでいて、もはや芸術品の域だ。これはこれでちょっと怖い。


 その中で、来週の月曜の午後の枠だけ、見慣れない字がひとつ紛れていた。丁寧すぎる。一画ずつ止めて、払って、教科書をそのまま写したみたいな字だった。


 俺は顔を近づけた。


「どうか、乗せてくださいますか――レーカ・ベレーニ(計測鞍を希望)」

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