第11話 好きと言いながら七十二
月曜の朝、格納庫の予約表の前に、鷲宮千景が立っていた。
俺と真田は、その横で朝の点呼を待っていただけだ。彼女の視線が、月曜午後の枠に釘付けになっている。
あの丁寧すぎる字だ。レーカ・ベレーニ。一画ずつ止めて、払って、教科書をそのまま写したみたいな字。
千景は黙ってそれを見つめていた。目が、文字の上をゆっくり動く。何かを読み取るように。あるいは、測るように。
ややあって、彼女は筆箱を取り出した。ぱちん、と留め金を開ける音だけが響く。中から銀の定規を抜いた。
迷いがなかった。定規の端を自分の名前が並ぶ枠の左端に当てる。それから右へ、すっと。
――まっすぐな線が、1本。
鷲宮千景の名前の横に、細く鋭い線が引かれた。
千景は定規を筆箱に戻すとぱちん、と閉じた。こちらを見ない。俺のことも、真田のことも予約表のことも。ただ背筋を伸ばしたまま、格納庫の奥へ歩いていく。
結んだ黒髪が、風にわずかに揺れた。
隣で真田が、ひゅ、と息を呑む。
「……線引いた」
小声だった。
俺は予約表に顔を近づけた。
線は、鷲宮千景の名前が並ぶ枠と、月曜午後の枠の境に引かれていた。こちら側が彼女の領土だと言わんばかりの、まっすぐな線だ。
――予約表に国境を引くな。
心の中でツッコんだ。声には出さない。
線の外には、月曜午後の枠だけが残っていた。レーカ・ベレーニ。あの丁寧すぎる字が、ぽつんと取り残されている。
「なあ、あれ怒ってる?」
隣の真田に小声で聞く。真田は俺の顔をまじまじと見てから、声をひそめて言った。
「お前は狂ってる。見りゃ分かるだろ」
◇
午後の枠の5分前。格納庫の前は薄曇りで、南からの湿った風が首筋を撫でていった。こんな日は翼が重い。
レーカ・ベレーニは時間より少し早く来た。淡い金髪の三つ編みが風に揺れている。首の赤い刺繍のスカーフを片手で押さえて、俺の前でまっすぐに立った。
「カケルさん。本日はよろしくお願いいたします」
丁寧に頭を下げる。角度まで教科書どおりだ。真田が横で腕を組んでそれを見ている。お前は見学だろ、と思うが口には出さない。俺は苦笑いを返した。
「よろしくお願いします。……計測鞍、珍しいですね。予約の自由練習は旧型の共用鞍のはずですけど」
「はい。わたしの国では、記録を大切にすると教科書に書いてありました」
レーカは微笑んだ。灰緑の目がきらきらしている。真田が小さく「……教科書」とつぶやいた。聞こえていないふりをするのが大人の対応というものだ。
「記録を残すと、次に活かせるとそう書いてありました。ですので、計測鞍を希望しました。だめでしたか?」
「いや、だめじゃないです。むしろ助かります。数字があると合わせやすいので」
俺はそう答えて格納庫の端へ歩いた。芝の上で一呼吸置いて、ぐっと背を伸ばす。骨が組み替わる感覚は何度やっても慣れない。ぐきり、と関節が鳴って視界が広くなる。
灰青の鱗が薄曇りの光を鈍く返した。俺は前脚を揃えて芝に置き、翼を畳んで伏せた。真田が少し離れた位置で見ている。お前、本当に見学だけか。
当番の地上係が台車を押してくる。上級生だ。無駄口を叩かない人で、てきぱきと計測鞍を俺の背に載せた。
「鞍、下げます」
声と同時に胴の帯が締まる。係の人が帯に指を2本入れて、締まりを確かめる。それから安全帯の金具をひとつずつ、順番に留めていく。かちかち、という乾いた音が4つ。最後に鞍の前橋をこつんと叩いた。
「鞍よし。どうぞ」
レーカが俺の横に立った。三つ編みの先が風に揺れている。赤いスカーフが、彼女の呼吸に合わせてわずかに上下した。俺は首を少しだけ巡らせて、その様子を横目で見た。
レーカの手が俺の首の付け根に当てられた。ひんやりして、少しだけ湿っている。緊張しているのか、指先がかすかに震えていた。
「どうか、乗せてくださいますか」
「喜んで」
俺が答えると、レーカは目を細めて笑った。それから鞍にまたがる。深い。とにかく深い騎座だ。腰がすとんと落ちて、膝が俺の胴をがっちり挟む。学院の騎手が沈めるのとは質が違う。沈めて、なお脚が生きている。大地を掴むみたいに。
手綱は握らない。腰の環にひょいと掛けた。おいおい。それでいいのか。いいんだろうな、この人は。
「鞍よし、竜環よし、手綱よし。騎手、よし」
声だけで済ませる。レーカが背中で小さく「わあ」と言った。指差呼称に感動されても困る。
ふと、背中から声が聞こえた。小さい。風に溶けそうな声だ。
知らない言葉だった。ヴェルナ語だろう。柔らかい母音が続く。数を数えている。それだけは分かる。指を折る気配が背中越しに伝わってくる。
数える声が、少しずつ速くなる。俺は脚に力を溜めた。芝を掴む。翼の付け根がきしむ。
声が止まった。数え終わったのだ。俺は芝を蹴り放した。
翼が空を叩く。湿った空気が羽ばたきのたびに重くまとわりつく。それでも高度はあっさり取れた。南風が横から押してくるから、翼を少し傾けて流れに乗る。
背中のレーカは、ぴたりと吸いついていた。
深く沈んだ騎座が俺の胴の動きを全部拾う。羽ばたくたびに、彼女の膝がぎゅっと締まって、下がるときにふっと緩む。ぎゅ、ふわ、ぎゅ、ふわ。そう、これだ。お手本みたいな扶助だった。
右へ旋回しようかと思った瞬間には、もう彼女の重心が右に傾いでいる。内側の膝が少しだけ締まり、外側の脚が軽く押してくる。言葉じゃない。でも「右だ」と確かに言われた。
俺は翼を傾ける。視界が斜めに傾いで、薄白い空と湿った芝が流れていく。旋回はきれいに決まった。手綱なんてないのに。膝だけで、ここまで言えるのか。
上昇の指示も小さかった。両脚が同時にぎゅっと締まる。ぐっと尾で空を蹴って翼を打つ。高度がぐんと上がる。胃のあたりがふわっとなる。背中のレーカも、息をそっと吐いた。
「待て」のときは、膝がふっと離れた。力が抜ける。まるで「好きに飛んでいいよ」と言われているみたいな、そんな緩さだった。俺は羽ばたきを止めて滑空に入る。風の音だけが耳の横を流れていく。
すごい。俺は素直にそう思った。騎座も膝も重心も、ぜんぶ俺に合っている。外から見たら何も合図していないように見えるだろう。真田なんか地上で首をかしげているに違いない。なんであれで曲がれるんだ、って顔をしているぞ、きっと。
でも、ひとつだけ。
呼吸が浅い。
背中越しに、レーカの息づかいが伝わってくる。吸って、止めて細く吐く。浅い。速い。羽ばたきと全然合っていない。こんなに膝でリズムを取れているのに、息だけが置いていかれている。
そのとき、背中から声がした。
「好きです」
風に消えそうな声だった。
「カケルさんの、飛び方」
俺は羽ばたきをひとつ、忘れた。
「ありがとうございます。そう言ってもらえると、ちょっと調子に乗ります」
俺は翼を水平に戻して緩やかな滑空に入る。背中のレーカが小さく笑った。その笑い声は、まだ少しだけ硬い。
「カケルさんは、変身は何歳からですか」
「15です」
「15歳。すてきです」
感心したような声だった。それから少しも間を置かず、続ける。ほめ言葉と質問が交互に来る。まるで教科書の章を順番にめくっているみたいだ。
「ご家族も竜なんですか」
「父が小型の竜です。竜便の集配所で働いてます」
「まあ。すてきです」
背中でレーカが身を少しだけ前に倒した。興味を持ってくれたのが分かって、俺は素直に嬉しくなる。
「お父さまも、空を飛ぶのですね」
「いや、地上の仕事です。荷物の仕分けとか。俺より働き者です」
レーカがくすくす笑う。膝は相変わらず正確だった。
でも。
その笑い声のあと、彼女の息が細くなった。
質問に答えるたびに、呼吸が浅くなっていく。さっきより速い。膝は寸分も狂わないのに、息だけがどんどん置いていかれる。
膝がしゃべってる。手綱を使わないのに、言いたいことが全部わかる。
……なのに、息だけが嘘をついている。
予約の30分が来て、俺は格納庫の前の芝へ降りた。
着地の衝撃を後ろ脚で抜く。翼を畳むと、湿った空気が鱗の隙間から抜けていった。背中のレーカが安全帯の金具をひとつずつ外していく。かち、かち、という音がやけに遠い。
鞍から降りた彼女は、俺の首の付け根に手を当てたまま、しばらく動かなかった。
「ありがとうございました。好きな飛び方でした」
声はちゃんと整っていた。呼吸だけが、まだ浅い。
当番の地上係が端末をのぞき込む。無表情のまま、数字をひとつずつ読み上げた。
「天野・ベレーニ組。同調率72%。騎乗時間72分、遅れ0.28秒」
地上で見ていた真田が、腕を組んだまま首をかしげる。
「……鷲宮さんの初回より低い。好きって言ってたのに?」
俺は何も言わなかった。言えるわけがない。空の上で「好きです」と言われて、それで数字が跳ねるほど単純な仕組みなら誰も苦労しない。
変身してから30分。残りは42分。俺はそれだけを数える。
レーカは黙ってスカーフの結び目を直している。指先がわずかに震えているのが見えた。呼吸はまだ整っていない。膝はあれだけ正確だったのに、地上に降りたとたん彼女の全部が小さくなる。
真田が隣で、まだ納得いかない顔をしている。俺はそいつの脇腹を尾の先で軽くつついた。やめろ、それ以上掘るな。
俺は首をレーカのほうへ向けた。
「ベレーニさん。ひとつだけ」
レーカが顔を上げる。灰緑の目がまっすぐ俺を見た。呼吸はまだ浅い。
「ベレーニさんの膝、すごいです。手綱なしで全部伝わる。俺、今日初めて膝で会話しました」
言い切ってから、付け足す。
「楽しかったです。本当に」
レーカの呼吸が一瞬だけ止まった。すっと細くなって、それから首の赤いスカーフを指に巻きつける。きゅ、と布が撚れる音がした。三つ編みの先が風に揺れて、彼女はうつむいた。
数秒。
やがて顔を上げた。笑っていた。目が少しだけ潤んでいたけれど、それはきっと風のせいだ。
「……ありがとうございました。とても、すてきでした」
丁寧に頭を下げる。まっすぐな礼だった。それから三つ編みを跳ねさせて、くるりと向きを変える。
彼女は芝を踏んで、留学生寮のほうへ歩き出した。赤いスカーフの端が、歩くたびにひらりと揺れる。
真田が隣で、ぽつりと言う。
「……なあ、あれでいいのか」
「いいんだよ」
俺は首を伸ばして、その背中を見送った。小さくなる三つ編みが、途中で一度だけ止まった。振り返るかと思ったが、振り返らなかった。また歩き出す。やがて格納庫の角に消えた。
◇
寮の部屋の窓を湿った風が通っていく。俺は二段ベッドの下の段で天井を見ていた。消灯まであと少し。上の段で、真田が寝返りを打つ。
「お前、ほめてばっかだったな」
真田の声はもう半分眠っている。俺は腕を頭の後ろで組んだまま、天井の木目を追いかける。
「ほめるとこしかなかったから」
「ふうん」
それっきりだった。数秒後、上の段から規則正しい寝息が聞こえてくる。早い。お前、切り替え早すぎだろ。
ひとりになると、昼の72が戻ってくる。空の上で「好きです」と言った声。膝は全部本物だった。右も左も上昇も待ても、正確で、でもちゃんと俺に合っていた。すごい騎手だと思った。
なのに、息だけが合っていなかった。
あの浅い呼吸が、背中越しにずっと残っている。好きだと言った声と、端末に並んだ数字がどうしてもひとつにならない。
責める気にはならない。少しだけ、寂しい。
むしろ、もっと飛んでみたいと思う。あの膝と、ちゃんと呼吸の合った空を。そうしたら数字はたぶん跳ねる。でも、それを言うのは野暮だ。彼女が何を数えていたのか、俺は知らない。
前世の整備士が、頭の隅でつぶやく。不調の原因は、たいてい計器の裏にある。
数字は嘘をつかない。でも、壊れた理由を先に探すのが整備士だ。
◇
留学生寮の部屋は暗かった。
ベッドの上でレーカ・ベレーニの端末が青く光った。伏せた顔の横で、画面に北方連邦の言葉が短く一行だけ浮かんでいる。
『接触は成功か』




