第12話 整備場の主
目が覚めたら、窓の外が白かった。
午前4時半。前世の癖で、俺の体はこの時間になると勝手に起きる。上の段の真田はまだ寝ている。
俺は二段ベッドの下の段から抜け出して、そっと部屋を出た。
霧が濃い。竜科寮の裏口を抜けた俺は、白い闇の中を歩いていた。10歩先がもう見えない。靴の音だけがやけに近くで跳ねる。
格納庫の横を通り、整備場へ向かう。貸し出し竜の俺の竜環は、夜のあいだあの建物の壁に掛けてある。それを自分の目で見ておきたかった。理由は、なんとなく。前世の整備士の癖だ。道具は、朝いちばんの目で確かめる。それだけだ。
霧がひとかたまり、風もないのにゆっくりと流れた。
整備場の裏口の戸が小さく鳴った。
ギ、というより、ため息みたいな音だった。俺は足を止めた。裏口から誰かが出ていく。背格好も顔も、白くて見えない。ただ足音だけが遠ざかっていく。やわらかい、土を踏む音。革靴ではない。運動靴か、あるいは作業靴か。
こんな時間に?
心の中でつぶやいて、俺はそれ以上追わなかった。追いかける理由もない。足音はあっという間に白い幕の向こうへ消えた。
それから、ゆっくりと整備場の表の戸の前へ回る。古い木の戸。取っ手は真鍮で、霧の粒がびっしりと付いている。建物の中から音はしない。
戸は閉まっていた。壁の向こうで、俺の竜環が静かに夜を越えている。
「おい」
背中からしわがれた声がした。
振り向くと、霧の中に小柄な老人が立っていた。白髪を短く刈って、革の前掛けを締めている。手には鍵束。鞍油で黒くなった太い指が、じゃらりと金属を鳴らした。
「こんな時間に何しとる。学生の来る時間じゃねえずら」
「竜科1年の天野です。自分の竜環を見に来ました」
老人は俺の顔をじろりと見た。それから顎を上げて、もう一度見た。疑うというより、測っている目だ。
「……駒井だ。ここの鞍を見とる」
駒井は鍵束から1本選んで、表の戸を開けた。ぎいと木が鳴る。中から鞍油と革の匂いがふわりと流れ出てきた。
「入れ」
整備場の中は薄暗かった。作業台、鞍架、壁に並ぶ道具。奥の壁に俺の竜環が掛けてある。その下の鞍架に、俺が昨日使った共用鞍が載っていた。
「さっき、裏口から誰か出ていきました」
俺が言うと、駒井の手が止まった。鍵束がちり、と鳴る。
「……裏は閉めとるはずずら」
それだけ言って、駒井は裏口のほうを一度だけ見た。それっきり、その話はしなかった。
俺は壁の竜環を見上げる。薄暗い。電灯はまだ点けていない。掛かったままの輪の形だけが、ぼんやりと壁に浮かんでいる。それを目でなぞって、うん、よし、とする。手には取らない。
駒井が、のしのしと作業台のほうへ歩いた。前掛けの革がこすれて、かさ、と音がする。彼は台の前に立つと、壁の竜環を指さした。鞍油で黒い太い指が、薄闇の中でゆっくり動く。
「この金具、なんて呼ぶ。言えにゃ帰れ」
唐突だった。しかも有無を言わさない。俺は姿勢を正した。朝4時半の試験は心臓に悪い。
「竜環の割りピンです」
指が鞍へ移る。
「吊り革です。鞍と安全帯をつないでます」
指が帯の端で止まる。
「安全帯の止め金具です」
駒井はうなずきもしない。ただ次の動きへ移るだけだ。棚のほうへ歩いて、古い吊り革を1本取り出した。革は黒ずんで、金具はくすんでいる。彼はそれを俺の前に置いた。
「これは使えるか」
俺は答えに詰まらない。詰まらないどころか、口が先に動く。前世の癖だ。整備の話になると、この口は止まらない。
「使えません。穴の周りが楕円に伸びてます。これ、金具が片減りしてる証拠です。あと油の塗りすぎです。革が泣いてます。艶が出てるのはいい状態じゃなくて、油が浮いてるだけです。乾拭きして、陰干ししてそれでも革が固まってたら終わりです。吊り革は消耗品ですから」
言い切ってからはたと我に返る。やばい、やりすぎた。試験の答案用紙の裏まで書くタイプだ、俺は。
駒井はしばらく俺の顔を見ていた。それから、鼻の奥でふんと鳴らす。
「……しゃべりすぎずら」
整備場の中に鞍油と革の匂いが満ちていた。甘いような、苦いようなあの匂い。前世の夜の格納庫を思い出す。夜勤明けの、誰もいない時間。機体の影でひとり、油の匂いを嗅ぎながら「今日も飛べなかったな」と思う朝。懐かしくて、少し痛い。なのに顔がゆるむ。整備オタクの性だ。この匂いを嗅ぐと、体が先に嬉しがる。
駒井が、変なものを見る目で俺を見た。
「……ちっとは見る目があるだら」
それだけ言うと、駒井は古い吊り革を棚に戻した。白い霧が、まだ窓の外を流れている。
表の戸が、もう一度ぎいと鳴った。
霧が一筋、薄暗い床の上へ流れ込んでくる。その白の中に、背の高い輪郭が立った。
鳳玄一郎だ。
背は曲がらない。禿頭に白いあごひげ。76歳の老竜は、散歩のついでとでも言いたげに、ふらりと敷居をまたいだ。
「源さん。茶はあるか」
駒井は顔も上げずに答えた。
「玄さんの分なんかねえに」
そう言いながら駒井は棚から湯呑みを2つ出した。手慣れた動きだ。湯を注ぐ音が、しんとした整備場に静かに響く。鳳はそれを見ると、壁際の椅子にどっかりと腰を下ろした。
鳳の目がぴたりとこちらで止まった。
「……小僧か」
たったそれだけだ。俺は慌てて背筋を伸ばすと、深く頭を下げた。
「鳳先生。おはようございます」
鳳は答えない。顎で空気を切るように、ちらりとだけ首を動かした。それきり、湯呑みへ手を伸ばす。
……え、ちょっと待て。
鳳先生と駒井さんが知り合いだったのか。しかも「源さん」「玄さん」だ。互いをそう呼ぶ距離。こんな朝早くに、ふらりと茶を飲みに来る距離。
俺は黙って2人の顔を見比べた。
2人の間には、説明なんてものは端から存在しないみたいな空気だけがあった。
俺は口を開きかけて、やめた。聞いたら野暮だ。いや、野暮どころかたぶん怒られる。
湯気だけが、白く立ちのぼっていく。
鳳が茶を飲み終えて帰り、窓の外がだいぶ明るくなったころ、霧が薄れはじめた整備場に男がひとり入ってきた。細身で、目が落ち着かない。両手には作業用の手袋。俺を見るなり、聞かれてもいないのに早口で言う。
「御堂さんの鞍を取りに来ただけだろ?」
言い訳みたいな口調だった。俺は軽く会釈だけした。作業台から駒井の声が飛ぶ。
「蛭間、また来たか」
顔も上げない。声だけで来たなと言っている。蛭間は肩をすくめると、壁際の鞍架へ歩いていった。蛭間。そういう名前だったのか。竜科1年。御堂冬馬の取り巻きで、いつも半歩後ろを歩いている顔だ。
蛭間は鞍架から黒い鞍を下ろした。抱える手つきは丁寧で、指の先に妙な慎重さがあった。作業用の手袋の甲がつっぱっている。緊張しているのかもしれない。あるいは鞍が重いのか。
そのとき、蛭間の目が一瞬だけ動いた。
その先は、俺の共用鞍が載っている鞍架だ。ほんの一瞬。見たかどうかも分からないくらいの速さだった。でも確かに、あの目はあっちを見た。俺はそれを見た。
蛭間は俺のほうを向くと、口元を歪めて言った。
「E判定が朝から何してんだよ」
鼻で笑って、蛭間は黒い鞍を抱え直した。
「御堂さんも笑ってたぜ。貸し出しの竜が朝練かよって」
「そう見えますよね」
蛭間の口元が止まった。拍子抜けした顔で、ちっと舌を鳴らす。それきり背を向け、鞍を抱えたまま戸を押し開けて出ていった。
足音が遠ざかる。土を踏む音。やわらかい。決めつけるな。目が動いただけだ。誰だって隣の鞍くらい見る。
駒井が作業台からこちらをちらりと見た。
「知り合いか」
「顔だけです」
駒井はそれきり、湯呑みをひと口すすった。外はもう明るい。霧が白いまま光っている。
遠ざかる足音は、もう聞こえない。
◇
午前の枠は、騎科2年の騎手だった。
昼を挟んで、午後の枠。鷲宮千景。空は霧が晴れて、やけに青い。
俺はまた格納庫の前の芝に伏せている。灰青の鱗が日差しを鈍く返す。地面が温かい。腹這いにはちょうどいい季節だ。
台車の音が近づいてきた。当番の地上係が旧型の共用鞍を運んでくる。同調計のない、革の剥げたやつだ。
そこへ千景が来た。
彼女は台車の前に立つと何も言わずに手を上げた。地上係が押すのを止める。千景は鞄を開けて、小さな鞍油の瓶と布を取り出した。
前の騎手が座った座面を磨き始める。
黙々と。きっちり端まで。鐙の革も、穴のところまで丁寧に拭いていく。指の動きに迷いがない。右手の古い擦れ跡が、布を握るたびに白く浮かんでは隠れる。
俺は見ないふりをした。雲でも数えていようと思った。なのに尾の先が勝手に揺れる。ぱた、ぱた。止めろ。今は止めろ。
「……揺らすな」
千景が布を動かしたまま言った。顔は上げない。
「すみません」
俺は尾を地面に押しつけた。しばらくして、また揺れた。
磨き終わると、千景は布と瓶を鞄に戻した。地上係が黙って鞍を俺の背に載せる。帯が締まる。金具が4つ鳴った。
千景の手が首の付け根に触れる。
「乗せてください」
「喜んで」
千景が背に乗る。深い騎座。そこから動かない。
「鞍よし、竜環よし、手綱よし。騎手、よし」
俺は短く指差呼称を済ませた。手綱が張る。ゆるまない。いつもどおりだ。
飛ぶ。風が翼を裂いていく。千景の脚は静かで、指示は短い。「右だ」「上がれ」「待て」。短い声に、俺はそのまま従う。背中の重みが、妙に落ち着く。
嬉しかった。理由はうまく言えない。磨かれた鞍の匂いのせいかもしれない。その嬉しさが、言葉にならないまま背中越しに少しだけ流れていく。
手綱の張りは、最後まで少しも変わらなかった。
30分。俺は芝に降りた。
千景は鞍から下りると、帯の締まりを自分の手で確かめた。指を2本入れて、一度だけ頷く。
「……記録する」
それだけ言って、彼女は格納庫のほうへ歩いていった。
◇
夕方、日が富士の肩にかかるころ、俺は人の姿で整備場の前にいた。
西日が整備場の壁を橙色に染めている。俺は中の壁から自分の竜環を外して、表へ持って出た。指差呼称の練習のつもりだ。声に出して、部品をひとつずつ見ていく。
「竜環よし」
環そのものは問題ない。手綱を通す金具も、留めの座金も指の腹で撫でて確かめる。俺は最後に残った割りピンを西日に向けて掲げた。
光を受けたピンの付け根に、細い一筋が走った。角度を変えると消える。もう一度、光に当てる。ある。爪の先でなぞると、かすかに引っかかる。1ミリの切れ目。自然にできる傷じゃない。これは――刃物の跡だ。
切れ目は軸を横切っている。浅い。でも、ちょうど折れやすい所に入っている。
背中が冷えた。
今日、この環で2回飛んだ。午前と、午後。午後は鷲宮さんを乗せていた。
飛ぶ前に言った。「竜環よし」。
朝も、壁の環を見上げて「よし」にした。
見たつもりだった。
霧の中の、やわらかい足音。鞍架のほうへ一瞬だけ動いた蛭間の目。同じ人間かどうかは、決めつけない。決めつけられない。
俺は竜環を握りしめた。手のひらが少し湿っている。
「……誰だ」




