第13話 指差呼称
西日が整備場の壁を橙色に染めていた。俺は割りピンを西日に掲げたまま、もう一度爪の先で切り込みをなぞる。浅い。だが確かにある。刃物の跡だ。表戸の内から、駒井が顔を出した。
「駒井さん。これ、替えてもらえますか」
駒井は無言で受け取ると作業台の引出しを引いた。じゃら、と金属の音。新しい割りピンが俺の手のひらに落ちてくる。冷たい。駒井は古いほうを指でつまんで、電灯の下へ持っていった。しばらく眺めて、鼻でふんと鳴らす。
「……ちっと待て」
それだけ言って、彼は俺がいつも使う旧型の共用鞍と吊り革を、鞍架から下ろして台に載せた。革を指で押さえ、金具を爪で弾き匂いを嗅ぐ。手で触る、匂う、結論。無駄がない。
「こっちは異常ねえだら」
俺は新しい割りピンを竜環に差し込んで、先を広げて留めた。指差呼称を小声で済ませる。それから梶原教官のところへ報告に行った。
梶原は話を最後まで聞くと、眼鏡の奥で目を細めた。帳面を開いて、万年筆を走らせる。書き終えてから顔も上げずに一言。
「……記録した」
◇
翌朝は曇りで蒸し暑かった。5月29日、金曜。空気が重い。翼が湿るやつだ。
午前は竜科1年と騎科1年の合同実習。演習場に計測鞍を並べて、組ごとに飛ぶ。俺は貸し出し竜の枠で待機していた。名前を呼ばれるまで、芝の上で伏せて脚を畳んでおく。退屈だ。雲でも数えようかと思ったところで、梶原の声が飛んだ。
「三輪。今日の竜は天野だ」
顔を上げる。三輪あずさ、騎科1年。組の竜が翼の付け根を痛めて欠席したらしい。規則どおりの補欠投入だ。規則の人、梶原らしい。
三輪は俺のほうを見た。短い髪を押さえて、目をきつくしてそれから肩をすくめる。
「マジで?……まあ、いいけど」
そう言って三輪は俺の前に立った。彼女は腕を組んで、俺の灰青の鱗をじろりと見上げてくる。品定めする目だ。やめてくれ。竜の姿で品定めされると、こそばゆい。
当番の地上係が整備場から計測鞍を運んできた。台車の車輪が芝をきしませる。鞍を俺の背に載せ、帯を締める。係の指が2本帯と鱗の間に入る。安全帯の金具がかちかちと4つ。最後に前橋をこつんと叩く。
「鞍よし。どうぞ」
三輪が俺の首の付け根に手を当てた。手のひらが熱い。蒸し暑いせいだけじゃない。たぶん緊張している。短い爪が鱗にそっと触れた。
「乗せてください」
ぶっきらぼうな声だった。俺はいつもどおりに答える。
「喜んで」
三輪が、ふ、と鼻で笑う。
「……それ、毎回言うわけ?」
「言ってます。乗せてくださいには喜んでって返すって決めてるんで」
「ふうん。まあ、キモくはないけど」
それ、ほめ言葉か。たぶん違う。俺は黙って首を戻す。三輪が鞍にまたがった。座りが浅い。膝で抱えこんで肘が伸びている。拳はすでに上下に揺れている。元気なことだ。
俺は声だけで指差呼称を済ませる。竜の姿に指はない。声だけでもやらないよりはましだ。
「鞍よし、竜環よし、手綱よし。騎手、よし」
「……何それ。いちいち言うんだ」
「指差呼称です。声に出すと忘れないんで」
「へえ」
三輪はそれきり、手綱を握り直した。肘が伸びたままだ。直す気はないらしい。
演習場の端では救助竜が1頭、上空で輪を描いて待機している。順番待ちの真田が小型の竜の姿で、首を伸ばしてこっちを見ていた。騎科の列には鷲宮千景がいる。まっすぐ前を見ていた。こちらは見ていない。見ていないはずだ。
俺は芝を蹴った。湿った草の匂いが鼻を抜ける。翼を打つ。
「あ、待って、まだ心の準備が――」
三輪の声が風に消えかけた。膝がぎゅっと締まる。早い。もう上がれと言っている。了解。俺は翼を大きくひと打ちして、ぐんと上昇した。
上昇しながら、前世の整備士の手順が勝手に頭に浮かぶ。革は人の重みで伸びる。だから乗ってからもう一度見る。座る前と座ったあとじゃ、同じ帯が別物だ。頭で覚えた手順じゃない。体が先に覚えている手順だ。
「高度50」
呟いて、俺は翼を水平に戻した。湿った空気が腹の下を流れていく。三輪の拳はまだ上下に動いている。肘も伸びたままだ。
「鞍、よし」
声に出す。目で見る代わりに、背中の感触を確かめる。帯は緩んでいない。締まりは一定。よし。
「竜環、よし」
首の根元で環が鳴らない。手綱を通す金具も、留めの座金も異音はない。よし。
「手綱、よし」
張りは一定。ゆるみも引きすぎもない。声に出すたび、頭の中の点検表がひとつずつ消えていく。前世の癖だ。指差呼称は、声に出した時点で半分終わっている。残り半分は、手だ。
「騎手……」
そこで、止まった。
三輪の重心が、右へ流れている。
ほんのわずかだ。坐骨のひとつが右へずれて、鞍の右半分に重みが寄っている。三輪本人は気づいていない。拳を上下させたまま、鼻歌みたいな息を吐いている。
「ちょっと、揺れないんじゃなかったの。さっきからふわふわすんだけど」
「風です。横から押されてるんで」
「ふうん。まあ、悪くないけど」
悪くないのか。よかった。じゃなくて。
鞍が、右へ一度だけ傾いた。がくというほどじゃない。息を吸うより小さい傾きだ。でも俺の背中は、その1度をはっきり拾った。
右側が、ゆるい。
安全帯の右の吊り革。金具と革の間。張りが抜けて、じわりと伸びていく感触がある。左は張っている。右だけが、伸びる。
鱗の下で汗がにじむ。
「騎手……よしじゃない」
「三輪さん、手を前に出さないで。脚で俺を挟んで」
声が低くなった。怒鳴ってはいない。手順を読むときの声だ。背中の三輪がびくりと固まる。
「は? なに、どういう――」
鞍がまた右へずれた。三輪の反射で手綱が強く引かれる。首がぎり、と後ろへ引っぱられた。視界がわずかに上を向く。俺は逆らわない。首を返さず、体を左へわずかに傾けた。鞍が背の上に残るように、肩甲骨のあたりで受け止める。
心臓はうるさいのに、頭の中だけやけに静かだ。
降りる高さと場所は、飛ぶ前に決めてある。演習場の芝の真ん中。救助竜のいる側。あとはそこへ滑り込むだけだ。
三輪の膝が、俺の胴をぎゅっと挟む。強く。骨がきしむくらいに。それがかえって合図になった。脚で挟めと言った意味を、体がちゃんと拾ったらしい。
「……高度よし、速度よし。降ります」
俺は羽ばたきを小さくした。風を掴むというより、風に預ける感じだ。翼の先で空気を細かく刻んで、まっすぐゆっくり。急げば鞍が跳ねる。跳ねれば右が抜ける。だからゆっくりだ。
「救助竜、降下。天野、高度を言え」
梶原の声が下から突き上げてきた。張り詰めた声だ。規則の人が声を張る時は、だいたい良くない時だ。
「30。……20。……着きます」
背中で三輪が手綱を握っている。さっきから拳が上下しない。代わりに、かちかちと小さく鳴っている。歯だ。泣きそうな息づかいが、羽ばたきの合間に漏れてくる。大丈夫、と声をかけたかった。かけられない。今しゃべったら、声が裏返る自信がある。
救助竜が上空から降りてきた。大きな翼が湿った空気を二度叩いて、こっちへ寄ってくる。順番待ちの真田が、小型の竜の姿のまま叫んだ。声が裏返っていた。
「教官! 鞍が!」
ああ、見えてたのか。お前の目はそういう時にいいんだよ。
芝が近い。後ろ脚から着く。どん、と衝撃が背骨を抜けて俺はすぐ腹を地面につけた。前脚を畳んで、右側を低くする。傾ける。三輪を草の上へ滑らせるように。膝が俺の胴から離れた。軽くなった背中が、やけに寒い。
三輪が草の上に座りこんだ。その直後だった。
ぶつり。
乾いた、短い音。右の吊り革が金具の根元から切れた。張りを失った鞍が、ずるりと右へ滑って――芝に落ちた。どさり、という重い音がした。
救助竜がすぐそばに降りた。大きな翼が畳まれて、巻き上がった砂が舞う。梶原が走ってくる。長靴が芝を蹴るたびに、土の塊が跳ねた。
三輪は草の上に座りこんだまま、しばらく固まっていた。両手を膝の上に置いて、目を大きく見開いて肩が上下している。呼吸が戻らないのだ。三輪の指先が、さっきまで手綱を握っていた形のまま、少し開いていた。
それから、泣いた。
「……っ、なに、なんなのあれ」
涙を袖でごしごしやって、顔をぐしゃぐしゃにして俺を怒鳴る。
「ガチで怖いんだけど! いきなり鞍ずれるとか聞いてないし! 心臓止まるかと思った! ていうかなんでそんな冷静なの、あんた!」
俺は伏せたまま、首だけ三輪へ向けた。
「すみません。点検が足りなかった」
三輪は、ぐ、と詰まった。涙をぬぐいもせずに、俺の顔をじっと見た。
「……なんで、あんたが謝ってんの」
「点検したのは俺ですから」
「そうじゃなくて」三輪は唇を噛んだ。「あんたが謝るとこじゃないでしょ、みたいな。……ないわー、ほんと」
それきり、黙った。ふ、と息を吐いてそっぽを向いた。耳が赤い。
「……ありがと。天野くん」
くん付けで呼ばれたのは、初めてだった。
騎手を落とさなかった。それだけを考えている。他は何も、頭に入ってこない。
少し離れた騎科の列の前に鷲宮千景が立っていた。顔色がない。白いというより、色を抜いたみたいだ。俺のほうをまっすぐ見て、何も言わない。手綱を握るみたいに、右手を左手で握っていた。
◇
その夜、整備場には俺と駒井だけがいた。
窓の外はもう暗い。作業台の電灯だけが、ぽつんと橙色に灯っている。台の上には、今日の実習で使った計測鞍と切れた右の吊り革が置いてあった。
俺は人の姿だ。休息は終えた。なのに、肩が重い。空気が湿っているせいだけじゃない。
駒井は無言で吊り革を手に取った。鞍油で黒い太い指が、切れ口をそっとなぞる。それから、ちいさく折り曲げた。
「……なあ、学生」
俺は黙って隣に立つ。駒井は吊り革の切れ口を電灯の下へ差し出した。
「曲げてみろ」
俺は受け取った。革の断面が、橙色の光の中でくっきり浮かぶ。外側は毛羽立った千切れ方だ。でも、その内側半分より奥は、すぱっと平らな面が走っていた。革の繊維が、断ち切られたように揃っている。
刃物だ。
しかも、一度じゃない。何度も浅く引いて、切り込みを深くした跡がある。切れ口の奥に、乾いた油の膜がかすかに光っていた。
新しい鞍油だ。外側から丁寧に塗ってある。触った指に、ほんのわずか油の匂いが残る。
「……隠してある」
俺の声が、思ったより低く出た。
駒井は答えない。吊り革を俺の手から取り上げると、鼻の先へ近づけてふん、と匂いを嗅いだ。
「油は新しいずら。塗り方が素人だら」
それだけ言って、彼は吊り革を作業台に置いた。
「見たつもりが一番危ねえ」
俺は何も言えなかった。
昨日の朝、壁に掛かった竜環を見上げて輪の形を目でなぞった。うん、よし。それで終わりにした。手に取らなかった。光に当てなかった。点検したつもりだった。ただの形の確認を、確認と呼んでいた。
「見たつもり」という言葉が、背中に重く乗る。
駒井は棚へ歩いていった。古い帳面を取り出して、作業台の上で開く。ぱらぱらと乾いた紙の音が、静かな整備場に響いた。
整備記録の帳面だ。
俺も覗き込む。日付と、作業内容と、名前。几帳面な字で毎日欠かさず書かれている。夜の作業も、朝の点検も道具の貸し出しも。
駒井の太い指が、最後のページで止まった。
5月27日と28日。夜の作業の欄だけが、白い。




