第14話 人生でいちばん重い騎座
6月1日、月曜。昼前の晴れ間。富士には笠雲がかかっていて、ああ、こりゃ午後から崩れるなと前世の整備士の目が勝手に判断を下していた。
俺は人の姿で4年の格納庫の前を通りかかって、ふと足を止めた。
大型の竜が1頭格納庫の前の芝に伏せている。寮長だ。午前の実習から戻ったばかりなのだろう。巨体の鱗は所々が汗で濡れていて、陽の光を鈍く弾いている。
……いや、待て。
俺は目を細めた。鱗の継ぎ目だ。呼吸のたびに開いて閉じる、あの薄い膜のあたり。そこに細い線が何本も走っている。まるで乾いた川底のひび割れみたいに。
変身疲れだ。それも、相当に深い。大型が60分飛んだくらいで出る色じゃない。体の芯が回復する前に、また竜の形を取っている。
口が勝手に動いていた。
「今日は休ませてください」
我ながら唐突すぎる。誰に言ったのかも分からない。でも声は思ったより大きかった。芝の上で寮長の耳がぴくりと動く。目がゆっくりこちらを向いた。
寮長の背から降りた騎手が笑った。短めの髪を風に押さえながら、こちらへ歩いてくる。飛行服の袖をまくった、日焼けした腕。首の騎手章を、親指で撫でている。騎科4年の霧島先輩だ。名字だけは知っている。監視塔の上から手を叩いて笑っていた人だ。
「あんた、灰青の子でしょ」
霧島先輩は俺の顔をのぞき込むようにして、にっと笑った。
「うちの獅堂を見抜いたね。面白いじゃん」
獅堂、というのが寮長の名前なのか。俺はようやくそこで知った。寮では「寮長」としか呼んだことがなかった。
霧島先輩はくるりと寮長――獅堂先輩のほうを振り返って、その首を軽く叩いた。
「ほら、後輩くんが休めって言ってくれてるよ。今日はあたしの顔を立てて、さがってな」
獅堂先輩は何も言わない。ただゆっくりと目を閉じて、それから鼻から深い息をひとつ吐いた。返事の代わりみたいだった。
4年の教官が腕時計を見ながらやってきた。日に焼けた顔をしかめて、格納庫の前で立ち止まる。
「獅堂が降りたなら、午後の哨戒はどうする。補欠の竜、どこにも空きがないぞ」
その声に、梶原がすたすたと歩いてくる。規則の人が規則の顔で来た。俺は思わず背筋を伸ばした。
「天野は貸し出し竜です。霧島の頼みは聞いています」
「話が早い」と4年の教官。
俺は人の姿のまま、え、と声を漏らした。午後の枠は――鷲宮さんの予約だ。
梶原が予約表を広げる。千景はその横に立っていた。表を上から下まで目で追い、指先が一行で止まる。一瞬黙った。長い一瞬だった。まばたきの回数が、いつもより少ない気がした。
「……規則だ」
千景はそれだけ言った。声は平らで、感情の継ぎ目が見えない。予約の枠を指で軽く押さえて、それから鞄を提げて歩き出す。振り返らない。右手を、左手で包んでいた。
霧島先輩が小さく息を吐く。
「悪いね、鷲宮さん」
千景は答えなかった。足音が砂利を踏んで遠ざかる。
◇
午後。笠雲はまだ富士に張りついている。風が少し湿って、翼が重い。
格納庫の前で俺は竜の姿のまま伏せていた。地上係が台車を押してきて、計測鞍を背に載せる。帯が締まる。安全帯の金具がかち、かち、かち、かちと4つ鳴った。今日はいつもより音が硬い。気のせいか。
人の姿に戻って休んでいた獅堂先輩が、格納庫の陰から出てきた。まだ顔色は良くない。それでも背筋は真っ直ぐで、こっちに近づいてくる。
「遥さんを、頼みます」
たった一言。低くて、短い。なのに肩にずしりと来る。あの巨体が何時間も空を守ってきた重さが、声に乗っている。
「はい」
俺も短く答えた。それしか言えなかった。獅堂先輩は軽く頷いて、もう格納庫の陰へ戻っていく。
霧島先輩が俺の首の付け根に手を当てた。ひやりとした手のひら。それでいて、指先は力強い。
「乗せてくださいな、後輩くん」
「よ、喜んで」
声が上ずった。やめろ俺。ここで噛むな。霧島先輩が口元だけで笑う。見られた。
彼女がひらりと背にまたがる。体重がかかっても俺の脚はぶれない。不思議と、腹の底が温かくなる。騎手を乗せている。それだけで、こんなに。
「鞍よし、竜環よし、手綱よし。騎手、よし」
指差呼称を終える。手綱がきゅ、と張った。
俺は芝を蹴って上がった。湿った空気が翼を押し返してくる。笠雲の下はやけに重い。だが背中の感触は、重さとは別物だった。
霧島先輩の重心はど真ん中にある。ぶれない。俺が翼を打つたびに鞍が上下しても、その中心がずれる気配がない。騎座が深い。鞍の底で俺の背を掴んでいるみたいだ。乗られている。この実感は今まででいちばん深い。鷲宮さんの騎座も静かで見事だったが、あれは精密な秤だ。霧島先輩は違う。どっしりと、俺ごと地面に据えられている感じがする。
編隊が組まれる。4年の竜が3頭、横並びに空を切った。霧島先輩の脚がすっと締まる。右だ。俺は言葉より先に翼を傾けた。脚の緩急が自在で、強くも弱くもちょうどいい加減で俺を押してくる。迷いがない。
手綱は片手で持っている。もう片方の手は空けてあった。その手がひらりと動いて、隣を飛ぶ僚騎へ合図を送る。指の形だけで会話が成立している。4年はこういうものか。
先輩の呼吸が背中に伝わってくる。大きく、ゆったり。吸って吐いて、その間に俺の羽ばたきが収まっていく。こっちの息が浅くなるのが分かる。落ち着け俺。煽られるな。
嬉しい。嬉しくてたまらない。尾の先が、勝手に揺れている。
手綱がきゅ、と一度だけ張ってそれから緩んだ。右へ。俺は従った。雲の切れ間が開けて、富士の稜線が下を流れていく。
まだ声は漏れていない。それだけは確認した。
編隊は富士の西側を回る。風が湿って翼の先が重い。俺は高度を保つだけで精一杯だった。背中の霧島先輩は片手で手綱、もう片方の手をひらりと動かす。隣の僚騎の騎手が、手で輪を作って鼻の下に当てる仕草をした。何の合図だ。あれ、たぶん遊んでる。
霧島先輩が声を上げて笑った。あはは、と。その瞬間背中の重心がふっと緩んだ。ど真ん中に据わっていた重みが、すっとほどける。笑うと騎座はゆるむんだ。知らなかった。緩んだ弾みで、先輩の楽しさが背中越しに流れこんでくる。温かくて、くすぐったい。
まずい。と思った時にはもう遅い。俺の頭の中の一文が、そのまま念話でこぼれていた。
《……人生でいちばん、尻に敷かれている》
《あはは! 聞こえてるよ、後輩くん》
霧島先輩が空で大笑いした。背中が揺れて、鞍がかたかた鳴る。俺は真っ赤になった。竜の姿でも顔が熱いって分かるもんだな。謝るべきか。でも謝ったら余計に笑われる。そもそも何を謝るんだ。頭の中の一文が漏れただけだ。人生でいちばん、は事実だ。事実を謝るのはおかしい。おかしいけど、今ここで黙って飛ぶのもそれはそれで。ああ、もう。尾の先が勝手に揺れてる。止まれ、今だけは。
60分の哨戒課目を終えて俺は演習場の芝に降りた。後ろ脚から着いて、腹を地面につける。どっと土が跳ねた。湿った草の匂い。翼を畳むと、汗の膜が風に冷える。
4年の教官が端末を見て、読み上げた。
「天野・霧島、同調率88%。反応の遅れ0.12秒」
その声が演習場に届いた瞬間周りの4年の騎手たちがざわついた。横並びに降りていた竜たちの耳が一斉にこちらを向く。隣の僚騎の騎手が「まじで?」と口に出して、それから咳をして黙った。
俺の騎乗時間は88分。鞍を付けてから数えて、まだ23分残っている。まだ飛べる。まだ乗っていられる。そう思ったら、尾の先がまた勝手に揺れ始めた。止まらない。
霧島先輩が鞍から降りた。軽い音を立てて芝を踏む。そのまま俺の顔の前に回り込んで、しゃがみ込むようにして覗き込んできた。
「あんた、本当に嬉しいんだ」
笑っている。日焼けした腕を膝に当てて、目を細めて。
「……いいね、変態」
「すみません」
「謝るとこじゃないじゃん。褒めてる」
どこがだ。そう思ったけど口には出さない。出すと絶対また笑われる。
霧島先輩は立ち上がった。飛行服の袖をまくった腕を一度伸ばして、それから俺の首の付け根のあたりをぽんと叩いた。手のひらが温かい。
「なあ、後輩くん」
声が、さっきまでと少し違った。笑いを含んでいない。
「卒業したら、あたしの隊に来な」
俺は首を持ち上げかけて、止まった。
「よ、喜んで……じゃなくて」
言いかけて、詰まった。喉の奥で言葉が渋滞を起こしている。喜んで、は騎乗の返事だ。ここで使っていい言葉なのか。いや、そもそも今のはそういう話じゃなくて。卒業、って、それ、つまりその。
尾の先が、揺れていた。
◇
夕方。休息を終えて人の姿に戻った俺は、4年の格納庫の詰所を訪ねていた。蛍光灯の白い光が、長机と鉄の棚を照らしている。壁には時刻表と、鍵の管理表。空気は静かでどこか事務的だった。
霧島先輩は椅子の背に腰かけて、湯飲みを片手にこちらを見た。
「めずらしいね。後輩くんが自分から来るとか」
「お願いがあって来ました」
「言ってみな」
「4年の格納庫の鍵の貸出簿を、見せてもらえませんか」
霧島先輩は一瞬だけ首を傾げて、それからにっと笑った。
「いいよ。理由は聞かない」
立ち上がると棚の上段から厚い帳面を下ろして長机に置いた。革表紙の、角の擦れたやつだ。ばさりとページを開く音が詰所に響く。
「何日の分だっけ」
「5月27日と28日です。夜の時間帯で」
「了解」
指が日付をなぞりぴたりと止まる。彼女は黙ってそのページを俺のほうへ押しやった。湯飲みをもう一度口に運んで、窓の外を見ている。聞かないと言ったきり、本当に何も聞かない。
俺は貸出簿を覗き込む。
5月27日。21時40分。貸出者、蛭間恭介。用途、3年の鞍の運搬の手伝い。返却、22時10分。
5月28日。21時35分。貸出者、蛭間恭介。用途、3年の鞍の運搬の手伝い。返却、22時05分。
字はどちらも同じ筆跡だった。几帳面でもなければ乱暴でもない、細い字。名前の「蛭」の虫偏が、やけに小さくまとまっている。
俺はその名前を、しばらく見つめた。
「……どうしたの。顔が固まってるよ」
「いえ」
俺は首を振って、もう一度だけ貸出簿を見下ろした。蛭間恭介。その文字が、蛍光灯の下でやけにくっきりと浮かんでいた。
俺が貸出簿から顔を上げたとき、詰所の戸口に鷲宮千景が立っていた。
いつからいたのか。足音も気配もなかった。いや、あったのかもしれない。俺が帳面に集中しすぎていただけだ。
千景は黙って詰所に入ってきた。霧島先輩が「お」と短く言って湯飲みを置く。千景はそれに会釈もせず、長机の端に鞄を置いて中から自分の飛行日誌を取り出した。革の表紙の、使い込まれたやつだ。
ばさりと開いて、4月のページを指で示す。
俺は覗き込んだ。4月28日の欄。
「格納庫に竜科の学生一名(首席の取り巻き)」
そう書いてあった。小さく整った字で。首席の取り巻き――御堂冬馬の取り巻き。蛭間のことだ。
「記録は、記録だ」
千景はそれだけ言った。声は平らで、俺の目を見ていない。日誌のページを見たままだ。
そのとき、俺の目は閉じかけた日誌の最後のページ――今日の欄に吸い寄せられた。6月1日。書きかけの行。
「88」
数字だけが書いてあって、その先でペンが止まっている。インクの乾きかけが、かすかに光って見えた。俺は目を逸らした。
千景が日誌を閉じた。
◇
その夜の整備場には、鞍油と革の匂いがいつもより濃く澱んでいた。
「5月27日と28日、夜。蛭間が4年の格納庫の鍵を借りてます。用途は鞍の運搬の手伝い」
俺が言い終えると、駒井は作業台の電灯を指でつまんで少しだけ明るくした。それから無言で鞍架へ歩いていく。抱えて戻ってきたのは黒い鞍だった。御堂冬馬の。蛭間が手入れを受け持っているやつだ。
駒井は鞍を台に載せ右の吊り革を指でつまんで持ち上げた。電灯の下へ差し出す。両手でゆっくりと曲げる。革がきい、と鳴った。しわの寄り方を見て、鼻の先へ近づけて匂いを嗅ぐ。それから左の吊り革も同じように曲げた。今度は鳴らなかった。
「革は曲げにゃ嘘こくだら」
駒井は左右の吊り革を並べて俺の前に差し出した。
「……左右で油の乗りが違うずら」
右だけが、妙にしっとりと黒く光っていた。指で触れると、べたりと油が残る。外側から丁寧に、何度も塗り重ねた跡。乾ききっていない、新しい膜。
俺は息を止めた。金曜に切れた吊り革の断面に光っていたのと同じ油だ。素人が、隠すように外側から塗ったあの塗り方。
◇
消灯前。教官棟の廊下は白い蛍光灯で、やけに静かだった。梶原の部屋の机には、俺が出した貸出簿の写しと千景の日誌の行の書き写しが揃えてある。梶原は眼鏡の奥でそれを二度読み、それから呼び出しの内線を入れた。
蛭間が入ってきた。扉の前で一度立ち止まり、俺の顔を見て、ちっと舌を鳴らす。
「なんすか、こんな時間に」
「5月27日と28日。お前が4年の格納庫の鍵を借りた夜だ」
梶原が貸出簿の写しを机の上で滑らせた。蛭間の目が紙の上で止まる。止まったまま、動かない。首の付け根に汗がにじんでいくのが、俺の位置からも見えた。
「ち、違うっす」
声が裏返った。蛭間は半歩下がって、それから前へ出る。
「御堂さんのためを思って……」
言いかけて、蛭間がはっと口を閉じた。遅い。梶原の万年筆が、もう動いている。
俺はその時、ふと視線を感じて顔を上げた。部屋の扉は開いたままだ。その廊下側の白い光の中に、長い影が立っていた。音もなく、いつから。
廊下に、御堂冬馬が立っていた。
全部、聞いていた顔で。




