第15話 勝つなら正面から
6月3日、水曜の朝。空はどんよりと曇っていて、富士の頂は雲に食われていた。俺は竜科寮の掲示板の前に立っていた。紙が1枚。風もないのに、やけに白く見える。
「蛭間恭介 停学」
たった一行の処分告知だった。理由は書いていない。書かなくても、もう寮中に知れ渡っている。
隣で真田が早口でまくしたてる。
「聞いたかカケル。御堂が自分で学院に申し出たらしいぞ。蛭間の件、御堂は知らなかったって。んで、いちばん重い処分を求めましたって。つーかお前、顔が寝ぼけてるぞ。ちゃんと聞いてるのかよ」
「聞いてる」
俺は掲示板から目を離さなかった。蛭間恭介。あの細い字を思い出す。貸出簿の「蛭」の虫偏が、やけに小さかった。あいつはあれで、けじめをつけられたのか。
「御堂、らしいな」
「らしいってなんだ。お前、一昨日の夜、現場にいたんだろ。何か言われなかったのかよ」
「何も」
本当に何も言われなかった。御堂冬馬は、あの白い廊下の光の中で俺を一瞥しただけだった。あれは俺を見ていなかったのかもしれない。自分の足元を、見ていたのかもしれない。
俺は掲示板から離れた。真田がまだ何か言いたそうな顔でついてくる。寮の廊下へ入る。
しんとしていた。朝だというのに、寮の中はやけに静かだ。曇り空のせいで、廊下の蛍光灯まで白っぽく濁って見える。
そのとき、階段のほうから足音がした。
蛭間だった。
紺のボストンバッグを片手に提げて、もう片方の手で紙袋を抱えている。私服だった。寮の外へ出る格好だ。足音は一定で、迷いがない。いつものがに股気味の歩き方のまま、まっすぐこっちへ歩いてくる。
真田が息を呑む気配がした。俺は立ち止まった。蛭間は、止まらなかった。
すれ違いざまほんの一瞬、目が合う。蛭間の目は赤かった。泣いたのかもしれない。いや、寝ていないだけか。どちらでも同じことだ。
蛭間は、俺の真横で一度だけほんのわずかに顎を引いた。
「E判定のくせに」
声は小さく、掠れていた。それ以上は何も言わない。足を止めない。吐き捨てるように、でも、怒鳴るでもなく。
俺も何も言わなかった。言えなかった。言うべき言葉が、あいつに届くとは思えなかった。
蛭間はそのまま玄関へ歩いていく。ドアが開いて、外の曇った光が一瞬だけ廊下に流れ込んで、閉じた。
ぱたん。
音が、やけに大きく響いた。
真田が隣で長い息を吐く。
「……なあ、お前、あれで良かったのかよ」
「良かったのかは、分からない」
俺は廊下の先を見ていた。ドアはもう閉まっている。蛭間の背中は、もう見えない。
「でも、あいつはああするしかなかったんだろ」
真田は何か言いかけて、やめた。唇を結んでそれから小さく「ちっ」と鳴らす。
「……まあ、いいや。行こうぜ。朝の点呼に遅れる」
俺は曇った窓の外を見た。富士は、まだ雲の中だった。
あいつの背中に何も言えなかった。言える言葉を、俺はまだ持っていない。ただあの「E判定のくせに」が、しばらく耳の奥に残っていた。
やけに静かな朝だった。
◇
1年の格納庫はまだ薄暗く、開け放した扉から曇り空の白い光が細く差し込んでいた。空気には鞍油と、鉄と、昨日の汗の残りが混ざっている。俺は人の姿で、自分の割り当ての鞍架の前に立っていた。手には手綱。特に用もないのに、持っていないと落ち着かないのだ。前世の癖というやつか。
足音がした。硬い一定の。振り返ると御堂冬馬がいた。私服でも飛行服でもない、学院の制服をきっちり着ている。背が高い。顔が整っている。冷たい。三拍子揃っているのが腹立たしい。
その後ろ、少し離れたところに白峰玲奈が立っていた。鞄を胸の前で抱えて、御堂の影に半分隠れるように。目が合うと、彼女は小さく会釈してそれから俯いた。
「御堂。あの、蛭間のこと――」
俺が礼を言いかけた。頭を下げかけた。その途中で、御堂が片手を上げた。止められた。声じゃなく、手で。
「勝つなら正面からだ」
静かな声だった。怒鳴らない。冷たいのに、棘がない。それが逆にぐっと来る。
「礼はいらない、天野。僕の取り巻きの不始末だ」
俺は口を開けたまま閉じた。用意していた言葉が、行き場をなくして喉の奥で渋滞している。え、と声が出た。間抜けな声だった。我ながら。
御堂は俺を見ていた。まっすぐ。目を逸らさない。俺を値踏みするでもなく、見下すでもなく。ただ見ている。
「えっと、でも、あの」
「僕が謝るべきことだ。君に礼を言われる筋合いはない」
言い切った。完璧に。一分の隙もなく。こういう人なんだろうな、この人は。自分の陣地の始末は自分でつける。卑怯はしない。それが誇りなんだ。竜の恥、とか言われたけどあんたのほうがよっぽど竜らしいよ。心の中でそう呟いた。口には出さない。出すと絶対、話がややこしくなる。
少し離れたところで白峰さんが小さく息を吸う気配がした。何か言いたそうで、言えないでいる。鞄の持ち手を握っていた。
御堂が俺の目の前で、顎をほんの少しだけ引いた。決めた顔だった。
「翼競べで会おう」
俺は聞き返しかけて、やめた。
「正面から、君を落とす」
声は荒らげていない。宣言だった。挑発じゃない。約束だ。この人は、たぶん、こういうふうにしか人と話せないんだ。まっすぐすぎて、曲がり方を知らない。曲がり方を知らないやつに、俺は何を返せばいい。
「……了解です」
俺はそう言った。それしか出てこなかった。頭を掻いて、手綱を握り直す。
御堂はそれきり何も言わず、踵を返した。白峰さんが小さく頭を下げて、その後ろをついていく。格納庫の扉の白い光の中へ、2人分の影が消えていった。
残された俺は、手綱をぶら下げたまましばらく立っていた。翼競べ、か。7月。正面から。落とすと。言い切ったな、あの人。俺まだ一度も公式戦なんて出たことないんだけどな。E判定だし。でも、まあ、そう言われた以上逃げるわけにもいかない。逃げたら、あのまっすぐな人に俺が恥ずかしい。
「……正面から、ね」
呟いて、俺は手綱を鞍架に掛けた。掛けてから、あ、まだ実習の準備してなかったと我に返った。午前の実習、もうすぐだ。急げ俺。
◇
俺は順番待ちの列の端で腕を組んで立っていた。芝の上、つま先で地面を二度叩く。湿った土の感触。曇り空の下は風がなくて、汗が肌に張りつく。
すぐ目の前で、白峰玲奈が、紺の大型竜の姿になった御堂冬馬の首の付け根に手を当てた。小さい手だ。そのまま、ほとんど消え入りそうな声で言う。
「乗せてください」
「どうぞ、白峰さん」
御堂の声は低くて静かだった。白峰さんはこくりと頷いて、鞍にまたがる。と見えた。
いや、待て。俺は腕を解いた。
彼女の膝が、やけに内側へ入っている。両脚で御堂の胴を抱えこむようにして、鞍の前へ縮こまっている。背中が丸い。肩が上がっている。手綱を持つ手が、胸の前で小さく握られている。その手の位置が、もう駄目だ。手綱が張らない。張る余地がない。
そして呼吸だ。御堂が離陸の前に翼を慣らすたびに、白峰さんの肩が半拍だけ遅れて上下する。自分で呼吸するんじゃなくて、羽ばたきに揺すられて息が漏れている。こわばった背中に乗る人の座り方だ。あれは、乗せてもらっているんじゃない。耐えている。
口が勝手に開いた。
「白峰さん、息、半拍だけ遅れてます」
白峰さんの肩が、びくりと跳ねた。振り返って俺を見る。目がまんまるになっている。
「……わかるんですか」
声は蚊の鳴くみたいに小さかった。手綱を持つ手が、胸の前でぎゅっと縮こまる。白峰さんは何か言おうとして、口を開けた。でも声になる前に、御堂が静かに言った。
「行くよ、白峰さん」
白峰さんは、は、と息を呑んで前を向く。手綱を持つ手が、まだ小さい。背中がまだ丸い。
御堂が芝を蹴った。湿った草が小さく舞い上がる。大型の翼が空を二度叩いて、2人はあっという間に灰色の空へ吸い込まれていった。
俺はそれを見送りながら、一人で呟いた。
「……手綱、握り直す余裕があるといいんだけどな」
曇り空は、まだ低い。
◇
午後の整備場は、曇り空のぶんだけ薄暗かった。扉を開けると鞍油と革の匂いがむわっと寄ってくる。この匂いも、もう慣れた。慣れたというか前世の整備場の匂いにどこか似ている。あっちは燃料とグリースだったけどな。
「駒井さん。午後の共用鞍、もらいに来ました」
駒井は作業台から顔も上げずに、顎で鞍架のほうを指した。俺が自分で下ろそうとすると、彼は手を止めてこっちへ来た。俺より先に鞍を抱えて台に載せる。革を指で押さえ、吊り革を2本つまんで左右それぞれ軽く曲げた。きい、と鳴らない。鳴らないことを確かめてから、割りピンを電灯の下へ掲げる。爪の先で先端を弾いて、それから俺の手のひらに置いた。
「ほれ」
「ありがとうございます。……あの、この前の照合の件助かりました。親方」
呼んでから、少しだけ間があった。駒井の指が、鞍の帯の上で止まっている。止まったまま、ちいさく息を吐いた。何か言うかと思ったが、言わなかった。
「油、切らすなよ。帰りに帳面へ書いとけ」
それだけだった。俺は頭を下げて鞍を抱えた。振り返ると、彼はもう作業台に向かっていた。手で触る、匂う、結論。今日も無駄がひとつもない背中だった。
◇
午後の予約枠は千景だった。曇り空の下、演習場の芝に俺は竜の姿で伏せていた。午前の実習で体は温まっている。だが空気が湿っていて、翼の先が妙に重い。
千景が俺の首の付け根に手を当てた。指先が、いつもより冷たい。
「乗せてください」
「喜んで」
俺はいつもどおりに返した。千景は短く頷いて、鞍にまたがる。その動作は寸分の狂いもなく正確で、無駄がない。いつもと何も変わらない。――はずだった。
飛び上がって30秒で気づいた。手綱が張りっぱなしだ。
緩む瞬間がない。右へ行けば右の手綱が、左へ行けば左の手綱がきゅっと張ったまま戻らない。4月に初めて乗せたころの、あの固い手綱だ。あのころはまだ、千景も手探りだった。今は違う。今の千景はもっと静かで、精密で手綱の張りを一定に保つ。それが今日は、一定を通り越して固い。緩めることを忘れたみたいに。
吊り革が切れたあのとき、千景は騎科の列の前に立っていた。芝に落ちた鞍も、座りこんで泣いた三輪も、走ってきた梶原も。その全部を、千景はまっすぐ見ていた。顔色を抜いたみたいにして、右手を左手で握って。
俺は何も言わなかった。首も動かさなかった。いつもより静かに、いつもより揺らさずに飛んだ。羽ばたきの角度をほんの少しだけ浅くする。鞍が跳ねないように、背中の水平を保つ。千景の重心はぶれない。でもその重心が、いつもよりほんの少しだけ俺の背に強く沈んでいる。
千景は何も言わない。手綱も緩めない。俺も何も言わない。言えば、この静かな空に声が響いて何かが壊れる気がした。
30分はあっという間だった。俺は芝に降りて、後ろ脚から着いて腹を地面につける。どん、と衝撃が背骨を抜ける。千景は鞍から降りた。軽い音を立てて芝を踏む。手綱が、ようやく緩んだ。
「……記録する」
それだけ言って、千景は歩き出した。振り返らない。右手を、左手で包んで。俺は伏せたまま、その背中を見送った。風が湿って、汗の膜が冷えていく。
……記録する、か。あの人はそれしか言い方を持たないんだな。
あの固い手綱を思い出すと背中がじんとする。千景が何を怖がっているのか、俺はまだ知らない。知らないけど、あの手綱の固さだけは俺の背中が覚えている。
◇
曇り空のまま日が暮れて、講義室の蛍光灯が白く灯っていた。
竜科と騎科の1年が全員席に詰めている。前の黒板には「翼競べ 7月25日」とだけ書かれていた。梶原が教壇に立ち、要項の紙を配り終えたところだ。
隣で真田が紙を半分に折りながら、小声で言う。
「お前、出るのか?」
「出るって言われた」
「誰に」
「御堂に」
真田が一瞬、紙を見たまま固まった。それから顔だけこっちへ向ける。
「お前は、ほんとに、狂ってる」
梶原が咳をひとつした。教室がすっと静かになる。
「翼競べは個人戦だ。ただし、竜と騎手は組で登録する。規則上、ペア登録のない竜は出場できない」
俺は紙の下のほうを指でなぞった。登録欄。竜の名と、騎手の名。2枠。並んで書く欄だ。
俺の名前は、まだどこにも書かれていない。貸し出し竜。毎日ちがう騎手に借りられて、夕方には返される。返された竜に、隣の枠はない。
顔を上げると、前方の席に鷲宮千景がいた。要項をまっすぐ見ている。右手を、左手で包んで。その少し後ろ御堂冬馬は背筋を伸ばして前を向いていた。白峰さんが隣で、紙の端を両手で持っている。
俺は自分の紙を見下ろした。2つの枠。
出られない……?




