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第16話 その日の騎手




 6月8日、月曜の朝。6日に梅雨入りしてから、雨は毎日やむ気配がない。屋外の実習は中止。代わりに格納庫での学科教練ということになった。


 雨の音がする1年の格納庫で、俺は梶原に呼ばれた。隣には鷲宮千景が立っている。雨の湿気で髪がいつもより重そうに見えた。


 梶原は分厚い規則集を開いてページをめくる。ぱさり、ぱさりと紙の音だけが妙に響く。眼鏡を外して、指先で条文をなぞり始めた。まだ何も読み上げない。


 いや、待ってください。何の規則の話ですか。俺、何かしましたっけ。この前の件ならもう処分も出て、御堂が礼はいらないとか言ってそれで終わったはずだ。俺は心の中で首をひねる。隣の千景は微動だにしない。右手を左手で包んで、まっすぐ前を見ている。


 梶原の指が、一つの条文の上で止まった。


「規則上、ペア登録のない竜は出場できない。……ただし、第十二条。貸し出し竜は『その日の騎手』と出場できるものとする」


 俺は耳を疑った。えと声が出た。間抜けな声だった。あの日からずっと「出られない」で頭がいっぱいだったので、頭の切り替えが追いつかない。第十二条。その日の騎手。


 梶原は顔を上げない。指で条文を押さえたまま、規則の文の調子で続ける。


「これは補欠の制度の古い名残の条項とする。現在、使用している者は1人もいない。……ただし、条文は生きている。翼競べ当日の予約表で、その日の騎手が決まる。それだけのこと」


「それだけのこと、って」


 俺は思わず呟いていた。それだけのこと、で済む話か。毎日ちがう騎手に借りられて夕方に返される竜が、当日の朝に予約表を見てそこに書いてある名前の騎手と組んで、御堂と正面からやる。そんな綱渡りみたいな登録が。


 でも、出られる。出られるんだ。


 腹の底が、じわっと温かくなった。雨の湿気で冷えていた指先まで、血が戻ってくるみたいだった。


 隣で千景が、黙って条文を見ていた。右手を左手で包んだまま、動かない。まばたきの回数がいつもより少ない。何か言いかけて、口を開きかけて――まだ声になっていない。


 梶原は規則集を閉じた。ぱたん、と乾いた音が雨音の隙間に落ちる。


「7月25日の予約表は、本日の昼に掲示する。翼競べは午前の部とする」


 それだけ言って教官は規則の顔のまま格納庫を出ていった。隣で千景の肩が、ほんのわずかに動いた。気のせいかもしれない。でも、まばたきの回数はやっぱり少なかった。


◇


 昼。雨はまだ降っている。格納庫の中はしめっぽくて、鱗の継ぎ目に湿気がまとわりつく。俺は竜の姿のまま横たわって、整備課目で鱗の手入れを受けていた。係の手が真鍮のブラシを滑らせる。がり、がり、と鈍い音。気持ちいいようなくすぐったいような。尾の先がぴくぴく動くのを必死で止めている。止まらないけど。


 格納庫の入り口が開いて梶原が入ってきた。手に紙が1枚。雨の湿気で端が少ししなっている。掲示板の前に立って、画鋲を押し込む。ぷすぷす、と4つ。貼り終えた瞬間だった。


 千景がいた。いつからそこにいたのか。足音も気配もなかった。いや、雨音で聞こえなかっただけか。彼女は掲示板の前に立って、ペンを抜いて午前の枠に自分の名前を書いた。迷いのない線。書き終えて、ペンを戻す。それだけ。


 その背後から、走ってきた足音がした。三輪あずさだ。濡れた前髪を片手で押さえて、掲示板の前に滑り込む。ペンを持ったまま、千景の書いた名前に目を落とした。


「予約は早い者勝ちなんだけど?」


 三輪の声が格納庫に響く。


 千景は振り返らなかった。背中を向けたまま、掲示板の紙を指で軽く押さえる。


「当日の騎手は私だ。理由は必要ない」


 三輪がペンを持つ手を止めて、千景の横顔をじとりと睨んだ。雨音のせいで声が少し張り上がる。


「理由は必要ない、ねえ。ガチでそういうとこないわー」


 むっとしたまま三輪は7月25日の午後の枠に自分の名前を書いた。線が少しだけ荒い。書き終えてペンを戻すとき、わざと音を立てた。かちんと。


 そこへ、三つ編みの先を濡らしたレーカ・ベレーニが歩いてきた。首の赤いスカーフが雨の湿気で少しだけ濃い色をしている。彼女は千景の横に並ぶと、両手を前で揃えて丁寧すぎる敬語で言った。


「千景さんのお時間を、少しだけお借りしてもよろしいですか」


 千景は答えない。レーカは続ける。雨で屋外の枠が減ってしまって、と。6月の予約を一つだけ譲っていただけないでしょうか、と。声音は終始やわらかく慇懃で、だからこそ逃げ場がない。


 千景の返事は短かった。


「断る」


 レーカは、と小さく息を吸ってそれからにっこり笑った。こわい。笑顔のまま一歩も引かない人だ、この人。


 三輪が一歩も引かなかった。ペン先で午前の枠をとんとんと叩く。


「6月の枠も欲しいんだけど。天野くんの背中、ガチで揺れないのよ。乗り心地で選んで何が悪いの」


 言い切って、ふんと顎を上げた。レーカが笑顔のまま一歩前へ出る。三つ編みの先が、まだ濡れていた。


「わたしは記録のためです。カケルさんの同調率、72%はまだ上がるはずですので」


 声はやわらかく、逃げ場がない。千景は2人を見なかった。掲示板の紙を見たまま、右手を左手で包んで短く言う。


「6月の枠も、私が先に書いた」


 三輪がふいに竜の姿の俺のほうへくるりと向き直った。濡れた前髪の下から、きつい目がまっすぐにこちらを見ている。


「天野くんはどうなの。誰に乗られたいわけ?」


 俺は伏せたまま、正直に答えた。首を上げるのも億劫なほど湿気がまとわりつく。


「予約表に名前を書いてくれた人に乗られます。喜んで」


 三輪が大げさに肩をすくめてないわー、と天井を仰いだ。雨音が一段と強くなる。


 千景は掲示板から目を離さない。短く言った。


「竜に聞くな」


 雨音だけが格納庫に残った。三輪がペンを握ったまま、レーカが両手を揃えたまま千景が紙を見たまま。3人とも、もう誰も口を開かなかった。


 俺は竜の姿のまま横たわって、その全部を見ていた。鱗の手入れの最中だ。真鍮のブラシが背を滑るたびに、尾の先がぴくぴく動く。止めている。止めているつもりだ。だが取り合われている。予約表の1枚をめぐって、だ。嬉しくないわけがない。尾の先がもう、ゆらゆらと揺れっぱなしになっていた。


 手入れの手伝いに来ていた真田が、ブラシを持ったまま俺の顔を覗き込んだ。


「お前が一番うるさい」


◇


 雨の音が講義棟の廊下にまで響いていた。窓の外は白く煙っていて、校庭の芝も格納庫も輪郭を失くしている。


 休息を終えて人の姿に戻った俺は、4限の座学を終えたばかりの廊下で、前を歩く千景の背中に追いついた。濡れた空気のせいで、彼女の足音まで吸い込まれそうに静かだ。


「鷲宮さん」


 声をかけると千景は足を止めて振り返った。右手を、左手で包んでいる。いつもの癖だ。


「6月13日の交流模擬戦。申し入れに行く」


「はあ。……誰にですか」


「北方連邦の留学生団に決まっている」


 俺は一歩分、間を空けたまま固まった。いや、決まっていると言われても俺の頭の中には何も決まっていない。交流模擬戦は申し入れ制で、翼競べとは関係ないはずだ。それが、なんで俺が。


 千景は答えない。また歩き出した。俺は慌ててその後ろをついていく。


「え、俺ですか。俺を連れて行くんですか。あの、聞いてます? 鷲宮さん」


「翼競べの前に、いちばん強い相手で試す」


 振り返りもせず、それだけ言う。声は平らで雨音に消えそうなほど小さい。でも、その足は迷いなく廊下の先へ向かっていた。


 廊下の突き当たり。窓の外が白く光った。雨が一瞬、銀の糸みたいに浮かび上がる。


 黒い外套が、立っていた。


 イリーナ・オルロワだ。背が高く、白金の髪を低くまとめている。水色の目が、薄暗い廊下の中でやけに静かにこちらを見ていた。


 千景がイリーナの前で足を止め、まっすぐに告げる。


「北方連邦の留学生団に、6月13日の交流模擬戦を申し入れる。騎手は鷲宮千景。竜は貸し出し竜、天野カケル」


 雨音が一拍、間を埋めた。俺は横で小さく頭を下げる。やけに丁寧な角度になった気がする。


 軍人の姿勢のまま、千景の申し入れを最後まで聞き終える。


 そして、背筋を伸ばした。


「規則に従い、模擬戦の申し入れを受諾したことを、ここに通知する」


 声は報告調で、雨音の隙間をまっすぐに切った。


 イリーナの水色の目が千景の隣に立つ俺を一度だけ見た。値踏みというより、棚の荷札を確かめる目だ。それから視線を千景へ戻す。


「ワシノミヤ。誇りのない竜に乗って、勝てると思うのか」


 雨音の隙間を切る報告調。棘というより、事実の確認だった。俺は特に何も感じなかった。いや、少しだけ腹の底が冷えたか。でも慣れている。見くびられるのは、もう。


「勝つ」


 千景はそれだけ答えた。一文。迷いの欠片もない。イリーナはしばらく千景を見ていた。それから小さく顎を引き、踵を返す。黒い外套が廊下の薄暗がりに翻って、一定の足音が遠ざかっていく。振り返らない。


 俺は小さく息を吐いた。誇りのない竜、ね。そう見えますよね。否定はしない。俺の誇りはたぶん、あの人たちが思う場所には置いてない。


 隣で千景が動かない。窓の外の雨を見たまま黙っている。


◇


 雨の音は夕方になっても弱まる気配がない。格納庫の前の掲示板に、濡れた紙が1枚増えていた。6月13日の交流模擬戦の組み合わせ表だ。


 俺は人の姿でその前に立った。雨粒が紙の端を叩いて、インクがにじみかけている。上から順に目で追う。


 そこで指が止まった。


 対戦相手の欄にあの白銀の特大型の名前が書いてある。北方連邦の、イリーナの後ろにいつも控えていた、あの無表情の竜だ。へえあいつ、そんな名前だったのか。一度も声を聞いたことがない。騎乗のときもまるで銅像みたいに黙って、イリーナが乗るのを待っている。名前を知ったのは、これが初めてだ。


 俺はそれから最後の行へ目を落とした。


「天野・鷲宮組 対 ヴォローニン・オルロワ組」

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