第17話 白銀の特大型
6月11日、木曜の朝。雲が低い。富士の影すら見えない。空全体に湿った布を被せたみたいな曇天だった。
演習場の芝は昨日までの雨をたっぷり含んで、踏むたびにじゅくと音がする。俺は竜の姿になって、首を低く差し出した。係の手で計測鞍が載せられる。安全帯が締まる感触。
千景が近づいてきて、俺の首の付け根に手を当てた。指先は今日は冷たくない。雨の湿気を吸ったのか、少しだけしっとりしている。
「乗せてください」
「喜んで」
千景が鞍にまたがる。背中に彼女の重心が乗った瞬間、尾の先がぴくりと動く。止めようとする。止まらない。今日も元気に振り切れそうだ。
離陸は静かだった。翼を二度、三度と叩いて芝を離れる。湿った空気が翼の下を抜けていく。上昇するほど雲が近い。低い雲底はすぐ目の前に迫っていた。これ以上は上がれない。俺は高度を抑えて演習場の上を大きく旋回する。
飛びは悪くない。いやかなりいい。千景の重心は鞍の真ん中に安定している。手綱の張りも一定だ。緩みも固さもなく、俺が右へ傾ければ右の手綱がわずかに張り、左へ戻せばすっと緩む。まるで空気の道を指でなぞられているみたいな滑らかさだった。
だけど、と俺は思う。
彼女の両脚が、俺の胴を締めすぎている。
鞍の前のほう。膝から太ももの内側にかけて、体重を支える以上にぎゅっと締めつけてくる。空気を押し込むように。自分の位置を確かめるように。その力は一定で、緩む瞬間がない。手綱はあれほど滑らかなのに、脚だけが無意識に固い。
千景はたぶん、自分で気づいていない。落ちるのが怖いのか、それとも何かを抑えているのか。そこまでは分からない。分からないが、これはいつもの千景とは違う。
言おうか、と思った。鷲宮さん脚を緩めてください、と。それだけで彼女の重心はもっと楽になる。飛びはさらに良くなる。でも、言えば崩れる気がした。手綱も、呼吸もあの細い背筋も、一気に。
俺は何も言わなかった。言う代わりに、羽ばたきを一段ゆっくりにした。旋回を少しだけ大きめに取る。背中の水平を保って、彼女の脚の力が抜けるのを待つ。風が雲の下を滑る。芝の上に俺たちの影が流れていく。
千景の脚は、やっぱり緩まなかった。
30分が終わった。俺は旋回をほどいて芝へ降りる。後ろ脚から着いて腹を落とす。どん、と衝撃が背骨を抜けて安全帯の締まりがふっと緩む。千景は鞍から降りた。着地の音がやけに軽い。
梶原が端末を掲げたまま、規則の文の調子で読み上げる。
「天野・鷲宮組。同調率85%。騎乗時間85分、遅れ0.15秒」
眼鏡の奥の目がすっと数値の列をなぞった。それから小さく頷く。合格、というには地味すぎる頷きだった。でも梶原の頷きはいつもあれくらいが精一杯だ。俺はそれでいいと思っている。前世の整備場でも、親方の「よし」はだいたい鼻の先で終わっていた。
千景が手袋を外しながら、短く言った。
「……記録する」
それだけだった。右手を左手で包んで、もう歩き出している。振り返らない。あの脚のことは、たぶん最後まで気づいていない。そのまま、まっすぐ格納庫のほうへ歩いていく。湿った芝を踏むたびに、その歩幅が一定なのがちょっとだけ腹立たしい。いや、腹立たしいというかまあ、そういう人なんだよな。
俺は伏せたままその背中を見送った。言おうとした言葉が喉の奥でしなびている。鷲宮さん、脚。たった一言だ。一言が出てこない。情けない。E判定のくせに、口だけは達者なつもりだったんだけどな。
曇り空の下、翼の先から雫がひとつ落ちた。
◇
夕方の講義棟1階は湿った空気がまだ廊下に残っていた。休息を終えて人の姿に戻った俺は、真田と自販機コーナーへ飲み物を買いに来た。
その前で、黒い外套の背中が固まっていた。
イリーナ・オルロワだ。軍人の姿勢のまま、自販機の前に直立している。首をわずかに傾けて、上半分と下半分のボタンを見比べていた。
「……理解できない」
ぼそりと、報告調で呟いた。どうやら温かい飲み物と冷たい飲み物が同じ機械から出るという事実に、本気で驚いているらしい。
真田が俺の袖を引っ張る。
「お前、あれ。声かけるのかよ」
「かけるだろ」
俺は横に並んだ。イリーナは肩をぴくりとさせたが、姿勢は崩さない。
「オルロワさん、買うんですか」
「アマノ。……ああ。しかし、この装置の使い方が分からない。硬貨をどこへ入れるのか」
「ここです」
投入口を指すと、彼女は真剣な顔で小銭を一枚また一枚と押し込んでいった。ぴ、と音が鳴る。ボタンの列を水色の目が真剣に睨んでいる。俺は指先で目的のボタンを教えた。
「この青いのが冷たいやつです。赤いのが温かいやつです」
「色で分かれているのか」
「そうです。押すと下から出てきます」
イリーナは赤いボタンを押した。ごとん、と缶が落ちる。彼女はしゃがんで取り出し口を覗き込み、缶を取り出すとしばらく無言でそれを眺めていた。
「……1つで2つの温度。理解した」
「理解したんですか」
「理解した」
真剣な声だったので、俺は何も言わずに頭を下げた。
「……訂正する。これは、優れた機械だ」
ぼそりと、しかし真剣な声で言った。俺は思わず背筋が伸びた。缶1本でそこまで言われると、自販機も本望だろう。
隣で真田がぷっと吹き出しそうになって、慌てて横を向いた。肩が小刻みに震えている。笑うなよ。俺だって笑いそうなのを我慢してるんだから。
イリーナは缶を片手に持ち替えると、軍人の歩き方で廊下を去っていく。黒い外套の裾が、湿った空気の中でわずかに揺れていた。振り返らない。あの背中はいつも、次の命令を待っているみたいにまっすぐだ。
「……あの人、ほんとに悪い人じゃないんだよな」
「お前の基準はよく分からん」
真田が笑いを引っ込めて、ぼそりと言った。
「そういや知ってるか。噂だと、あの白銀の特大型、99分もつらしいぞ」
俺は廊下の先を見た。もうイリーナの背中は見えない。代わりに、明後日の空に浮かぶ白銀の影を思った。あの巨体が、99分。こっちは85分。単純な持久力だけでも負けている。
しかも特大型の急降下は重いほど速い。質量そのものが武器になる。あれと正面からやり合って、俺は最後まで飛んでいられるのか。
「……でかいなあ」
「お前が言うな」
真田のツッコミを聞きながら俺は自販機の前で缶の1本も買わずに立ち尽くしていた。湿った空気が、やけに重く肩にのしかかる。
◇
6月12日金曜の午後。空は曇ったままで、雲の底が朝より少しだけ低い。俺は人の姿で、訓練場の柵の外に立っていた。隣に千景がいる。じっと空を見ている。
柵の向こう、北方連邦の区画で白銀が動いた。ヴォローニンだ。あの巨体が地面を蹴って、まっすぐ雲の下まで登っていく。重いのに速い。速いのに、羽ばたきが少ない。あれだけの質量をどうやって持ち上げているのか、見ているだけでこっちの翼の付け根が痛くなってくる。
雲の下で白銀が止まった。一瞬、止まったように見えた。次の瞬間にはもう落ちていた。急降下だ。重さのぶんだけ速い。空気を割る音が遅れて柵まで届く。ずん、と腹に来る響きだった。
その背中でイリーナは微動だにしていない。重心はやや前、背筋は一直線。脚は強く一定に締めて、緩む気配がない。手綱は張りつめて短い。鞍の上に高く浮かせて座っている。
俺は柵にもたれたまま頭の中で並べてみた。鷲宮さんは重心がぶれない。静かで、精密で羽ばたきの角度まで読んでいるみたいに正確だ。浪速の堺さんは軽い。乗っているのを忘れそうになるくらい、鞍の上でふわっとしている。霧島先輩は深い。重い。背中に沈みこむみたいに座って、こっちが揺れる前に先に合わせてくる。
全部、違う。全部、その人たちの形だ。
俺は小さく呟いた。
「強くて正しい。なのに、あの竜の背中にいない」
千景は聞き返さなかった。振り向きもしない。ただ雲の下の白銀を見たまま、右手を左手で包んでいる。
風が柵を抜けていった。
千景が柵に手を置いたまま、短く言った。
「明日は速さで勝つ。上は取らない」
俺は空を見上げた。特大型の白銀が、あの質量で落ちてくる。あれの下に入るのは御免だ。上を取らせなければ、急降下の起点も潰せる。理屈は分かる。分かるが、それだけでは足りない予感が翼の付け根に残っている。
「あの、鷲宮さん」
千景の横顔がわずかにこちらを向く。
「明日、雲が低いと思います。上がないかもしれない」
湿った風が南から吹いて富士の頂のあたりに雲が寄りはじめていた。前世で空を見ていた癖だ。雲底が低い日は、上も下もない。逃げ場が消える。
千景はしばらく黙っていた。手綱を握る形のまま、右手の指をゆっくりと曲げる。指先が白い。それから、小さく頷いた。
「なら、下で速さを競う」
それだけ言って、千景は柵から手を離した。右手を左手で包み直して、もう歩き出している。濡れた芝を踏む足音が、やけに静かに響いた。振り返らない。俺は人の姿のまま、その背中を見送った。空気が湿っていて、彼女の背中までが薄く煙っているように見えた。雲は、もう富士の頂を食いはじめている。
◇
夕方の自由練習を終えて格納庫の前の芝に降りた。俺は竜の姿のまま腹を地面につけ、千景が鞍から降りるのを待つ。が、降りない。背中に乗ったまま手綱を握り直す気配がする。
風が湿って、富士の頂に笠をかぶせたような雲がかかっていた。笠雲だ。
格納庫の前を通りかかった梶原が足を止め、富士を見上げた。眼鏡の奥の目が、雲の底をなぞるように細まる。
「明日は雲が低い。上は取れない」
規則の文の調子でそれだけ言った。俺は首を返して背の上の千景を見る。彼女は鞍の上で、手綱を握ったまま動かない。その手が、また白くなっている。指先に血が通っていないみたいに。
俺は何も言えなかった。言わなくても、背中で分かる。千景は明日の空を、もう一人で睨んでいる。
◇
6月13日土曜の午後。曇天。雲の底は朝よりさらに低く、演習場の芝の匂いが湿って重い。観客席には学生が詰めている。学内配信のカメラが三脚を並べ、下では救助竜が伏せて待機していた。梶原が競技委員の席に立つ。
千景が俺の首の付け根に手を当てた。指先は冷たくない。
「乗せてください」
「喜んで」
係の手で計測鞍が載る。安全帯を留める音が、かちりと鳴った。鱗標を3つ。背にひとつ、左翼にひとつ右翼にひとつ。軽い樹脂の板が鱗に触れる。千景が鞍にまたがる。重心が乗る。尾の先がぴくりと動く。止まらない。
千景が鞍にまたがった直後、俺は背中で気づいた。両脚が、また締まっている。木曜の評価飛行と同じ強さで、ぴたりと一定のまま緩まない。
あの日、言えなかった。鷲宮さん脚を緩めてください。たったそれだけのことが、今日も喉の奥でつかえたまま出てこない。言えば、この静かな空の下で何かが崩れる気がした。
俺は何も言わなかった。
格納庫の壁に据えられた大きな画面に、両組の同調計の瞬間値が映った。俺は地上から見上げた。数字が並ぶ。俺たちの枠と、白銀の枠。まだ試合前だというのに、会場がしんと静まる。
二騎が離陸する。湿った空気を翼で割って、低い雲の下へ。白銀の巨体が左にいる。雲底がすぐ上にある。上も下もない空だ。
向かい合う。風が抜ける。
号砲が鳴った。
同調計は、85を指していた。




