第18話 落ちた数字
号砲の残響が雲の底に吸い込まれていく。上はない。見上げれば白い膜がすぐそこにあって、俺たちは蓋をされた鍋の中を飛んでいるようなものだった。
白銀の巨体が左から迫る。重いのに速い。初動の一瞬、あれだけの質量が羽ばたき3回で加速するのだから理屈が合っていない。だが数字は正直だった。格納庫の壁の大画面に、両組の瞬間値と公式値が並んでいる。向こうの遅れ、0.55秒。こっちは0.15秒。俺のほうが0.4秒だけ早く動ける。その差だけが俺の取り柄だ。99分の相手と85分で持久戦をやるなんて、最初から考えていない。
俺は右へ傾けた。手綱がすっと緩む。千景の重心が真ん中で微動だにしない。脚は相変わらず締まったままだ。だが今日は、その締まりが俺を押し出してくる。固定されている。ぶれない。なら、その固定をそのまま速度に変えるだけだ。
白銀が急降下の姿勢に入った。あの質量で落ちてこられたら、まともに受けるのは御免だ。俺は翼を畳んで内側へ潜り込む。潜り込む先は、あの巨体の胴の真横。急降下の起点から死角になる位置だ。ずん、と空気の壁が背中を叩く。白銀の翼が俺の尾の先をかすめて通り過ぎた。ひやりとする。が、当たっていない。向こうは俺より0.4秒遅れて動いている。その0.4秒が、今日の俺の命綱だ。
「右翼、見えている」
千景の声が背中に落ちてきた。低くて短い。俺は答える代わりに、さらに内側へ切れ込んだ。白銀の右翼が目の前に広がる。鱗標がひとつ、白い板のように光っている。千景の騎杖が俺の背中で動く気配がした。鞍がわずかに沈む。彼女が前へ体重を寄せた。
俺は翼を打った。白銀の巨体が上へ逃げようとする。させない。雲の底が低い。上へ逃げる隙間は、もう半分しか残っていない。俺はその隙間を先に塞ぐように、白銀の右翼の真上へ跳ね上がった。
千景の騎杖が振られた。空気を割る短い音。ぱん、と乾いた音が雲の下に響く。
白い板が割れた。
「右翼、鱗標。天野・鷲宮組」
梶原の声が競技委員席から規則の文の調子で流れた。その声が終わるか終わらないかのうちに、観客席がどよめいた。ざわと波が立って、それが一気に大きくなる。上は取れない。持久力でも負けている。E判定の貸し出し竜。その俺が、最初の一撃を入れた。
俺は背中で千景の息がわずかに上がるのを感じていた。脚の締まりは、まだ緩まない。
白銀が上へ逃げた。俺は追わなかった。追えば雲に張りつく。あの巨体が雲の底すれすれまで登って、そのまま止まった。止まった。まずい、と思った瞬間にはもう遅い。
真上から落ちてくる。
重い。速い。空気の膜が上から押し潰すように降りてくる。
背中の千景の拳が、手綱を握ったまま固まった。動かない。握り直しもしない。白い。指先まで白い。
両脚が、さらに締まった。今までの一定の力じゃない。きりきりと、俺の胴を縛るように。
呼吸が、止まった。背中に乗っている人間の呼吸が、止まるのが分かる。乗せている側には、それが分かるんだ。
千景の体が俺の羽ばたきとずれた。一拍。たった一拍、彼女が俺の動きに遅れた。あの、空気の道を指でなぞるみたいな滑らかさが、消えた。
俺は翼を打った。が、判断が遅れた。どこへ逃げる。上はない。横は開いている。開いているはずだ。なのに足りない。
降下の途中で、格納庫の壁の大画面が目に入った。瞬間値だ。
85。78。70。
見るんじゃなかった。数字が減っていくのが、はっきり見えた。俺の反応が遅れていく。羽ばたきと羽ばたきの間に、余計な間が空く。あの0.4秒の差が、逆に削られていく。
遅い。
影が落ちた。白銀の翼が俺の背を覆う。イリーナの騎杖が振り下ろされる。空気が裂ける音。ぱん、と乾いた音が今度は俺の背中で鳴った。
「背、鱗標。ヴォローニン・オルロワ組」
梶原の声。観客席がざわめく。俺は体を捻った。遅い。捻りが足りない。白銀の巨体がもう横にいる。逃げる先を、あらかじめ塞がれていた。
騎杖が、もう一度振られた。
「左翼、鱗標。ヴォローニン・オルロワ組」
白い板が、割れた。
残りは鱗標1つ。右翼にひとつ。背も左翼も、もう白い板はない。
勝ち筋を数えるのをやめた。数字を数えるたびに、背中の千景の呼吸が細くなっていくのが分かったからだ。彼女の拳はまだ手綱の上で白い。両脚は縛るみたいに締まったままだ。この状態で急旋回をしたら、鞍の上で彼女がずれる。ずれたら終わりだ。鱗標より先に、俺の乗せている人間が崩れる。
だから俺は、勝つことより千景が鞍からずれないことだけを選んだ。
俺は右へ大きく体を傾けた。傾けながら、背中の水平だけは絶対に崩さない。遠心力がかかる。千景の重心が外へ流れかける。その流れを、翼の角度で殺す。彼女が押し戻される形になって、鞍の真ん中に戻る。ずれない。よし。
「鷲宮さん。脚、そのまま。俺が合わせます」
声を、手順を読み上げるみたいに平らに出した。梶原の規則の文の真似だ。感情を抜くと、背中の人間も呑まれにくい。千景は答えない。でも脚の力が、ほんの少しだけ締まりの種類を変えた。縛る力から、しがみつく力に。
白銀が真上から落ちてくる。重い。速い。俺は落ちてくる先を先に読んで、その斜め下へ滑り込む。ずんと空気の壁が背を叩く。白銀の翼が俺の尾をかすめる。当たらない。削られて残った差。その差だけを、今日は全部座りに使う。
逃げる。かわす。傾ける。戻す。白銀が三度、四度と落ちてくる。そのたびに俺は千景の重心を拾い直す。鞍から伝わる重みが、真ん中から外れないように。手綱の張りが、途切れないように。
観客席のざわめきが遠い。霧雨が鱗の上で細かく弾けている。
号砲が鳴った。15分。終わりの音が、雲の底に吸い込まれていく。
俺は旋回をほどいて芝へ降りた。後ろ脚から着いて、腹を落とす。どんと衝撃が背骨を抜ける。鞍の上で千景が前へ傾ぎかけて、それでも両脚でこらえた。ずれていない。最後まで、ずれなかった。
梶原が端末を掲げたまま、規則の文の調子で読み上げる。
「天野・鷲宮組、残り1。ヴォローニン・オルロワ組、残り2。ヴォローニン・オルロワ組の判定勝ちとする」
負けだ。分かっていた。分かっていたけど、背中に乗っている人間が崩れなかったことのほうが、今の俺にはずっと重かった。
格納庫の壁の大きな画面に、公式値が映った。81%。木曜は85だった。数字が、減っている。俺は伏せたままその数字をしばらく見ていた。
鞍から降りたイリーナ・オルロワが、まっすぐ千景の前に立った。黒い外套の裾が湿った風にわずかに揺れている。
「判定は自分たちの勝ちである。誇りのない竜に負ける気はしなかった」
報告調の声が霧雨の降る演習場に静かに落ちた。俺は竜の姿のまま腹を地面につけ、首だけを起こしてそれを見ていた。言い返す言葉はなかった。言い返すだけの鱗標も、数字も今日の俺には残っていない。
けれど、イリーナの水色の目が最後まで鞍に座ったままだった千景に、一拍だけ長く止まっていた。勝者としての確認というより、何かを確かめるように。何の意味かは分からない。分からないまま、その視線はすぐに外れた。
白銀の巨体が俺の後ろで静かに翼を畳んでいた。ヴォローニンが無表情のまま、俺の尾の先をちらりと見た。一瞬だけ。それから、何も言わずに目を逸らした。あの銅像みたいな竜が、今日初めて俺のどこかを見た気がした。尾の先は、まだ勝手に揺れている。止まらない。止められない。
鞍から降りた千景が濡れた芝の上に立っていた。右手を左手で包んでいる。指先が白い。手綱を握っていたときのまま、血が通っていないみたいに。
「鷲宮さん」
声をかけると、千景は振り返らなかった。背中を向けたまま、かすかに首だけ傾けた。俺は竜の姿のまま、その背中に言った。
「鷲宮さんのせいじゃない」
千景は何も言わなかった。答えないまま、数秒だけ立ち尽くしていた。霧雨が彼女の肩に細かく降り積もって、それからようやく足を動かした。濡れた芝を踏む音だけが、やけに遠く響く。
振り返らない。その背中は、最後までまっすぐだった。俺は腹を地面につけたまま、その背中が薄い霧に溶けるまで見ていた。
◇
その夜。人の姿の俺は格納庫に一人残って、鞍架の鞍を油の布で磨いていた。ごし、ごし。手を止めると今日の空を思い出す。あの真上から降りてきた影と、白くなっていく千景の拳と81という数字。だから止めない。磨く。磨いて、磨いて布が黒ずんでいくのだけを見ている。
騎手が脚を締めていた理由を俺は最後まで点検できなかった。あの一言を言わなかっただけで、あの数字はもしかしたら残っていたかもしれない。そう思うと手が止まりかける。止める。また磨く。
足音がした。乾いた一定の足音だ。振り返ると鳳先生が立っていた。白いあごひげ、曲がらない背。もう消灯が近いというのに、講義棟のほうからわざわざ来たらしい。
「小僧。まだそんなものを磨いているのか」
「はい。今日の分を、きちんと片付けないと」
鳳先生は俺の手元をしばらく見ていた。それから、短く言った。
「数字が落ちたのは、騎手が乗っていた証拠だ。空の背中に、数字は出ん」
俺は布を持ったまま顔を上げた。意味を聞き返そうとして、口が開きかけた。が、鳳先生はもう背を向けている。足音が、床をこつこつと遠ざかっていく。振り返らない。
「鳳先生、それ、どういう」
声は届かなかった。いや、届いていても止まらなかっただろう。あの背中は、答えるために来ていない背中だった。
格納庫の扉が閉まる。こつこつ、と音が廊下へ抜けていく。俺は鞍架の前に立ち尽くして、油の匂いの染みついた布を握ったまま、しばらく動けなかった。消灯まで、あと少しだった。
◇
6月14日、日曜の朝。雨は上がっていたが、空はまだ灰色のままだ。俺は人の姿で格納庫の前の掲示板の前に立っていた。
日曜の朝だというのにもう誰かが見に来たのか。いや、そんなことはどうでもいい。俺は自分の欄を見た。貸し出し竜、天野カケル。その枠にずらりと並んでいた「鷲宮」の字が――ない。
千景の名前があった6月の残りの枠、15。全部、空いていた。
消した人間の名前は書いていない。書いてあるわけがない。ペンの跡だけが、少しだけ紙を凹ませている。俺は指を伸ばしかけて、やめた。何も言えなかった。言う相手も、言う言葉も喉の奥で止まっていた。
15の枠が、白かった。




