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第19話 私専用になれ




 6月15日、月曜。朝から雨で、午前の屋外の実習は中止になった。昼すぎに雨が霧雨に変わり、午後の予約の枠は飛べることになった。


 俺は格納庫の前の掲示板の前に立っていた。雨に濡れた紙が、わずかに波打っている。貸し出し竜、天野カケル。昨日まで白かった6月15日の千景の枠に、三輪あずさの名前と知らない騎科の女子の名前が入っていた。俺はしばらくその文字を見ていた。誰かが書いたなら、もうそれで動くだけだ。俺は首を振って、竜の姿に変わった。


 午後。霧雨が芝をしっとりと濡らしている。三輪が近づいてきて、俺の首の付け根に手を当てた。


「乗せてください」


「喜んで」


 鞍にまたがる。背中に重心が乗る。尾の先が、ぴくりとも動かない。あれと思う間もなく、いつものように翼を打った。霧雨の中を30分、いつもどおり飛ぶ。三輪の座りは浅い。膝で抱えこんで、拳が上下する。でも俺はちゃんと合わせる。背中の水平を保って、彼女がずれないように。そのはずなのに、口数が少ない自分がいた。三輪も何も言わない。雨音と翼の音だけが、やけに近い。


 降りて、鞍を外されたあと、芝に伏せたままの俺のところへ真田が来た。じっと俺の尾を見ている。


「お前、尾が揺れてない」


 俺は何も言えなかった。


◇


 夕方。雨がまた強くなっていた。格納庫の屋根を叩く音が、ドラムを鳴らすみたいに規則正しい。俺は竜の姿になって床に伏せ、真田に鞍を載せてもらっていた。


「ちょっと前だ。まだ肩が入ってる」


「こうか」


「もうちょい後ろ。……そう、そこ」


 真田は人の姿で俺の胴に回した帯に指を2本入れて締まりを確かめる。うん、と小さく頷いて次は前の帯へ回り込んだ。地味な作業だ。でもこの地味が飛びを支えている。前世の整備場でも、地味な締め付けが命を支えていた。俺はそういうのが嫌いじゃない。


 雨音の向こうで、格納庫の入口の戸が開く音がした。


 濡れた傘が、まず見えた。柄を握る手が白い。その手の持ち主が、傘を畳んで立てかける。水が床に小さな池を作った。


 鷲宮千景だった。制服の肩が濡れている。髪の先から、しずくがひとつ落ちた。


 その手に、1枚の書類があった。


 千景はまっすぐ俺のところへ来た。足音が一定だ。いつもの、湿った芝を踏むときと変わらない歩幅。俺の顔の前まで来て、立ち止まる。見下ろされる形になって、俺は首を上げた。俺の琥珀色の目に、雨のにおいのする彼女が映る。


 千景は書類を広げた。


「天野。私専用になれ」


 俺の鼻先で、紙がぴんと張られる。濡れていない。彼女はこれを、傘の下で守って持ってきたらしい。


 紙の右上に、見たことのある家印が押してあった。鷲宮の家紋だ。専属契約の申込書。竜の欄には、俺の名前が活字で並んでいる。天野カケル。空欄だらけの紙の中で、そこだけが埋まっていた。


「これは要請ではない」


 顔は平板だった。命令の口調そのものだ。声の高さも、速さも、いつもの千景だ。


 なのに声だけが、震えていた。


「…………」


 俺は何も言えなかった。喉の奥が、乾いた音を立てた。


 書類がぴんと張られた、その直後だった。


 俺の尾が、勝手に動いた。


 ぴくり、では済まない。どんと一度床を叩いて、それから全力で左右に振れはじめた。ががん、ががんと格納庫の壁際の工具棚を叩く。鉄の棚が悲鳴を上げる。上段のスパナが跳ねて、床に落ちてちゃりんと派手に鳴った。ドライバーが続いて転がり、ちーんと耳障りな残響を残す。俺は尾の付け根に力を込めた。止まれ。止まれよ。命令は効かない。尾は俺の意志なんて聞いちゃくれない。こいつはいつも正直すぎるんだ。よりによって、こんな時に。


「尾!」


 真田が叫んだ。早口の悲鳴みたいな声だった。棚に両手を回して押さえ込む。がたがた、と棚が揺れてまたスパナがひとつ落ちた。真田が俺を睨む。


「お前の尾! 棚ごと倒す気か!」


「止めようとしてる! 止まらないんだよ!」


「毎回それ言ってる!」


 そのとおりだった。反論できない。俺は尾を床に押しつけようと腹に力を入れた。が、尾の先はますます元気に跳ねて、真田の足元のバケツを軽く蹴った。からん、と虚しい音が格納庫に広がる。


 その音の向こうで、千景が動かなかった。


 書類を広げたまま俺の尾を見ている。あの、勝手に振り回る灰青の尾を。顔は平板なままだ。眉も動かない。口も結ばれたまま。呆れているのか、引いているのかそれとも別の何かなのか、俺には読めない。


 ただ、書類を持つ彼女の指だけが、白かった。


 紙の端を摘まむ親指と人差し指。そこだけ血の気が引いて、薄い紙の色に負けそうなくらい白い。雨のしずくが髪から落ちて、その手の甲を伝った。千景は尾から目を離さない。指は白いままだ。


 尾がようやく落ち着いた。最後にびたんと一度床を叩いて、それからしゅんと力なく垂れる。工具棚はまだかたかたと小さく揺れていた。真田がふうっと息を吐いて、棚から手を離す。


 俺は竜の姿のまま、首を千景に向けた。口の端がたぶん笑っていたと思う。


「俺、貸し出し竜なんで」


 冗談みたいに軽く言った。いつもの調子で。


 言ったあと、一拍あった。


 自分の口の中に、何かが引っかかった。言葉が喉の奥で折れて、小さな棘みたいに残っている。何が引っかかったのかは、俺にも分からない。分からないまま、俺は黙った。


 千景は書類を下ろさなかった。俺の鼻先で、まだぴんと張ったままだ。白い指が端を摘まんだまま、動かない。


 真田は何も言わなかった。いつもの早口も、ツッコミも出てこない。ただ黙って、俺の尾の先と千景の手元を順番に視線で往復させている。雨が屋根を叩く音だけが、格納庫に残っていた。


 千景は、ゆっくりと書類を下ろした。俺の鼻先から紙が離れていく。彼女はそれを、きっちり2つに畳んだ。端と端を合わせて、指の腹で折り目を強く押す。白い指に、折り目の跡がくっきりと残った。


「ならば、翼競べに勝ってお前を借り切る」


 命令の口調だった。声は震えていない。もう震えていなかった。その代わり、目がまっすぐ俺を見ていた。負けた直後のあの濁った目じゃない。射抜くみたいな、薄い光の目だ。


 千景は背を向けて、格納庫の入口へ歩き出した。傘を取らない。雨の中へ出ていく。俺は鞍を載せたまま、のそりと首を伸ばして入口から外を覗いた。


 掲示板の前に、千景が立っていた。


 雨が、彼女の肩を叩いている。傘も差さずに。貼られた予約表は、雨に濡れて紙が重く波打っていた。7月25日、翼競べの日。午前の枠が白い。千景の名前は、昨日、6月の枠と一緒に消えていた。午後の枠には三輪の名前が残っている。


 千景はペンを出した。


 キャップを外して白い枠にペン先を当てる。雨のしずくが紙に落ちるたび、インクがわずかに滲む。それでも彼女は書く。「鷲宮千景」と。1画ずつ、強い筆圧で。紙が凹むほど強く。まるで、消えた名前をもう一度そこに刻みつけるみたいに。


 俺は入口から首だけ突き出したまま、その背中を見ていた。雨が彼女の髪を濡らし、背中を濃く染めていく。それでも千景は振り返らない。書き終えたペンを握ったまま、自分の書いた文字をじっと見下ろしていた。


 尾の先が、また動いた。


 今度は、棚を叩くような暴れ方じゃない。ぴくり、と一度だけ跳ねてそれからゆっくりと左右に揺れている。止まらない。止められない。雨音だけが、格納庫の中まで湿って届いていた。


 千景はペンをキャップに戻した。白い枠に残った自分の名前を、もう一度だけ指の腹でなぞる。それからペンを制服の内ポケットにしまい、濡れた紙の端を押さえていた手を離した。寮のほうへ歩き出す。雨をまともに受けて、肩も髪もすでに濃く濡れている。それでも歩幅は一定だった。湿った砂利を踏むたび、小さな水音が規則正しく鳴る。


 数歩行ったところで、千景が立ち止まった。


 振り返らない。背中をこちらに向けたまま、雨音に混ざるくらいの声で言う。


「……27日、土曜の夜間飛行の枠を取った」


 俺は入口から首を突き出したまま、間の抜けた声を出した。


「え」


 27日。今月の最後の土曜だ。


 千景は背中を向けたまま、もう一言だけ言った。


 雨が彼女の肩を叩いている。返事を待たない背中だった。


「……話しておくことがある」

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