第20話 十二歳の空
6月27日、土曜。夕方の光が寮の窓枠を橙色に焼いていた。梅雨の晴れ間。空が久しぶりに開けている。
俺は人の姿で制服の上着を肩に通した。袖を通す。襟を整える。必要ない。夜間飛行に制服の襟なんて関係ない。それでも整えた。整えている手が、自分のじゃないみたいだった。
真田がベッドに寝転がったままこっちを見てた。
「お前、点呼のこと考えてんのか」
「……うん」
「帰りが遅くなったら俺がごまかすから。寮長はあの人だから、まあ何とかなる。なるけど」
真田はベッドの上で起き上がった。
「お前、たまには自分の心配しろよ。E判定が夜間飛行って、お前は狂ってる」
ありがたい。ありがたいんだけど、こういうとき真田は余計な一言を足す。それが真田だ。俺は靴紐を結び直して、立ち上がった。
「ありがとう」
「……返事が普通すぎんだよ」
寮の廊下は夕方の光で橙に染まっていた。出口の扉に向かう。廊下の端、こちらへ歩いてくる人影があった。寮長の獅堂だ。口数の少ない温厚な巨漢が、いつものように静かに歩いてくる。
すれ違いざま、獅堂は足を止めずに、短く言った。
「消灯です。……俺は、何も見てません」
まだ消灯の時間じゃない。俺は一瞬口を開きかけて、閉じた。礼を言おうとした。言わなくていい背中だった。
外に出た。
夕焼けが西の空を焼いていた。富士の稜線が黒く切り取られて、その上だけがまだ橙色を残している。
格納庫へ向かう道を歩く。芝が夕方の湿気を吸って、靴の底をしっとり濡らしていく。
格納庫に入ると、当番机の上に白い紙が1枚。千景が先に来ていた。ペンを持ち、申請書の騎手欄を書き終えたところだった。
「竜の欄。書け」
紙を滑らせて寄越す。俺は人の姿でペンを受け取り、竜の欄に「天野カケル」と記入する。視界の端に、上の欄が入った。生年月日。6月27日。今日だ。
俺はペンを置いた。何も言わない。千景も何も言わない。格納庫の蛍光灯が2つの影を床に落としている。
壁の時計が18時50分を指していた。日没は19時ごろ。夜間飛行の枠は、日没後30分まで。
千景が時計を見上げ、ペンを置いた。
「行くぞ」
格納庫の前の芝で、俺は竜の姿に変わった。夕焼けが西の稜線に半分沈んで、空の色が橙から藍へと替わる手前だ。湿った芝が腹の鱗に冷たく触れる。
千景が同調計のない共用鞍を俺の背に載せに来る。胴に帯を回して、安全帯に指を2本入れて締まりを確かめる。黙々と、無駄がない。整備士の前世を持つ俺が見ても手際はいい。鞍の締まりだけはどうしても気になるたちだが、文句のつけようがなかった。
千景が俺の首の付け根に手を当てる。指の体温が鱗の奥に伝う。冷たい空気のなかで、そこだけが小さく温かい。
「乗せてください」
「喜んで」
千景が鞍にまたがる。背に重心が落ちてくる。尾の先が、ぱたりと一度だけ跳ねた。今日は静かな方だ。
俺は声を出して指差呼称する。整備場で覚えた癖だ。口に出して確認しないと気が済まない。
「鞍、よし。竜環、よし。手綱、よし。騎手、よし」
言い終わって、もう一回だけ繰り返す。
「騎手、よし」
千景が低く短く言った。
「……二回言った」
「点検は、念入りに」
千景は何も言い返さない。代わりに、手綱が一度だけ短く張った。
俺は翼を打った。腹の下から芝の匂いが遠ざかる。格納庫の蛍光灯の光が背中をかすめて、そのまま夕焼けの空へ出た。富士の裾野が橙から紫に沈みかけている。ゆっくりと高度を上げて、山の稜線に沿って飛ぶ。風は穏やかだった。翼の音だけが、規則正しく耳元で鳴っている。背中の千景は動かない。重心は真ん中。脚の締まりもいつもどおり。沈みかけた太陽が西の稜線に最後の光を残して、空の色が橙から藍へと塗り替わっていく。薄い雲の端が白く光って、すぐに闇に溶けた。
しばらく黙っていた。どのくらい飛んでいたか分からない。高度計はないから時間と感覚で測るしかない。背中の重みは一定で、手綱の張りも変わらない。俺は翼の角度だけを細かく調整して、巡航を続けた。藍色の空の下で、街の灯が遠く点々とつきはじめている。風の音も、街の音も、ここまで届かない。翼の音だけだ。
「12歳のとき」
背中から声が落ちてきた。低い。でもいつもの命令の調子じゃない。言葉の間が長い。俺は翼を打つリズムを変えずに、ただ聞いていた。
「母の竜に乗せてもらった。母の後ろに2人乗りで」
2人乗り。背中の千景の重心が、ほんのわずかに左へ流れた。すぐ戻る。でもその一瞬、手綱の張りが揺らいだ。俺は背中の水平だけを保つ。余計な動きをしない。風が頬を撫でる。空はもうほとんど藍色だった。
「その竜が」
千景の声が、一瞬途切れた。呼吸が浅くなるのが分かる。背中の温度がわずかに上がる。俺は翼を打つ回数を半拍だけ遅くした。風に乗る。浮力を保つ。崩さない。
「何の予告もなく横転した」
言葉が背中で震えた。千景の重心が右へ傾く。俺はすぐに翼の角度を変えてそれを拾った。落とさない。俺は何も言わなかった。
「私は落ちた」
「下で待っていた救助竜に拾われた。怪我はなかった」
声が平坦だった。平坦すぎた。怪我はなかった、の「なかった」が、過去のことみたいに響いた。俺は翼の角度だけ保って高度を落とさない。街の灯が少しずつ増えている。風が冷たくなっていた。背中の千景の体温だけが、冷たい空気の中でここにある。
「あとで知った。あの竜は、母を内心で憎んでいた」
声の調子が変わらなかった。変わらないことが逆に重かった。憎んでいた。背中に乗っている人間の口から出たその一言が、俺の背中の意味をまるごと変えていく。乗せている側が、乗せられている側を憎んでいる。俺は空の藍色を見ている。何も言わない。
「男竜は、背中で騎手を憎んでいる。……ずっと、そう思っていた」
千景の重心が微動だにしない。脚の締まりも変わらない。ずっと。ずっとそう思って、毎日俺の背に乗っていた。乗る側が、乗せられる側の心なんて分からない。俺は何も言わない。言えない。
沈黙。翼の音と風の音だけだ。街の灯が遠くでぼやけている。千景の呼吸が背中に伝わる。浅い。ゆっくり。浅い。空はもう完全に藍色で、西の稜線の上だけがかすかに光を残している。
「……怖かった」
一度だけ。低くて短い。命令じゃない。いつもの命令の調子じゃない。声が出た一瞬、背中の重心がわずかに縮んだ。小さくなった。まるで12歳のときの体のまま、ここに戻ってきたみたいに。
千景が長く息を吐いた。背中から温かい空気が流れていく。長い。吐ききるまでずっと吐いているみたいに長い。それから、背中の重みがほんの少しだけ前へ来た。
俺はそれを背中で受ける。
俺は口を開きかけて、閉じた。前世の整備場。空に上がれなかったこと。言いかけた言葉は喉の奥で丸まって、藍色の闇に溶けた。
代わりに、いつもの調子で声を落とした。
「乗せた人は落としません。それが俺の、たったひとつの仕事なんで」
冗談みたいに軽く言ったつもりだった。が、背中に乗っている人間が、何も言わなかった。否定も、命令も、何も。
長い間。
翼の音だけが、藍色の空で規則正しく鳴っていた。風の音が遠い。街の灯も遠い。背中の重みだけが、ここにあった。
「……証明しろ」
千景の声が落ちてきた。短い。命令の調子だった。が、いつもの刃物みたいな硬さがひとつもない。ただ、俺の背中にだけ向かって放たれた言葉だった。
その一言で、腹の底がすとんと据わった。いつもの口癖で済ませていたはずの言葉が、初めて誓いになった。背中の体温が、それをちゃんと聞いていた。
俺は返事の代わりに、一度だけ深く翼を打った。空気の壁を押しのける。風が頬を撫でて、高度がわずかに変わる。俺は格納庫へ向けて、ゆっくりと旋回を始めた。
芝に降り立つ。湿った草の匂い。背中の重みが消え、代わりに冷たい風だけが鞍の上を滑った。千景が静かに降りる。その足音が遠ざかるまで、俺は尾を一度も動かさなかった。
格納庫の灯りが漏れる。中に入ると、鞍架に見慣れない鞍が置かれていた。次の夜間飛行の枠。紺の鞍。大型の竜用だ。まだ新しい。
「翼競べの組み合わせは見たかい」
入口に、人の姿の御堂冬馬が立っていた。白峰はいない。冬馬の声は低く、揺れなかった。
「決勝まで上がってくるといい。……君の騎手を、空から降ろしてあげよう」
正面からの宣言だった。脅しでも嘲笑でもない。ただ、自分の力で落とすと告げるだけの静かな言葉。俺は竜の姿のまま、何も答えなかった。
背中にはもう誰もいない。なのに、さっきの「証明しろ」の重みが、まだそこに残っている。




