第6話 背中で媚びる竜
戦史の座学では、竜科の全員が寝る。
5月7日、木曜日。朝から霧が出ていた。窓の外の演習場は白く沈んでいて、富士山はどこにもない。
教壇には鳳玄一郎が立っている。76歳の老竜、元竜騎軍の竜曹長。禿頭に白いあごひげ、背筋は曲がらない。声は小さく、ぶっきらぼうだ。
「……高さを先に取った側が、勝つ」
鳳は古い戦役の空戦図を黒板に貼りながら言った。図には赤と青の矢印が何本も描かれていて、どれも上空から下へ向かって突き刺さっている。
「高さは、速度に替えられる。速度は勝ちに替えられる。逆はない。下から上へは、勝てん」
なるほど。それは前世の空戦でも同じだ。エネルギーを位置で貯めて、それを速度に変換して敵を撃つ。太陽を背負うのも、雲に隠れるのも、ぜんぶ高さをどう使うかの話だ。
教室は静かだった。というか、静かすぎる。
隣を見ると、真田が口を半開きにして眠っている。机に突っ伏して、よだれまで垂らしている。後ろの席では、竜科の首席も腕を組んで目を閉じていた。あいつ、寝るときも姿勢がいいな。悔しい。
竜科の全員が寝ている。正確に言うと、俺以外の全員が寝ている。講義開始から30分。教壇の鳳はというと、これがまた講義の途中で一度こっくりと居眠りをした。3秒ほど。目が閉じて、開いて何事もなかったように話を続ける。
「……例の戦役では、我が軍の竜騎は高空から襲った敵に敗れた。敗因は、高さを取る前に動いたことにある」
鳳の声は淡々としている。感情を込めない、報告書みたいなしゃべり方だ。
「……そこで、我が軍は方針を変えた。高さを取るための編隊を、先に出すようにした」
鳳が教卓の端に手をついて、教室全体を見渡した。
寝ている。
全員が。
鳳は何も言わない。怒りもしない。ただ、一つだけため息みたいな息を吐いて、黒板に向き直った。
「……高さを取れ。若いのは、それだけでいい」
鳳はそう言って、チョークを置いた。
そのとき、講義の終わりの鐘が鳴った。低く長い学院の鐘。教室の空気が、一斉にゆるむ。あちこちで「んあ」「おわった?」という声がして、机を引く音が重なる。
俺はノートを閉じて立ち上がった。
隣で真田が机から顔を上げる。頬によだれの跡がついている。
「……カケル、もう昼か」
「まだ昼前だ。お前、鳳先生の話ぜんぶ寝てたぞ」
「聞いてない。鳳先生の声、子守唄にしか聞こえねえんだよ」
真田は目をこすりながら、ふらふらと教室を出ていった。
教壇では鳳がひとり黒板の空戦図を剥がしている。誰も聞いていない講義の後片付けを、自分でしている。
俺が鞄を肩にかけたとき、鳳がこちらを振り向いた。
「おい、灰青の」
声は小さく、ぶっきらぼうだった。だが呼ばれたのは確かに俺だ。
俺は足を止めた。
灰青。それは俺の鱗の色だ。今の俺は人間の姿だ。鱗なんて一枚も見えていない。どこかで俺が飛ぶのを見ていたらしい。
「はい」
俺は振り返って、背筋を伸ばした。
「何でしょうか」
「なぜ起きていた」
鳳は黒板消しを教卓に置いてまっすぐ俺を見た。短い質問だった。詰問でも、叱責でもない。ただ事実を確かめる声。千景が格納庫で「なぜ揺れない」と聞いてきたときと、どこか似ていた。
俺は少し考えて、いちばん正直な言葉だけを選んだ。
「面白かったので」
鳳の白い眉が、ほんのわずかに動いた。
「面白い、か」
「はい。高さを先に取った側が勝つ。高さは速度に替えられる。速度は勝ちに替えられる。逆はない。……そのとおりだと思いました」
前世の知識のことは言わない。
鳳はしばらく黙って俺を見ていた。白いあごひげの下で、口の端がほんの少しだけ動いた。
「ふん」
鼻で笑った。軽蔑でも嘲りでもない。なんだろう、これ。認めたというより、値踏みが一段終わったみたいな笑い方だった。
鳳はそれ以上なにも聞かなかった。ただ黒板消しを手に取って、黒板に残った矢印の残骸をひとつ、ふたつと消しはじめた。
「行け」
背を向けたまま、それだけ言った。
「はい。失礼しました」
俺は頭を下げて、教室を出た。
◇
午後の実技は、格納庫から始まった。
朝の霧がうそのように晴れて富士がくっきりと立っている。空気はまだ少し冷たいが、陽射しはもう夏の手前みたいな強さだ。俺は竜の姿になって、格納庫の日陰で地面に伏せていた。
そこへ、聞き慣れた足音。
まっすぐで、一定で、迷いがない。鷲宮千景だ。彼女は俺の正面に立つと、今日も一拍だけ呼吸を整えて首の付け根へ右手を伸ばしてきた。
「……乗せろ」
低い声。命令形。一拍。
「……乗せてください」
言い直すまでの間がまた少し短くなった。声の細さも、最初のころよりずっと薄い。ひやりとした手のひらが鱗に触れる。触れたところだけ、じんと熱い。
「喜んで」
俺は首を上げて千景を見た。千景はもう俺の顔を見ていない。当たり前みたいな顔で鞍の位置を確かめている。その当たり前が、なんだか妙にこそばゆい。
地上係が計測鞍を置いて帯を締める。革がきゅっと鳴った。俺は声だけで一度、短く指差呼称を済ませる。
「鞍よし、竜環よし、手綱よし。騎手、よし」
千景は無言でまたがった。座りが深い。膝が胴を挟む。手綱は、今日もぴんと張ったままだ。この人の手は、どうにも休むことを知らないらしい。
「出します」
地面を蹴って翼を打つ。二度、三度。格納庫の屋根が視界の端を流れて落ちていく。演習場の芝が、眼下でいっきに広がった。
俺は翼を傾けて、ゆっくりと空を渡った。熱の柱を探す。舗装の上、日当たりのいい法面、水を張ったばかりの水田。あれだ。西の水田の上に、柔らかい上昇が立っている。
俺はそこへ滑り込んで、翼を広げたまま羽ばたきをやめた。
ふわり、と背中が浮く。上下の揺れが消える。鞍の上の重みが、すっと同じ場所に落ち着く。
千景の膝が、今日はもう緩んでいた。
座りが、馴染んでいる。この1か月でこの人はたぶん無意識に、俺の背中の形を覚えてしまったのだ。
手綱は、まだ張ったままだ。それは変わらない。でも、張り方が違う。最初のころは命綱を握るみたいだった。今は、何かを確かめるみたいに細く、まっすぐ引かれている。
水田が眼下に広がっている。鏡みたいな水面に、空と、白い富士と俺たちの影が映っていた。
「天野」
背中から声が落ちてきた。
「はい」
「今の高さで、あとどれくらい飛べる」
「この柱があるうちは、まだ。柱が尽きたら次の柱まで滑ります」
「……そうか」
短い返事だった。でもその「そうか」が、前よりずっと軽い。千景はたぶん、俺の返事を信じはじめたのだ。数字じゃなく、俺の声を。
それがわかった瞬間、胸の奥がじんと温かくなった。
だめだ。と思ったときにはもう遅い。
尾の先が、ふわ、と持ち上がった。
そこから先は、止まらなかった。左右にぶんぶん、ぶんぶん。水田の水面に映った俺の尾の先っぽだけが別の生き物みたいに元気に振れている。あの、影だけはやけに正直なやつめ。
そのとき、演習場の端の監視塔の上で誰かが手を叩いていた。
女の騎手がひとり、塔のてっぺんの手すりに腰を預けて立っている。胸に4年の騎章が見える。短めの髪。飛行服の袖を肘までまくって、日焼けした腕をしている。
俺を見て、笑っていた。
そして、ぱち、ぱち、と手を叩いた。乾いた音が風に混じって、遠くから届く。
声までは届かない。届かないけれど、口が動いたのは見えた。
「いいね」
そう動いた。はっきりと。
背中で、千景が身を固くした。
「……見られている」
低く、短く、絞るような声だった。
「尾を止めろ」
「止まりません」
即答した。我ながら早かった。
千景はしばらく黙った。手綱は、ゆるまなかった。
「……記録する」
千景が、ぽつりと言った。
「何をです」
「尾を振ったこと」
「やめてください」
「記録する」
「やめてください」
千景は答えなかった。手綱は張ったままだ。塔の上の騎手はまだ笑っていて、今度は片手を軽く上げた。挨拶みたいに。それから、ひらひらと手を振って塔の手すりから身を引いた。降りてはこない。名前も名乗らない。ただ見て、笑って拍手して、それだけで去っていく。4年にもなると、余裕というやつが違う。
◇
30分の実技を終えて、演習場に降りた。鞍を外してもらい、竜の姿のまま格納庫の裏の日なたへ回った。
俺はそこに伏せていた。飛び終わって、体の芯がまだほかほかしている。
そこで俺は気づいた。塀際の木箱に、人がひとり腰かけている。禿頭に白いあごひげ。背筋がまっすぐな老人。鳳玄一郎だ。
鳳は何も言わない。ただ、こっちを見ている。
見ている先は俺の顔じゃなかった。尾だ。飛び終わったのに、まだ揺れている。ふわ、ふわ、と。名残みたいに。
鳳は笑わなかった。笑いもしないし、咎めもしない。ただしばらく黙ってそれを見ていた。それから、木箱の上で片手を膝に置いてぽつりと言った。
「わしも若いころ、尾が止まらなかった」
短かった。報告書みたいな声だった。でも、そこにはたぶん慰めとか、そういうやわらかいものがほんの少しだけ混ざっていた。
俺は伏せたまま、顔だけ上げた。
「……鳳先生」
「なんだ」
「一つ、聞いてもいいですか」
鳳は答えなかった。
「乗られるのが嬉しいって、変ですか」
鳳は即答した。
「乗られて嬉しい竜の、何が悪い」
「……変じゃ、ないんですね」
「わしの若いころはな」
鳳が、木箱の上で足を組み替えた。
「乗られた日の晩飯が、うまかった」
俺は一瞬、何を言われたのか分からなかった。晩飯。乗られた日。うまい。
「……それ、どういう」
「そのままの意味だ。乗られた日は、飯がうまい。腹が減るんだ。で、食うとうまい。それだけだ」
鳳は淡々と言った。下世話な話すら、戦史の講義と同じ調子で。
俺はしばらく黙って、それから、ぶは、と噴き出した。竜の姿で笑うと、喉のあたりがごろごろ鳴る。かっこ悪いったらない。
「いや、だって、鳳先生がそんなこと言うとは」
「わしは昔からこうだ。変わってない」
鳳はふんと鼻を鳴らした。それから、木箱の上で背筋を伸ばして俺の尾をまた見た。
「尾は、まだ止まらんか」
「……止まりません」
「そうか」
鳳はそれだけ言ってしばらく空を見た。塀の向こうに、白い富士が半分だけ見えていた。雲がひとつ、その肩にかかっている。
格納庫の角から、聞き慣れた足音が近づいてきた。
千景の足音は、いつも迷いがない。
「天野、時間だ」
俺の正面で止まって、短く言った。人の姿に戻って、飛んだ時間の2倍休め、という規則の話だ。俺は伏せたままうなずいた。尾の先がまだ、ふわふわと揺れていた。
そのとき千景の目が、俺の背中越しに塀際の木箱へ動いた。
姿勢がすっと正される。腰から上だけ、きれいに折る。小さな会釈だった。
「失礼します」
鳳は何も言わない。木箱の上で片手を膝に置いたまま、千景を見もしない。見ないことが、たぶんこの人の返事なのだ。
千景は俺に一瞥もくれず、格納庫へ戻っていった。
鳳が腰を上げた。膝がぎしと鳴る。
「小僧」
灰青のじゃない。小僧、だった。呼ばれて、俺は顔を上げた。
鳳はあごひげを片手でしごいて、塀の上の空を見ていた。雲がひとつ、白い富士の肩を越えていくところだった。
「背中で媚びる竜、と笑われたことはあるか」
「……ありません」
「わしはある」
鳳はそれだけ言ってしばらく黙った。風が塀を越えて、油の匂いを運んでくる。
「抵抗12。世界で一番低い数字だと言われた」
俺は伏せたまま、動けなかった。
抵抗12。竜の側の数字だ。それが自慢なのか傷なのか、俺には分からない。ただ、この人がそれを笑い話のように置いていったことだけは分かった。
自分の背中の数字を、俺は初めて考えた。




